変化

「圧力……?」

 その様な物事に対して心当たりは無かった。それを云うならば、先程私の方が洸から圧力を感じたくらいだ。

「たった今見たと思いますが、彼女の勤勉さや真面目さは、大凡おおよそ生来の物もあると思われますが、私が客観的に見た限りでは……何だか、それだけではない様に思えるんです」

 机の上で両手を組んだ教師は、彼女を心から心配している様に見える。

 成程、これは本当に大変な教師だ。

「予習復習の風景だとかを、見た事はありますか? 机に向かってノートと教科書を開き、鉛筆で学習をしている。字面だけであればこちらとしても望ましい物だと称賛すらされるでしょう。けれど決して……あれは、そうでは無い」

 教師が、机の中に手を入れる。

 概ね、事前に用意をしていたのだろう。

 取り出したその手には、清水洸しみずほのかの名が表紙に書かれた授業ノートがあった。

 それを開いて見ると、5mm方眼の升目の一つ一つに、左上から右下に掛けて、びっしりと文字が書き詰められていた。

「自分の学習に一区切りが付くまで、誰かに声を掛けられようと、揺さぶられようと、一切取り合わないんです。それこそ、給食の時間になっても、その一区切りが付かない限り、米粒一つ口に含む事無く……私も見た事がありますが、彼女の周囲に、何やら燃え盛る炎の様な物が見えてくる様でした。完璧至上主義……いや、あれでは最早重度の強迫神経症です。勉学という分野のみにその『症状』が表れてしまうのは、決して健全とは言えません」

 確かに、これは普通とは云い難いだろう。

 しかし、俯き神妙な顔で話し続ける教師に対し、私の心内はどこまでも凪いでいた。

 ここまで一生徒を憂慮してくれる教師を持って、彼女は幸せ者だ。

「その原因は概ね、彼女の過去にあるだろうと思っています。歯に衣着せぬ言い方をするのであれば……母親の、虐待……」

 その言葉は、あまり聞き覚えが無い。

 今まで接してきた人々が意図的にその言葉を避けていたか、或いは元より知らなかったか。

 どちらにせよ、自ら足を踏み込んで話す様な事柄でも無い為、それも致し方の無い事なのだろう。

「以前貴女方が居た施設の方から聞く所によると、母親によって振るわれる暴力を、貴女がその一身で受け止め続けていたとか。私が思うに、母親の暴力に対する恐怖が、あの子の姿勢に表れているのではないかと、思わずにはいられないんです。そして……」

 教師が、顔を上げる。

 その穏健そうな気配を帯びる顔には、痛切な表情が浮かび上がっていた。

「彼女の小さな肩に伸し掛かっている物には、自身をその身で以て守っていた貴女に対する、罪悪感もある様に思うんです」

 罪悪感。

 そんな物をあの子が感じる必要は無いし、概ね感じてもいないだろうに。

 だが、今までに出て来た情報を鑑みるに、確かにそう考えても、可笑しくは無い。

「……有難う御座います。こんな、一生徒にそこまで深く考えてくれる教師を持って、あの子は幸せ者ですね。あそこにまで足を運んで頂いていたなんて……」

「いえ……それが、教師としての職責なので」

 教師の顔が、安堵に緩み始める。

 解ってくれた、と云う思いが滲み出る様だった。

「確かに、私と云う姉は彼女にとっては重圧の種かも知れません。私が意識をしていなくても、周りから比較されてしまう事もあるでしょう」

 視線を落とし、洸のノートを眺める。

 教師の云いたい事は解る。

『意識下でも無意識下でも彼女が圧力を感じている様に見えるから、貴女の方から彼女に歩み寄って訊いてみてはどうか』と、そう云いたいのだろう。

 ……では、私が洸に対して歩み寄る姿勢を見せて、更に彼女自身もそれを受け容れた場合———

 彼女のこの『努力』は、何処に行くのだろう。

「ですが、私はこれで良いと思います」

 えっ、と云う声が、幽かに聞こえた。

 てっきり自分が云った通りに動くと思っていたのか、私の返答が予想外だった様だ。

「あの子は、その肩に伸し掛かる重圧に負けまいと、これに残る文字の様に、弛まぬ努力を重ねているのでしょう? なら、私がそんな彼女に『もう良いのだ』と云って、彼女がそこで努力を止めてしまったら……この努力は、彼女の何処に行くんですか?」

「それは……」

 教師が、痛い所を突かれたと云う様な苦い顔で俯く。

 それを答えられないのなら、私に彼女を止める意味は何一つ無い。

「答えられないのなら、私は彼女を止めません」

 ノートを閉じ、教師に差し出す。

 彼女は、縋る様な眼でそれを見詰めていた。

「大丈夫ですよ。彼女は賢い子だし、しかもまだ若いんです。何か道を踏み外す様な事をしても、まだやり直せるんですよ」

 教師が、怖ず怖ずと洸のノートを受け取る。

 その最中にも、私は話し続けた。

「それはとても幸福な事です。あの子が貴方の様な教師と巡り会えた事も含めて、羨ましいくらい」

 教師がノートを開き、パラパラと音を立てて頁を捲っていく。

 その眼には、洸が延々と積み重ねてきた物の痕跡が映っていた。

「私は、大学生だから。大人なんです。もう、彼女の様にやり直す事は出来ない。だからあの子には、自分の思うが儘、自由に生きて欲しいんです」

「ですが……」

 そうだ。

 これは危険をも孕んでいる。

 自由に出来る。それは、やってはいけないとされる事も出来てしまうと云う事でもある。

「大丈夫ですよ。それであの子が災難に見舞われた時は、私が守ります。たとえ、それによって私が死ぬ事になっても」

 教師に向け、歯を見せて笑って見せる。

「それが、姉と云う物でしょう?」

 迷子の子供の様な眼をしていた彼女の瞳に、光が灯った。

 ……夏のきつい陽射しは、学び舎の中までは届き難い。

 自身の姉と教師が話す声を壁を隔てて聞きながら、彼女は下唇を噛んだ。

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