第12話 DArkSide〈下〉
外の匂い――土と草、それに空気が熱くなる前の冷気を孕んだ独特の匂い。
それに強い日差しが僅かに開いた窓から差し込んでいる。
……ごくありふれた夏の朝だった。
ふと目覚めた翠は携帯端末に手を伸ばし、時間を確認する。
土曜日、午前五時半。まだ早朝だ。
仕事明けで尚且つ朝の苦手な朱美は、あと数時間は眠っているだろう。
榎島家は静まり返っている。
一方で自分の意識は明瞭ですっきりとしており、二度寝の必要はなさそうだった。だから素直に布団から出て、薄手のカーディガンを羽織った。
これは自分だけの時間なのだ、と翠は思った。
寝台の上に座り、再び携帯端末を手に取るとメールやSNS、それにチャットアプリを確認していく。友人や知人からの連絡はあっても、春からの連絡はひとつも無かった。
溜め息を吐いて天井を、次に部屋の中を見渡す。
朝日に照らされた自分の部屋は、いつもよりきれいに整頓されている。
学校関連の品はまとめてカラーボックスへ、それ以外はクローゼットにまとめて収納しておいた。
机周りも片付けられており、残しているのは家族や友人、闘病仲間と撮った写真と写真立てのみだ。
机の横には大きめのキャリーケースが用意されていて、その中には自分で詰めた入院用の荷物が入っている。横に置いたサブバッグにも同様に荷物を詰めており、普段使いの財布や携帯端末、充電器など必需品以外はすでに一通り準備してあった。
翠の入院は週明けに迫っていた。
それなのに肝心の春からはこの一週間、連絡はなしの礫もない状態だ。
翠がいくら電話やメール、それにアプリで安否を問おうとしても、いっさいの返信がなかった。
でも、それは裏を返せばどの連絡手段も絶たれておらず、まだ彼とは繋がっているということを示していた。
ただ何らかの事情で春が返事をできないでいる――否、しないでいるだけなのだ。
「……あのばか。春さんの、大馬鹿」
携帯を寝台の端に放りなげ、一人ごつ。
「おれにはもう時間がないっていうのに。……ほんと、ばか」
あの夜。ミスを犯したのは春ではなく翠の方だった。
傷をもっとしっかり止血しておけば。自分が気をつけていれば。春があんなふうになることはなかったはずだ。
春はあの日話して聞かせてくれたルリという恋人との過去をまだ引きずっている。
すべてが自分のせいだと考え、背負い込んでいる。傷は生乾きのままなのだ。
その状態の春をああやって追い込んだのは翠自身だった。
それなのに。
春はきっとそれさえも自分のせいにしてあのがらんどうの家にたった一人で閉じこもっている。
翠を傷つけた、翠に見られてしまったとかなんとか、自分を責め立てる言葉を並べて、今も――。
ごめんなさい、と。それだけ言っても春は聞き入れてくれないだろう。
だって、悪いのは怪物である自分だと彼は決めつけている。
ただの謝罪と贖いの言葉では彼を救うことはもうできない。謝るだけではだめだ。
それくらい取り返しのつかない過ちを自分は犯してしまったのだ。
泣きそうな顔で「逃げろ」と告げた春の姿が脳裏に焼き付いて離れない。ひどく苦しそうで、悲しげな表情だった。あんな顔をきっと自分には見られたくなかっただろうに。
そうだ。何度もどうすべきか考えて、考えて、それでも答えは出なかった。
ただ、もうこのままにはしておくことはできない。
自分にも、彼にも時間はもうないのだから。
翠は気を取り直すと部屋から出て顔を洗い、軽く身支度を整えて台所に立った。
朱美が起きる前にスープとサラダを作っておこう。そう考え、水を入れた鍋を火にかけ、具材を切って用意していく。
あの日、ぼろぼろの姿で帰ってきた翠を見て、朱美はひどく驚き、憤っていた。だが優しく翠を介抱して寝かせると、翌日はじめて「あんたが話せる範囲で事情を話してくれる?」と訊ねた。
もうこれ以上の隠し事はしたくない。決心した翠はおおよそ自分に話せるすべてのことを朱美に打ち明けた。
翠の恋人――春に何らかの事情があることは朱美も前もって知っていたが、翠の話を丸切り信じてくれたかどうかは分からなかった。
ただ、朱美は「よく話してくれたね。ありがとう、翠」と言ってくれた。
いまのところはそれでいいと翠も思っていた。隠し事はしないということだけを守ることができれば、それでいい。
「……んん。おはよう、早いね、翠」
「ごめん、起こした?」
「いや、日差しで目が覚めただけ。あんた朝ごはんなんて用意してるわけ? よっと……わたしも手伝うわ」
「いいよ。今日はおれがやる。コーヒー淹れとくから、姉さんは新聞でも読んで待っていて」
自室から起きてきた朱美はまだ夜着のままだ。
「支度ができたら朝ごはん、一緒に食べてくれる?」
「わかった。お言葉に甘えます」
「腕によりをかけるから!」
「はいはい。指、切らないでよね、あと火傷も気をつけて。ほら、鍋が吹きそうだ」
苦笑した朱美は椅子に座り、新聞を広げる。
いつも通りに振る舞ってくれる朱美が、翠はひどく愛しく感じられた。
あと何回こうして朱美と食卓を囲むことができるだろう。
あとどれくらいこうして朱美と日常を営むことができるだろう。
……おそらく、もうあまり時間は残されていないはずだ。
だからこそ、翠は「いつも通り」朱美に接し、朱美も翠に接する。残された時間を慈しむように共に過ごすのだ。
「姉さん。今夜、おれ、出かけるから」
コーヒーを出しつつ、翠は今宵の予定を告げた。朱美が顔を上げる。
「それは……彼氏のところ?」
「うん。何ができるか考えたけど、わからなかった。だから」
「奇襲攻撃でも仕掛けることにした?」
朱美がさらりと言ってのけたので、翠は思わず笑顔になった。
朱美はなんでもお見通しだ。
「そう。ひきこもり野郎を引き摺り出してやるの」
「あんたらしいわね。上手くいくといい、というか上手くやりなさい」
「わかってる。ありがとう」
「帰らないでしょ、今夜。というか帰ってきたら怒るわよ」
「…………ん。その、そういうつもり、です」
「ほんと、ばかな子」
そういうと手を伸ばし、翠の髪を朱美はくしゃくしゃと撫でてくれた。そのままふわりと優しく抱きすくめられる。
「あんたみたいな妹、ぜったい他にいない。あんたが妹でよかった」
「おれも……朱美姉さんがおれの姉さんで、本当によかった」
朱美の体温はあたたかく、柔らかで、いい匂いがした。
ずっとおれのそばに居てくれたひと。唯一の家族。
翠は心尽くしの抱擁を朱美に返した。
「ほら、また鍋!」
「あっ、ごめん! サラダは大丈夫だけど、スープが焦げて不味かったら申し訳ない」
慌てて調理に戻る翠を朱美は笑って見守ってくれた。
こんな時間がずっと続けばいい。知っている。そんなのは叶わない願いだ。だが分かってはいても、そう願わずにはいられない時間が過ぎていった。
§
夕刻。茜色から藍色へと空の色が移り変わり、太陽が沈んだ後。
シャトー豊平弐番館、405号室。
目覚めた春は、しかしその場に蹲ったまま動こうとはせず、目と耳を塞ぐ。
もう嫌だった。なにもかも。肌を焼く陽光も、それを殺して夜が来るのも。
消えてしまいたい。それなのにそうできない。
ルリも、翠も、僕が傷つけてしまった。それに、自分はあの殉哉でさえ狂わせている。
ああ、全部、全部――すべてが僕のせいだ。
僕のせいで大勢が傷つき、死んでしまった。
罪は贖わなければならない。次の朝日を待って、この身を焼いてしまおうか。
何度そう考えたか分からない。もう数えるのもやめてしまった。
春が翠を襲った夜から一週間が経とうとしている。
春は〈proof〉での仕事を休み、夜が来ても外には出ず、自室に籠ったきりだった。
毛布にくるまり、ただ茫然と時をすごしている。
翠からは毎日電話やメール、メッセージが届いていたが、とても返事をする気にはなれなかった。自分が何を言っても、もうだめなのだと――また彼女を傷つけてしまうだけだと思っていた。
それに、いったいどの面を下げて彼女に会えばいいのだ?
もう翠の隣にいる資格なんてないのに――。
最後までそばにいるというあの約束。それを守れないのは心残りだが、それよりも翠を傷つけ、ルリと同じように怪物にしてしまう方が怖かった。
そうだ。自分は耐えられない。とても無理だ。
翠を失うなんて、きっと耐えられない。
ルリの時と同じようにまた永遠を与えようとするだろう。そうしたら、彼女もルリのように血肉を求め殺人に耽る怪異と化してしまう。それだけはごめんだった。
……だから、もう。
もう眠ろう。そして朝が来たら、今度こそ――。
その時だった。
ブザーの音が響いて、自宅の呼び鈴が押されたことを告げてきた。
まったく、こんなときに。おそらく業者かなにかの勧誘だろう。
春は無視を決め込み、より深く毛布を被り、目と耳を塞いだ。留守を装えばどうせすぐに帰るだろうと踏んでの態度だった。
しかし、二度。三度、四度。次々とブザーが鳴らされる。
これでは業者というより借金取りか何かの仕業だ。まったく迷惑な客に見舞われたものだ。内心で舌打ちをすると、ドアの向こうから声が掛かった。
「こらっ、春! 環波春さん! 中にいるのはわかってる。今すぐ毛布を捨てて出てきなさい、この精神的引きこもり!」
翠の声だった。
ドアの向こうでブザーを鳴らし、春を訪ねてきたのはなんと翠だった。
「もう一度言うけど、いるのは分かっているんだから! 早く出てこないとこっちから鍵を開けます! 合鍵を渡したこと、後悔させてやる。そうされたくなければ直ちにおれを部屋にいれてください」
翠。なぜ。逃げろと、もう来てはいけないと告げたのに。
「翠、さん。なんで」
「今返事をしましたね。そう断定します。なんで、とか実際に思いましたよね? 残念ですが、おれは諦めが悪いんです。そんなことはもう知ってるだろうけど」
毛布を被ったままでふらふらとドアの方に――翠の声がする方に這い寄る。
「……翠さん。なんで、どうして来たんですか。僕は、あなたを傷つけました。それに、怪物の本性を晒してしまった。きみにだけは見せたくなかったのに」
やっと、ドア越しにそれだけを告げる。
翠が息を吸い込む気配がした。
「ばっかじゃないの!」
「なっ、え……ば、ばかって、そんな軽いことじゃ」
「もういい。春さんが自分でドアを開けないなら今からそっちに行きます」
言うが早いか、がちゃりと音を立ててドアが解錠される。しかし、チェーンロックによって扉がかろうじて繋ぎ止められた。
「やっぱり! セルフネグレクト状態だ。髪とかひげとかちゃんとしてないし、その様子ならご飯だってろくに食べてないでしょう! ほら、早く観念して全部開けてください!」
「でも、僕は」
「でももクソもない! いいから開けろ、春さん!」
強い口調と眼差しに、眩しささえ覚える。
翠はこんなに生命力に溢れた娘だっただろうか。
「……わかった。わかりました、から。鍵もぎ取ろうとするのはやめて、ください」
一週間誰とも口をきいていなかったせいで、声が上手く出せなかった。自分の声を聞くのでさえ少し恥ずかしい気がした。
春は慎重な手つきで鎖を外す。
おそらく翠は自分を殴る気だろう。玄関の前に立っている翠は目に涙をためて、拳を握りしめている。でも、違った。
扉が完全に開くと、翠は恐る恐る一歩、二歩と踏み出し、最後は倒れ込むようにして春の胸に飛び込んできた。春はそれを受け止めた。重さはほとんど感じなかった。
ただ、薄く儚い体だと分かった。頼りのない、華奢な肩。簡単に手折れそうなほど細い腰。
「おれっ、ずっと、謝りたくて……でも、それは自己満足だって。自分がすっきりするだけだって、思ってた、けど。でも……ごめん、ごめんなさい。春さん。春さんはなにも悪くない。だから」
「……はい」
「だから、そうやってまるごと閉ざされると、おれ、どうしていいかわからくなっちゃうから。だから、せめ、て一緒に、考えさせてよ」
春の背にきつく腕を回し、翠が泣きながら告げる。
「春さん、がひとりで、全部抱え込まずにいられる、方法、おれも一緒に考えるから」
「……それ、は」
翠が顔を押しつけている箇所が熱い。涙と吐息で蕩けてしまいそうなくらい、熱い。
翠は生きている。まだ生きているのだ。
「……最後まで一緒に、いさせてよ」
「…………はい」
春がようやく首を縦に振ると、翠は安堵したようだった。小さく頷き、彼女は何度も頬を春の胸に擦り付けた。
愛しいと思うと同時にやはり怖くもあった。
壊してしまわないか。また後ろ暗い誘惑の声に負けて、血肉を奪ってしまうのではないか、と。
「お取り込み中すみませんが、あの、大丈夫ですか?」
と、翠の背後から声が掛かった。
日が暮れて社会人の帰宅時間となっていたことをすっかり忘れていた。
偶然帰宅した同フロアの女性が怪訝そうな顔をして二人を見ていた。
「あ、あの、おれはべつに」
「え、と。すみません。騒がしくしてしまって……もう平気、ですから。ごめんなさい」
翠は狼狽し、春は慌てて取り繕った。
女性は苦笑し、小さく会釈すると自分の部屋へと引き上げてくれた。
そして、春もようやく「中へ入って」と翠を迎え入れたのだった。
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