第9話 黒と夜〈上〉
『〈雨男〉――新たな犯行か? 九人目の犠牲者』
『札幌連続殺人、新たな被害情報』
『猟奇的犯行現場に残された血痕。三つの疑問点』
『事件現場に第三者の存在の可能性。殺人鬼には協力者が?』
ネットニュースの見出しにはいずれも物騒なニュースが並んでいる。
テレビをつけても民放のニュース番組はほとんどが事件に関する報道を続けており、陰惨な内容ばかりが連日報じられていた。。
リビングで朱美が見ている朝のテレビ番組もおそらく殺人事件について報道しているようで、微かな音声が翠の寝室にも漏れ聞こえてくる。
翠は自室のベッドに寝転がり、布団を被った状態で携帯端末を眺めていた。
〈連絡が遅くなってごめんなさい。僕は無事にあの場から逃げることができました。翠さんは大丈夫でしたか? 驚かせてしまったと思う。体調に影響がないように、よく休んでください。明日、落ち着いた頃にまた連絡をします〉
あの夜、明け方近くになって送られてきた春からのメッセージだ。
実際、次の日には連絡が来て、翠は春と電話で話すことができた。無事を確認したときには安堵から思わず涙が零れてしまった。
春の安否はなによりも重要な事柄で、それを確認できたことはよかった。
だが、あの日の恐怖感をまだ拭いきれない自分もいるのだ。
目を閉じるとあの凄惨な光景が思い出されてしまう。
血と肉の塊となった誰かの姿。赤黒く塗り潰された殺人現場。
そして、他ならぬ自分自身の記憶が翠を苦しめていた。
あの時、春に「逃げろ」と言われ、自分はその通りに従った。そうするしかなかったからだ。
……でも、春のことをあの場に見捨てて、おれは一人で逃げたんだ。
悔しくて情けなかった。申し訳なくもあった。
もし春が無事で済まなかったとしたら、自分はどうしていただろう?
そういう思いが胸につかえて取れなくなっていた。
走って、懸命に走って。ようやく人の姿が見え始めたあたりでコンビニに駆け込むと「誰か人を呼んでください。警察に通報してください」と必死に訴えた。
ところがいざ警察が駆けつけると、現場にはもう誰の姿もなかったという。
元の通り、ただ奇妙な死体だけがそこに置き去りにされていた。
事件現場の目撃者となってしまった翠は聴取に時間を取られ、心配した朱美が警察署まで迎えにきた頃にはほとんど憔悴しきっている状態だった。
その翌々日である月曜日から学校を休んで、今日で三日目になる。
朱美は翠にとってよっぽどショックな出来事であったのだろうと理解を示し、翠の欠席には何も言わないでいてくれた。
普段は翠が一人で行く病院にも付き添ってくれたくらいだ。
「……みんな、おれに優しくしすぎ」
布団の中でそっと呟く。
朱美も、そして春も翠に対してはとても優しかった。
学校の先生や友人、病院の担当医や看護師さん等、もちろんそれ以外の人もそうだ。
それなのに、そういう行為が少し辛くもあった。
気を紛らわせようとアプリを起動し、春とのやり取りの記録を呼び出す。
……春さんは本当に吸血鬼なんだ。
あの夜の春を思い出すと、映画館でデートをした日の春の告白が腑に落ちる気がした。
春は翠が襲われる前に動き出していた。
それに殺人鬼が襲ってきた時も、あの人間離れした動きに遅れをとることなく受け止めていた。少なくとも春の身体能力は人間のそれを凌駕している。
ほんの少し垣間見ただけだったが、彼はやはり人外の存在なのだと思い知らされた。
翠にとって、そんなことは関係がなかった。
春がなんであれ、この気持ちは変わらない。それは事実だ。
けれども、春はどうだろう。翠に自分の本性の一端を見せてしまって、どう感じているのだろう。
……怪物。ひとではない何者か。
翠たちを襲ってきたのはそう呼ばれるものだった。人間とは呼べない存在。
もしも春が自らをそう貶め、自分もあちら側だと思っているなら――。
それを放っておくことはできないと翠は思っていた。
「翠、聞こえてる?」
ドア越しに朱美が呼びかけてきた。会社へ行く時間なのだろう。
「私、もう出るけど、何かあったらすぐ連絡しなさいよ? それとお粥作りおきしておいたから食欲がなくても昼は食べなさいね」
「……はい」
朱美に聞こえるように大きめに返事をする。
返事があったことに安堵したかのような間があり、朱美がもう一言声をかけてきた。
「私ね、あんたに彼氏ができてよかったなって思ってた。それは今もそう。前よりも明るくなったし、前向きになってくれた。それに毎日楽しそうだし。それが嬉しいの。だから……何を悩んでいるかはわからないけど、あんたにとっても相手にとってもいい方向に行動してほしい。そういう選択をしてほしいって思ってる」
「姉さん……」
「じゃ、仕事行ってくるわ。晩御飯は一緒に食べましょう」
そう言って、廊下を歩く気配があり、玄関のドアが閉められ、外側からロックされる音が聞こえた。
「……ありがとう」
姉がいなくなって初めて感謝の言葉を声に出すことができた。
なんと言っていいのか翠にはわからなかったのだ。
朱美はマンションのエレベーターの中でようやく一息をついた。
手に持っていた紙――翠の精密検査の結果を握りしめていたことに気づいて、それを通勤用の鞄にそっとしまった。
翠の容体を示す数値はここ最近で一番悪かった。はっきり言って最悪だった。
涙が出ないように堪えて外を歩き始める。
「あと二ヶ月、というところでしょうか」
翠の主治医の宣告が脳裏に蘇る。
「いずれにせよ、お姉さんも覚悟をしておいてください。翠さん本人は落ち着いていて、僕の宣告を受け入れているみたいでした。でも、それでも絶対に周りのサポートが必要になる時がきます」
何が宣告を受けて容れている、だ。
そんなもの、受け容れなくていい。泣きながら否定してくれた方がまだマシだ。
翠だってもっとわがままに振る舞っていい筈だ。
……私が翠にできることはその最後のときまで、彼女のわがままを受け入れることだけだ。
きゅっと拳を握りしめ、朱美は地下鉄改札口への階段を降りていった。
§
七月の霊園には緑が生い茂り、鬱蒼とした墓地の森を更に暗く、深くみせていた。
札幌市内南部に位置する広大な公園霊園。
周囲をなだらかな山陵に囲まれ、自然豊かな丘陵に設けられた公共の墓地は、レジャーや観光目的として訪れる人も少なからずいる落ち着いたスポットになっている。
だが、この日はあいにくの雨で人影もまばらだった。なにより夕刻ということもあり、来る者より帰り支度をして去っていく者の方が多い。
墓地の西端のそのまた端の区画。
比較的小さな墓石が並ぶその場所を、二つ並んだ蝙蝠傘が通り抜けていく。
「多分、次の角を曲がったところ。通路側から五番目のお墓」
「分かりました。あれですか?」
「うん、あそこ。榎島家って彫ってあるでしょう。あれがそう」
翠と春は他に人のいない墓地の中を並んで歩いていた。
平日の夕刻ということもあり、霊園を訪れるひと自体少ない。
また、来月に盆を控えているものの、墓参りのシーズンでもない。それにこの区画は古い墓が多く、新たな死者を迎え入れるようなスペースでもなかった。
敷地の角を曲がって、墓石を数えながら歩く。
端から五つ目の墓の前で二人は立ち止まった。墓石には「榎島家之墓」と刻まれ、古い家紋が彫られていた。
「……久しぶり、母さん。来たよ」
辿り着いた墓の前で、翠は小さく呼びかけた。春が静かにこちらを見ている。
翠は繋いだ片手に少しだけ力をこめた。
「今日は雨の日で、だからデートついでに、か、彼氏……も連れてきた。環波春さんといいます。年上で少し変わっているし性格は捻くれているけど、やさしいところもある」
「ご紹介にあずかりました、環波です。捻くれ者ですが、翠さんは主に僕の見た目を気に入ってくれたみたいで、こうしてやさしくしてもらっています」
「ちょっと! そういうのいいから」
ふざけてそう口にした春の脇を小突いて戒める。
春は悪戯めいた笑みで片目を閉じてみせた。それから神妙な顔になって両手を合わせた。今度はきちんと目を瞑っている。
「信じてもらえないでしょうが、僕は吸血鬼で普通の人とは少し違っています。それなのに、翠さんは僕の秘密を何でもないように受け入れ、普通に接してくれている。だから、少なくとも僕にとってはとてもいい娘さんですよ。お母さまにとっても自慢の娘さんだったことでしょう」
「……その。つまり、こういう感じのひとです。だから安心してくれていいよ。それにおれももう直ぐそっちにいくし。そしたら飽きるくらい話を聞いてもらうから――と。以上、報告終わり!」
春と同様に祈り、目を伏せていた翠は再び顔を上げ、話を打ち切った。
「雨ですぐ消えちゃうかもしれないけど、せっかく持ってきたことですし、お線香をあげさせてもらってもいいですか?」
「うん、そうしてくれるとおれもうれしい」
「はい」
翠は春が線香に火をつける間、両手に傘を持ち、風上に立って風雨を遮り、上手く火がつくよう手伝った。春の手際が良かったようで、湿気のある雨の中でも直ぐに火がついた。
春が墓の前に線香を立て、翠は持参した花束を備える。
ようやく墓参りらしくなり、二人でもう一度手を合わせた。
「――よし。そろそろ車に戻ろうか」
「もういいんですか?」
「うん、いいの。いちばん報告したかったことは言えたし。春さんがこうして一緒に来てくれてよかった」
「せっかく墓場でデートをする機会ですからね。翠さんが久しぶりに声をかけてくれて、僕も良かったですよ」
「なに、墓場デートって。ほんとうに春さんは死者と関わる場所が好きなんですね」
「嫌いじゃないのは確かかな。北海道では霊園が普通のお花見や散策コースになっているのを知って俄然気に入った次第です」
「あー、言われてみれば霊園ってけっこう広いからね。お花見シーズンには桜も咲くし、石狩の方には桜の名所とまで言われている墓地があるくらいだ」
二人はそう言葉を交わしながら墓地の中を再び歩き始めた。
いつの間にか日没を迎えていたらしく、雨の中で急速に辺りが暗くなっていく。
車を止めたのはこの墓所の区画の端だ。そこまではこうして徒歩で戻らなければならない。
また手を繋いでいるが、傘で春の表情は窺い知れない。
「君からは連絡がないかと思っていました。あんなに酷い場面に遭遇して、一人で逃げるよう手を離してしまって。それに、心配もかけてしまったし」
「……それは、大丈夫。心配はしたけれど、春さんは無事でいてくれた。むしろおれの方が合わせる顔がなくて。あの場からひとりだけ逃げ出して、春さんの力に……何にもなれなかった」
今は顔が見えないことが救いだった。だからこそ、ずっと胸につかえていたことをこうして口にできている。
「お互い、負い目ができてしまいましたね」
傘から覗く春の口許には苦味の勝る笑みが浮かんでいた。
「そうだね」
翠も自然と苦笑いを浮かべる。春は翠の歩調に合わせ、ゆったりと隣を歩いていたが、やおら立ち止まった。
「どうしたの?」
「正直なところ、僕は少し怖くなっている」
「……そりゃ、あんな目にあったら当たり前だよ。春さんのせいじゃないです」
「違うんです。僕も怪物で、あんなふうに君のことを殺してしまうかもしれない」
「それは」
言いかけて言葉が続かずに押し黙る。
赤黒い、血の匂いの立ち込める殺人現場。縊り殺され、四肢の捻じ曲がった奇妙な死体。
あの光景が脳裏をよぎる。思い出すとどうしても足がすくんでしまうのだ。
確かにあれは異常な光景で、怪物の仕業だとしか思えないようなものだった。
けれど――
「春さんはあんなことにはなりませんよ。おれは知ってる。確かにあなたは吸血鬼なのかもしれないけど、とても優しいから、だから大丈夫です」
「僕は優しくなんてないですよ」
「そうかもしれない。でもおれにだけは優しい。好きって大概そういうことですし、だから春さんは大丈夫なんです。おれが保証する」
「そう、ですか」
立ち尽くす春の手をとって、翠は歩き出す。おずおずと春が翠の手を握った。
「翠さんの方がよっぽど優しい、ですよ」
「おれは好きな人にだけ優しいの」
「……そうですか」
「そう。それに、おれも最近はすこし怖くなっている」
春の手を引いて歩きながら、翠も口に出して告げる。
「死んだら、あんなふうに何もなかったみたいになるのがこわい。これまでみてきた葬式のように、ただきれいな言葉だけでピン留めされて、いずれみんなに忘れ去られていくのがこわい」
「……僕は、忘れませんよ」
「ねえ、春さん」
翠は大切なことを打ち明けるために、無理やり秘密めいた笑顔を浮かべた。
「いつかみたいに秘密をひとつ、打ち明ける。おれの余命、あと二月くらいだってさ。医者からそう言われたよ。姉さんも知ってるけど、他にこれを教えたのは春さんだけ」
「そう、でしたか」
翠の手を春がきつく握り返してきた。
「前に言ったあれ、告白のときの……覚えてる?」
「もちろんですよ」
振り向かずに、翠は言葉を続けた。
「おれは近いうちに死ぬだけの女の子だから――だから、その時まででいいから付き合って、ってアレ。その……春さんの重荷になんてなりたくない、けど……最後まで一緒にいてくれたら、そしたら、おれは」
「いますよ。ずっと一緒に」
「……うん」
ありがとう、と言おうとしたけれど、翠にはできなかった。次から次へと涙がこぼれ、それを押し隠すのにただ必死だった。
春に泣いている顔を見せるわけにはいかなかった。
思い出すのなら、笑顔の自分を思い出して欲しかったからだ。
路肩に停めた車が見えてきた。そちらを仰ぎ見るふりをして、翠は涙を拭った。
春がロックを解除すると、翠は助手席に、春は運転席に乗り込んだ。傘は二つまとめて後部座席の下に春がしまってくれていた。
「あの……さっきのアレ、やっぱり忘れていいですから。いい加減重すぎるし、きれいな姿だけ覚えていてほしいから、最後までっていうのはナシ!」
沈黙が降りる前に、翠は自分から切り出した。
お互いに言葉を見つけられないでいるのが嫌だった。
「実際、最後が悲惨だったら目も当てられないもの」
「……僕は嫌ですよ」
「え?」
シートベルトを着けようとしていた翠を不意に抱き寄せると、春は言った。
「翠さんの全部を覚えていたい。だから、最初の約束を僕は守ります」
「でも、そんな……そんなわがまま、押し付けられない」
「わがままじゃない」
春は翠に触れるだけの口付けをくれた。それは言わずもがな翠の言葉を奪うためだった。
「翠さんには、もっと僕を信じてほしい。僕はこんなだから難しいかもしれないけれど、信じて、頼ってほしいです」
「…………はい」
やっと返事をすると、春が頭をぽんぽんと軽く叩いて撫でてくれた。そのまま車を発進させる。
出口まではなだらかな下りカーブが続いている。
霊園から出ると、札幌市街地へと帰るべく二人を乗せた車両は雨の山道を下っていった。
言葉少なな車内には、カーステレオから夏を思わせるロックバンドの曲が流れていた。
七月。雨が上がれば蒸し暑くて昔よりも随分と長くなった夏がやってくる筈だ。
季節が移ろう分だけ、翠にとってはこうして春と過ごす時間が愛しく感じられた。
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