第11話 DArkSide〈上〉

 


「――っちぃ!」

 飛び込んできた人物の一撃は――だが、浅い。到底致命傷には届かない。

 ナイフを弾き、翠を捕まえたまま〈雨男レインブリンガー〉が間合いをとった。

『なん、の、つもりだ!』

「それはこっちのセリフさ。その娘に用があるのはきみだけじゃあないんだよ」

 翠が恐る恐る目を開くと、眼前には見覚えのない青年の姿があった。

 ボディピアスで飾られた耳に、黒い髪を靡かせた精悍な顔立ちの青年。どこか春と重なる面影のある闇色の瞳。長身痩躯、春よりも上背のある男だった。

「はろー、翠ちゃん。まだ生きているよね?」

 青年の呼びかけに、翠はかろうじて頷いてみせる。

 しかし、助けてくれと、そう懇願することはできなかった。

 青年が放つ殺気は翠を押さえ込んだまま対峙する〈雨男〉のみならず、翠自身に対しても向けられているように感じられたからだ。

「そうそ、いい子。弾みで殺しちゃうといけないからせいぜい大人しくしていてよ」

 言うが早いか、青年が再度深く踏み込む。

 加速するようにしてあっという間に〈雨男〉に肉薄すると、鋭い刺突を繰り出す。

〈雨男〉が小さくうめいてよろめきながらそれを躱す。

 幾度か、翠には正確な回数すら数えられなかったが――攻防が繰り広げられた。

〈雨男〉の振るう凶爪を掻い潜りながら青年がナイフを振るう。

 力は〈雨男〉の方が上だが、青年の動きは軽やかで掴みどころがなく、手数では〈雨男〉を上回っている。

 徐々にではあるが、自分を捕えた体から余裕が消え失せてゆくのを翠も感じていた。

 がぃん!と音を立てて青年のナイフと〈雨男〉の凶爪がぶつかる。鍔迫り合いだ。

『うっ、くぅっ……おの、れ!』

「いい加減引いたら? 人質を抱えてちゃ、いくら君でも分が悪いでしょう? それとも春じゃなく、おれに斬り刻まれたいの?」

『こ、の――!』

 なおも踏み込もうとした〈雨男〉はしかし、刹那の逡巡の後、青年の方に翠を突き飛ばして身を翻した。

 あっという間に頭上のビル壁を飛び越えて闇の奥へとその姿が消えていく。

 翠は呆然と一連のやり取りを見守っていたが、血の匂いと殺気が消え失せたことに気が付くと途端に身体から力が抜けてしまった。バランスを失い、倒れかけた体を青年がそのまま支えてくれた。

「よく我慢したね、翠ちゃん。相当こわかったんじゃない? あは、震えてんの。ウケる」

「なッ……って、どうして……おれの名前を知っているんですか」

 先ほどから青年は何度か翠の名前を口にしていた。しかし、翠は青年のことを全く知らない。一体どういうことかと口を開けば、青年はどこか謎めいた笑みを浮かべてみせた。

「おれは夏雪殉哉。春の数少ないともだちだよ、翠ちゃん。きみのことも春から聞いてる」

「春さんの、友達……?」

 翠は面食らったようになって聞いた言葉を繰り返すのみだ。

「……友達いるんだ、あのひと」

「あはは! ひっどい。まあ春のことだから、そう思われていても無理ないけど。ついでにいうと、おれは友達にしかしてもらえなかったんだけどね。ま、とりあえず夏雪でも殉哉でも好きなように呼んでよ」

「……? は、はい。あの……夏雪さんはなんでおれを助けてくれたんですか」

「吸血鬼の得意技って知っている?」

「……え?」

 殉哉は不意にそんなことを聞いてきた。

 意図がわからない上、元より答えを知り得ない翠は首を横に振った。

「幻術さ。彼らは時に体を霧にして人間の目を欺く。あるいは意図的に姿を偽って獲物を誘いだすんだよ」

「それって、つまり……おれは春さんの姿をした、あの……〈雨男〉に誘い出されたってこと、ですか」

「察しがいい子は好きだよ」

 殉哉はそれだけ言ってからからと笑う。

 まるで他人事だというように。

「そんな……なんで。どうして、おれを」

「春が君を好きだから」

 殉哉がこともなげに告げる。

「君のことをどうしようもなく好きになってしまったからだよ。君は春だけじゃなく、あの怪物の本性を揺さぶり、苦痛を与えているんだ。彼女は恐れたんだろうね、きみが春を変えてしまうことを。だから春よりも先にきみを葬ろうとした」

 その手に抱いた翠の瞳を覗き込み、殉哉は残酷にも微笑んだ。

「きみはひどい女の子だな。もうすぐ死んでしまうのに、どうして春や彼の愛したひとを放っておかずに追い込み、狂わすのだろうね」

「お、れは……そんな」

「自覚していないだなんて言わせない。きみは誰よりも春を苦しめているんだよ、翠ちゃん」

「……おれは、でも……離して、離してください!」

「逃げられると思ってるの? おれから」

「ぐっ!?」

 捕まえていた翠の背を壁に強く押し付け、殉哉が翠に体を寄せる。

 両足の間に膝が押し込まれ、両手はいとも簡単に押さえつけられてしまう。

「ねえ、春とはどこまでいったの? もうヤッた? 春って意外と強引だから、はじめてだったら痛かったんじゃない?」

「やめてっ、おれは、そんな……」

「それともまだだったりする? それならいっそ、おれが奪っちゃおうか? 好きな女の子のはじめてを汚されたと知ったら、あいつはどんな顔するだろうね」

 殉哉が翠の首筋に鼻先を埋め、きつく口付けをする。濡れた舌が首を舐った。

「や、だっ、いや、ぁ、春――」

「そうやって、きみは春の名前を呼んで助けてって言うんだ? 気に入らないな」

「んぅっ!?」

 春の名前を呼びかけていた唇が塞がれる。まさか、と思った。殉哉が唇を重ね、翠の言葉を奪っていた。そのまま口内をぐるりとねぶられ、舌で舌を愛撫される。

 拒否することはできなかった。身動きひとつとれない翠の破れた制服を殉哉の手が引き裂いていく。

 春以外に許したことのない行為。触れられたことのない場所までも殉哉の手が這い回る。

「やめ、て。こんなの、おれ、はっ」

「かわいいね。でも淫らな子。服だって脱がされて、無理やりされてるのに感じたりしてるの?」

「ぁ……は、ッ……そ、んな、ことッ」

「もっと教えてよ。春の前ではどんな顔して鳴いてみせるの?」

「ぅ、あ……ぅっ」

 甘く霞む視界を、恥と屈辱の涙が濡らしていく。

 もうどうだっていい。どうせ死んでしまうおなら、このまま身を任せて心まで壊されても何も変わらないではないか。

 翠の体から力が抜けていく。しかし、翠が屈しかけたときだった。

「――殉哉っ!」

 怒りを滾らせた声が路地裏に響く。

「春、さん……?」

 翠の唇が春の名前を紡ぐ。その憔悴した様を見て、春は表情をさらに険しく歪めた。

 そして躊躇いもせずに踏み込み、殉哉を翠から引き剥がすと、その横面を思い切り殴りつけて引き倒す。

「ッたた……王子様の登場か。随分遅かったんじゃない?」

 切れた口元に滲む血を拭いながら殉哉が皮肉げに笑う。

 春は冷たい目でそれを見下ろした。

「うるさいよ。翠さんを助けてくれたことには礼を言う。でも死ね」

「ひどいなァ! あんまり可愛い彼女だから、ちょっと揶揄っていただけじゃない。熱くならないでよ」

「どの口が。立って、さっさと僕の前から消えろ」

「……ふん。言われなくてもそうするさ。またねぇ、春、翠ちゃん」

 殉哉はとびきり邪悪に微笑んでみせると、颯爽と身を翻し、夜に消えていった。

 春が翠の方に向き直る。

 翠は何も言えずに自分の身体を硬く抱きしめる。歯の根が合わずかちかちと情けない音を立てている。

 どうしよう。怖い。

〈雨男〉も、夏雪も、それに春のことも、今は。すべてが恐ろしくてたまらない。

 自分は怪異に出会い、そしておそらく現実の埒外の存在にも遭遇してしまった。

 こうして生きていることが不思議なくらいの窮地に先ほどまで立たされていた。

 死にたくない。怖い。

 さっきはただそれしか考えることができなかった。

 なにが「春が自らを怪物だと貶めているのならそれを救う」だ。

 現にこうしてまた自分は春に助けられているではないか。それに、春が吸血鬼だと言う事実を第三者……人間とは言えないものたちによって思い知らされてしまうだなんて。

「あ……おれ、は……こんな」

「翠、さん」

 春の呼びかけに、翠はただびくりと肩を振るわせることしかできない。

 それでも春は優しく、そして静かに語りかけてくる。

「怪我、していますよね。それにたぶん僕のことも今は……平気じゃない筈です。でも、だから――一緒に来てください。まずは手当をしないと。頷くだけでいい。返事をしてくれますか」

 春は今の翠でもわかるように優しく説き伏せてくれた。

 翠はおそるおそる頷き返す。そうしているうちに再び目に涙が浮かんだ。

 翠の身体にほとんど触れることなく、春はそっと自分の夏用外套を肩からかけてくれる。それを胸の前に引き寄せ、翠は春の後に隠れながら歩き出した。

 今宵、月は出ていなかった。


  §


 シャトー豊平弐番館、405号室。

 風呂を借り、湯を浴びて血汚れを落とした翠は、春のシャツを借りて着替えた。

〈雨男〉によって負わされた傷は浅いようで、痛みはなかった。簡単な処置をして、包帯を巻いておいた。

 髪を乾かし、脱衣所からそっと顔を出して様子を伺うと、気がついた春が「こっちへ」と言って手招きした。

 おずおずと歩いて春の傍まで近づく。

 だが、この間のように完全に隣に座るのは無理だった。

 苦笑いした春が「好きなところに座ってください」と言うので翠はその言葉に従い、ソファに座っている春から少しだけ距離をとってテーブルの前に座した。

 沈黙が訪れる。

 夏の夜の底に響くのは遠い喧騒。

「今日は」

 お互いに別の方向を向いたままで、先に口をきいたのは春だった。

「……遅くなってすみませんでした。散々な日になってしまったでしょう。〈雨男〉……ルリのことも、殉哉くんのことも、全部僕のせいです。だから、翠さんが僕を恨むというのなら、それは仕方のないことです」

 寂しそうに笑う気配がするが、翠はその言葉に対して答えられなかった。答えられる術を持っていなかったからだ。

 だから、ただ膝を抱え、俯くばかり。

「かつて、僕は罪を犯したんです。贖うことのできない罪を。愛したひとを欲して、その血を吸ってしまった。他に何もいらないと思い、そう願っていた。だけど実情は浅ましくて気持ちの悪いただの怪物だった」

 春は大切なことを――自らの罪状を告白しようとしていた。

「あの〈雨男〉は本来、僕の恋人でした。名前はルリ。きみより少し年上で、けれどとてもかわいらしいひとだった。それを僕は汚して、壊しました。好きでたまらなくて、愛していて、それを抑えることなんかできなくて、叶うことはないとわかっていながら、永遠を願ってしまった。だから彼女を襲い、苛み、その血を吸って、命のない怪物に変えてしまった」

 それは恐るべき告白だった。

 この街を脅かす殺人鬼は、春が生み出したものだったのだ。

 薄々は知っていた。でも、本当はもっと早く訊ねるべきだった。

 翠も春もそのタイミングをすでにして逸してしまっていた。

「僕は逃げ出した彼女を追って、この街に来ました。本来はただ平穏に、ただ寄り添って暮らすために選んだ土地でした。でもそうはならなかった。僕は彼女を葬るためにここへきたのに、それができずに時間ばかりが過ぎてしまった。その間に彼女は許されざる行為を――ひどい罪をたくさん犯してしまいました。それもすべて、僕のせいなんです。だから、罰を受けるならそれは僕じゃないといけないんです」

 違うと言いたかった。そんなわけがないと。

 でも、翠はそれを口に出すことができなかった。今更にして命乞いの言葉を内心に並べていたこの心が、身体が恥ずかしくて。

 怖くないと必死に言い聞かせてきたことが、眼前で瓦解し、本心が顕になってしまったから。

 それでいて春のことを救おうだなんて、ひどく烏滸がましいことだと思うから。

「それなのに、僕はまた……きみを好きになってしまった。傷つけるとわかっていて。苦しませると知っていて。こんなひどいことってないですよね」

「……そ、れは、そんなことは」

「ありますよ。現に今日、それが現実となってしまった。僕はきみを傷つけました。そうなのに、まだ僕はきみのことを――きみの血が欲しいと思っている。血が吸いたくてたまらなくて、手放したくなくて、汚いことばかり考えているんです。だからもう、ここまでにしましょうか」

「……え……?」

 唐突に突きつけられた別れの言葉に翠の表情が歪む。

「今ならまだ間に合うから。だから、もう……ここまでにしましょう」

「な、んで……」

 春は優しく微笑んでいた。

 否、彼はそう見えるように努めていた。

「僕はきみを傷つけました。でも、これ以上はいけない。だから、今のうちに」

「――馬鹿も大概にしてください!」

 気が付くと、翠は大きな声で春の言葉を遮っていた。

 やっと声が出せたと思えば、翠の唇は半ば勝手に言葉を紡いでいた。

「みんなおれのためとか傷つけないようにとか、自己完結ばっかりで、おれから離れていく。春さんだってそう。でもっ、絶対に! 絶対にそんなの許さないんだから……!」

 翠は春のそばに寄るとソファにその上半身を押し倒し、顔を近づけて続けた。

「確かにおれは少しだけ傷ついて怪我をしたかもしれません。春さんが来てくれなかったら、もっと酷いことをされていたかもしれない。けどっ……、そうはなっていないじゃないですか。春さんはちゃんとおれを助けてくれているんだから、もっと自分を信じてあげてください。おれのことだって……あまりみくびらないで!」

「でも、僕は」

「黙ってよ」

 そう言うと、翠は噛み付くようなキスで春の唇を塞いだ。

 自分から口付けをしたのはこれが初めてだった。春の舌を探し当てると、自分の舌を絡ませ、蕩し、心づくしの愛撫をする。

 唇を離すと、真剣な目つきで春を見据えて言葉を続けた。

「たしかに、おれはこわかった。こわくてたまらなかった。でも、それはおれが弱いから。おれ自身の問題なんです。春さんになんか背負わせない。自分でなんとかできるから、傷つけるとかつけたとか、そんなことを言わないでください。おれは春さんが好きなんです。それだけで、たぶん、いいんです」

「……翠、さん」

「ほんとは……助けてあげたかったって、おれは少し思い上がってた。春さんがおれに優しいから、おれは調子に乗って怪物だと自分のことを貶めるあなたをそうじゃないんだと否定したかった。でも、もうやめます」

 翠は春の輪郭を撫でるようにして頬に触れながら、決意を口にした。

「春さんが怪物だっていい。それでいいから、全部受け入れるから……最後までそばにいさせて。そうさせてください」

「でも……僕は、きみを助けてあげられないのに」

「それはお互いさまです。春さんの責任じゃない」

 翠はようやくふわりと微笑んでみせた。大丈夫だと思えた。

 おれはちゃんと笑えているのだ、と。

「翠さん、……翠。ありがとう」

「うん」

「……もういっかい、キス。していいですか」

「……はい」

 そのままどちらともなく唇を重ねる。前より少しだけ深く、激しく。それでいてやわらかに、しっとりと。

 それは恋人同士がするキスだった。

「……っていうか、この格好、けっこう恥ずかしい、し。いい加減どきますね……その、すみません。生意気な感じになっちゃって」

 唇を離すと、急に臆した翠は春の腰に跨っていた体勢を解いて、彼から離れた。

 やり場のない手でシャツの端を握りしめる。

 うん、なんとも恥ずかしい感じだった。

「生意気だなんて、そんな。僕には絶景でしたし? たまには上に乗られておままごとされるのも気分がいいですね」

「うぅ、ば、馬っ鹿じゃないの!」

 狼狽する翠の様子を見とめて、春はふんわりと微笑んでくれた。

 ソファから離れてフローリングの上に立つ。

 と、ぱたり――と床に緋が滴った。

 ぱた、ぱた、と紅い雫が数滴したたり、翠はようやくそれが自分の脚の傷が開いて出血しているものだと気がついた。

「あ……すみません。なんか脚の傷、開いちゃったみたいで。春さんの服に血がついたりしていませんか?」

 慌てて振り向くと、春が口元を抑えて床に倒れ込んでいた。

「ぁ……がっ……!」

「春、さん?」

 床に爪を立て、這いつくばるように進む春の喉からは獣の唸りのような音が漏れていた。

「あ……」

 床を汚した血を眼前にすると吐息が漏れ、数秒の間、抗い、ためらった後に耳障りな音を立てて溢れた血が啜られる。

 異様でいて、獣性を感じさせる息遣いと唸りがやまない。

 ぐるる、と喉を鳴らし、翠を見上げる瞳は獣物のそれだった。

 春は眼前で怪異に――吸血鬼の姿へと変じようとしていた。

「春さん、……春さん! ごめん、なさい! おれの血のせいで――こんな、こんな、ことっ」

 そこまで口にした瞬間に、人間のものとは思えぬ膂力で跳ね上がり、体勢を変えた春が翠の喉を抑えて壁にその背を叩きつけた。

「ぐ、ぁっ」

 翠がたまらず呻いて自分の喉を閉める腕に縋ると、猫の眼のように瞳縮した春の瞳が揺らぐ。それはあの〈雨男〉――ルリと同じ瞳だった。

「はな、れて」

「……え?」

「にげ、て。くだ、さ、僕から――早く」

 春は泣きそうに歪んだ顔でそう訴えていた。

 翠の首を押さえつけていた腕の力がわずかに緩む。翠はなんとかそこから逃れると、玄関の方向に走りだす。最後に聞いたのは「」と、ただもう一度繰り返した短い警告の声だった。

 春が。春さんが。

 たったあれだけのことであんなふうに壊れてしまうだなんて。

 なにより、吸血鬼――あの怪物めいた様子はひどくおそろしくて。

 翠はただ春の警告に従うしかなかった。

 扉を開くと、階下へと走る。エレベーターを待っている余裕などはなかった。

 傷は傷んだが、ただ本能が逃げろと叫んでいるためか、脚は動いた。

 誰かが追ってくる気配はなかった。

 ただぬくめられた闇が背後にあるだけだった。



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