第10話 黒と夜〈下〉



 川から昇ってきた夜の匂いが、いつの間にか窓を開け放った部屋を満たしていた。

 とうに日は沈み、あたりには宵闇の帷が降りている。

 春は漸く起き出し、着替える前にシャワーを浴びた。

 次第に思考も明瞭さを帯び、半分寝ぼけていた状態から覚醒してゆく。

 今夜の仕事は午後十一時からだ。家を出るのは三十分前。時間にはまだかなり余裕がある。

 春は灰皿を持ってベランダに出ると、煙草に火をつけた。ほどなくして紫煙が上がる。

 今日は夜になっても気温が下がらず、部屋の中には昼間の熱が蟠ったままだ。ベランダに出てもさほど気温が変わらない。

「……夏だな」

 煙草を燻らせながらぽつりと口にする。

 七月を迎え、季節は初夏から真夏へ移ろうとしている。最近は雨の日も減り、いよいよ夏本番へ向けて気候が上向きに変わり始めていた。

 春にとって、夏は日照時間が長く、また雨の日も少なく、一年でもっとも過ごしにくい季節だ。

 特に最近は気候変動の影響なのか、昔よりも夏が暑く、長くなっている気がする。

 地球温暖化により北極圏では海氷が溶けているというが、春だって溶けてしまいそうな気にさせられているのだ。

「あっつい……」

 げんなりとしながら夜空を見上げれば北斗七星を含むおおぐま座が目に入る。

 夏の大三角形とやらはどれか分からなかった。特に天体ファンというわけではないため、そんなことは春にとってはどうでもよいのだが。

 翠であれば星についても詳しそうな気がした。

 今度会った時にでも訊いてみようと思いつつ、一昨日のことを振り返る。

 翠は「おれの寿命、あと二ヶ月くらいだってさ。医者からそう言われたよ」と春に打ち明けてきた。

 彼女の余命については最初のデートの時に翠が言った三ヶ月という話で覚悟はしていたつもりだった。それから一月ほど経過しているため、一昨日の翠の発言は妥当なものだと言えた。

「あと二ヶ月。七月と、八月の終わりまで……か」

 けれど、ああして眼前に存在する翠の口から言葉を突きつけられた今は以前とは違っていた。

 憤りはない。だけど、寂しさや苦しさが混ざった言い表しようのない気持ちが胸中を渦巻いている。

 儚いものだ。人間の命――そうではない、あの子の命が。

 最後まで一緒にいる。そう誓った。間違いではない。嘘偽りもない本音だ。

 しかし、自分は本当に最後まで彼女の隣にいられるだろうか?

 弱っていく翠を目の前にしたら、逃げ出してしまうのではないだろうか。

 それとも、ルリのときと同じような過ちを犯してしまうのではないか。

 自分がまともでいられる確証はなかった。だが、翠のことを大切に思うのならば、彼女の願い通りにいつもの〈環波春〉として寄り添ってやるべきだ。

 春はとっくに煙草を吸い終えていたが、そのまましばらくベランダで夜風に当たった。


  §


 期末テストが終わった日の終礼の時間。

「それじゃあ、最後に榎島から挨拶がある。テスト終わりで浮かれるのは後にして、皆しっかり聞けよ。榎島、いいぞ」

 翠は担任の合図で教壇に上がり、黒板の前に進み出た。

「先生が言ったように、私から挨拶があります。前期が終わるには少し早いけど、試験も無事終わったということで、私は一足先にお休みをいただくことになりました。学校を休学して、病気の治療に専念するためです。運が良ければまだみんなが三年生のうちに戻ってこられると思うので心配は無用です。でも運が悪ければまた三年生をやることになっちゃうけれど……まあ、そこはしょうがないってことで。短い間だったけど、楽しく過ごせてよかった。学校好きなので、ちゃんと戻ってきたいです。それじゃあ、また」

 ぺこり、と一礼し、顔を上げる。

 クラスメイトたちが拍手をくれ、仲のよかった数名の友人が代表として花束とクラスメイトから寄せ書きされた色紙をサプライズでプレゼントしてくれた。

 花束は淡いピンクと白を基調にした高校生らしく可愛らしいアレンジのものだった。

「この通り、榎島は一足先に夏休みに入るが、おまえらはまだ期末まで日数が残っているからな。サボりは厳禁だぞ!」

 担任が釘を刺すとお調子ものの生徒が「え〜」と声をあげ、誰かが「期末終わったし、実質もうバカンス気分っしょ」と最後を引き取った。

 翠も苦笑し、花束と色紙を抱えて席に戻る。

 日直が他に連絡事項のないことを確認し、「起立! 礼」と号令をかけ、今度こそ終礼が終わる。

「翠〜、寂しくなるよー!」

「翠ちゃんの数学ノート、ものすごい頼りにしてた。あたし、これからどうしようって感じだよ〜ってのはさすがに冗談だけど……自力で何とかがんばるからさ、翠ちゃんも頑張ってきてよ」

「榎島、ライン交換してよ。クラスの様子送るからさ」

「なに、山田抜け駆けしてID交換しようとしてない!? 榎島彼氏いるじゃん」

「えっうそ、なになに」

「この前映画館で年上っぽいやつと一緒にいるの見たよ」

「なんか超美形らしいって。大学生?」

「やだー! 翠はわたしのだもん!」

 ホームルームが終わった後、帰り支度をする翠を囲んで数名のクラスメイトたちが名残を惜しんでいる。

 翠は一人ひとりに丁寧に接し、別れの言葉を述べたあとで席を立ち、教室を後にした。

 廊下に出ると選択科目が同じであるとか委員会が一緒であったとか、ともかく何かしら接点のあった生徒が待っていて、声をかけてくれた。

「随分と大袈裟ね。卒業式じゃないんだし」

「みんな翠が心配なんだよ」

 一番仲の良かった他クラスの友人に苦笑まじりの本音を漏らせば、そんな答えが返ってきた。

「それはもったいないお言葉で」

「翠ってさ、年が違うせいとか病気のせいとか、理由はあるんだろうけどみんなに対して壁、作ってたでしょ。でも、みんな本当は翠が好きなんだよ」

「……そうかな。どこにでもいるフツーの病弱な女の子ですよ?」

「わかってないな、翠は。まあいいや。ほらみんなに手を振ってやんなよ」

「……うん。またね! みんな!」

 当人である翠は面映ゆい気持ちになったが、最後は笑って皆に手を振って見せた。

 ロッカーに残っているのが上履きだけであることを確認すると、翠は渡り廊下を通って校舎の奥まで歩いた。ようやく一人になり、息をつく。

 周囲に誰もいなくなったことを確認して、翠は三階へ続く階段を登った。

 どの学年の生徒も試験終わりで早速打ち上げにいく者や、部活動が解禁され、放課後をグラウンドや体育館、音楽室などで過ごすために移動を終えた者がほとんどらしく、一般教室が並ぶはこの辺りはがらんとしている。

 翠は屋上へと出るために表向きは生徒侵入禁止となっている階段室を目指し、校舎の中央部へと向かう。

 途中、手近なゴミ箱を見つけると、そこへ花束と色紙を放り入れた。

 花びらが足元に数枚散ったが、そのまま踏みしめて歩いた。

 なんでもない。こんなことは。

 なんだっていいんだ――。

 やがて内階段を登り、校舎の屋上へと辿り着く。

 幸い屋上に上がっているのは翠だけのようで、他には誰もいなかった。

 頭上には抜けるような夏の青空が広がっている。

「……はー、疲れた」

 がしゃん、と音を立ててフェンスに体を預ける。

 陽の光を反射して夏服が眩しく映えた。

 ポケットをまさぐって煙草を取り出し、ライターで火を点ける。程なくして紫煙が上がる。

 別れの儀式というなら、これ以上なかった。

 ホームルームでの挨拶なんかより、よっぽどこっちの方が儀式めいている。

 おそらく学校に翠が戻ってくることはない。そんなことは自分が一番よく知っていた。

 だから嘘でもってお別れを言わなければならない教室を最後の場所にする気はなかった。

 自分にとって一番ふさわしい場所は他でもないここだ。

 最後にここに来ることはこうなったときから決めていた。

 その気になればフェンスを超えて、今すぐこの儚い生を終わりにすることができる。

 一瞬の永遠を焼き付けて、全てを捨て去ることができる。

 でも、おれはそうはしないのだ。

「……さようなら」

 煙草をふかしながらそう口にしてみる。

 さようなら。さよなら、学校。

 ただ自分の声が小さく響いただけ。それだけだった。

 そうやってしばらくの間、屋上での〈儀式〉を満喫すると、翠は軽やかな足取りでその場を後にした。


 そして、翠が二度とここを訪れることはなかった。


  §


〈我が青春最後の夏服セーラーを見せつけてしんぜよう!〉

〈……と言うのは冗談ですが、今夜少し会えませんか? 今日で登校が最後だったので、夏服姿を春さんにも見て欲しくて。どうでしょうか〉

 夕刻。翠はそんなメッセージを春へ送信した。

 まだ完全に日は沈みきっていない。

 春から返事がくるとすればあと一時間はかかるだろう。

 翠は手近なドーナツショップに入り、フレンチクルーラーを一つとアイスコーヒーを注文した。

 日没までここで時間を潰すつもりだった。

 帰りが遅くなるかもしれない旨はすでに朱美に報告済みだ。だから大した心配もなく待てる筈だった。

 携帯端末をテーブルに置き、日記を兼ねたスケジュール帳を出して今日の出来事や考えた物事について記録していく。

 そのついでに今月の予定のチェックも行う。入院は二週間後に迫っている。

 今度病院に入ったら、次はいつ出られるか分からない。もしかすると、もう出られないままかもしれない。おそらくは後者だろう。

 月末には豊平川の花火大会がある。

 春と一緒に過ごせるのはその夜が最後だ。

 最後に恋人と一緒に花火を見たいだなんて、まるでくだらない恋愛映画かなにかの主人公になったみたいだ。

 でも、きれいな思い出だけを残して泡と消えられるのならそれでいい。そして思い出はおれだけが抱えて眠ればいい。

 グラスの中で氷が溶けて、からんと音を立てた。

 思惟に沈んでいた翠ははっと顔を上げる。

 携帯端末がメッセージを受け取ったことを通知していた。

〈すみません、さっき起きました。最後の夏服ということなら見ない手はないですね。今から大通方面に向かいます。まだ時間は大丈夫ですか?〉

 言わずもがな、それは春からの返信だった。

 どうやら今夜は会うことができそうだった。

〈姉さんには伝えて出てきたので大丈夫ですよ。是非お願いします。おれもこれからそっちに向かいます。よろしく〉

 翠も返事をして席を立つ。下膳口へトレイを返し、店を出る。

 あたりは日が落ちて、空はそこに浮かぶ雲までが紺から茜色のグラデーションカラーに染まっている。完全に夜になる前の夏の空模様だった。

 翠はわずかに空を仰ぎ、地下鉄の駅へと歩き出した。交差点を渡ってすぐ目の前に階段があるため、移動時間を考慮する必要はない。

 改札を抜けてホームに降りると、すぐにさっぽろ・大通方面行きの地下鉄がやってきた。

 四駅分乗車すれば五、六分足らずで札幌の中心部である大通駅に着くことができる。翠もそこまで乗車し、地下鉄を降りた。

 春と待ち合わせるなら、彼の自宅から近いすすきの方面に向かったほうが早いだろう。

 携帯端末をチェックしつつ、地下街を南側に向かって歩いていく。

 前回のこと――春の自宅を訪れた帰りの出来事を思い出すと今でも足が竦むが、それでもこんな人通りの多いところに殺人犯が出るわけもない。

 この前訪れた水族館のある複合施設の横を通り、アーケード街である狸小路を過ぎ、すすきの駅が近づく。人通りはほどほどで大通方面よりは少ないが、その分行き交う人の雰囲気も異なっている。

 すすきの駅に辿り着くと、翠は壁際に寄りかかり、足を止めた。

 ここで待っていればじきに春が来るだろう。

〈すすきの駅まで来ました。駅地下で待っています〉

 メッセージを送信して、顔を上げる。

 行き交う人々をなんともなしに眺めながら春を待つ。

 すると奥側の出口の方へ向かう人々の中に見知った顔があることに気がついた。

「え? あれ、春さん?」

 それは翠と待ち合わせをしている筈の春当人の姿だった。

 春と思しき人物はそのまま最奥の五番出口の方へ向かって歩いていく。

 人違いかもしれない、一瞬そう思ったが――違う。あれは確かに春そのひとだ。

 翠は逡巡したが、意を決すると春の後を追いかけ、同じ出口から外へと向かう。

 生ぬるい夏の湿気が肌にベタつく。雑踏を見回すと南六条方面へ行く人波に混じって春の後ろ姿が見えた。

 いったいどこへ行こうとしているのだろう。先に声を掛けるべきだったのかもしれない、そう後悔しても後の祭りだ。

 それに、どこか嫌な予感がする。

 以前のように春は殺人犯相手に危険を犯そうとしているのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。

 もしそうなら、自分が止めなければいけない。

 今度こそ彼のそばを離れるわけにはいかない。

 瞬時に思考を切り替えて後を追いかける。春の歩調は早い。気を抜くと見失ってしまいそうだ。

「待って。春さん!」

 名を呼んでも春がこちらに気づく気配はない。そのまま人混みの向こうに春の姿は消えようとしている。

「……っ!」

 唇を噛み締め、春に追いつくべく歩調を上げて人混みをかき分けて進む。

 いつしか入り組んだ路地に入り込み、まるで誘われるようにして奥へと導かれていることに翠は気づけていない。

 どうにか春の後ろ姿を追って角を曲がる――と。

 そこは行き止まりで、レインコートを纏った小さな影が佇み、こちらを見つめていた。

「え……? どうして」

 予想外の光景に翠が思わず呟くと、影は憎悪を滾らせた瞳を翠に向けてきた。

『オマエ、が、いるから、春は……』

 その両手は爪の先までが真っ黒に染まり、赤黒い血が滴っている。

 眼前の存在がおよそ人間ではないことが翠にも見てとれた。そして、何より相手が放つ異様な気配を体が覚えていた。

「あなた、は……あの場所の……殺人事件の」

 犯人、という言葉を続けることが翠にはできなかった。それを口にしてしまえば最後、すべて終わってしまう気がしたからだ。

『うる、さい。だった、ら、なんだという、んだ。オマエも死ね!』

 歪に発達した凶爪を振るい、〈雨男レインブリンガー〉が翠に襲いかかる。

 その踏み込みはわずかに浅く、咄嗟に身を引いた翠の脚を切り裂くのみ。

「いっ、あ……っ」

 しかし、それで充分だった。

 鋭い痛みが左足に走った。スカートが裂かれ、破けた肌から血が滲む。

 殺せるんだ――翠は身をもって実感していた。眼前の相手は翠などひとたまりもなく殺すことのできる力を持っている。

 途端に体が強張り、足が竦む。斬られた箇所が酷く痛む。

 逃げることなどできない。おれもここで死んでしまうんだ。

 翠は悲鳴すら上げることができずに後退り、壁に背中をくっつけた。逃げ道はない。次が来たらそれで終わりだ。

〈雨男〉がその可憐な顔を歪めて翠に近づく。差し出された手が翠の首を掴み、締め上げる。

「ぐ、ぅ……ぁ……か……っ!」

 視野が狭窄し、喉が熱くなった。呼吸を求めて喘いでも最早意味など生じなかった。翠の眦から涙が一筋流れて頬を伝う。

 誰か。誰か、助けて。

 それは常日頃から翠が心の中でずっと叫び続けていた言葉だった。しかし、死を目の当たりにした今、初めてその叫びは真実味を帯びていた。

『今、度こそ、殺す』

「……っ」

 首に突きつけられた爪がセーラー服を裂いて、心臓の位置で止まる。冷たい死の感触。すでに数ミリがすでに皮膚を破って血を滲ませている。

『春、を、返せ!』

 翠が硬く目を瞑り、死を覚悟した瞬間だった。

「――そうはいかないよ、化け物」

 誰かが横合いから思い切り〈雨男〉をナイフで斬りつけていた。




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