第3話 because I miss you〈上〉



 ここ数ヶ月に渡って、札幌市は物騒な連続殺人事件によって脅かされていた。

 先週も若い男性が同一犯と見られる殺人事件の犠牲となり、そのニュースがソーシャルメディアやネットニュースでも連日取り沙汰されていた。

 ブラウザを起動し、ポータルサイトに飛ぶと、たとえ見る気がなくても事件についての記事がトップに複数件表示されるような状態がもう二月は続いている。

 芸能やスポーツの記事に混じって、惨たらしい事件に関するまとめ記事や最新の報道が人々の日常を蝕んでいる。

 ブックマークをしているサイトを見ようと携帯端末を弄っていた翠はつい凄惨な殺人事件の報道を目にしてしまい、げんなりとした気分になった。

 人が亡くなっているのに不謹慎な反応であると自覚しつつも、こうも陰鬱なニュースばかりだと気分も沈んでしまうというものだ。

 一連の事件の犯人には〈雨男レインブリンガー〉という俗称がつけられていた。

 殺人が行われるのがきまって雨の日か夜間であることから、ごく単純な発想でそういう通り名がつけられたらしい。順序が逆の気もするが、卵が先か鶏が先かという議論はこの際置いておく。

 報道されている事件の内容はこうだ。

 札幌市とその周辺にまたがる地域で、雨の日や夕方以降の暗い時間帯、十代から二十代の比較的若い男性ばかりが野外で襲われ、被害に遭っているという。

 そして、その全てがとんでもない力で四肢を捩じ切られ、出血性ショックや失血によって死亡しているらしい。損壊された遺体には血を抜かれた形跡があり、中には鋭い歯で噛まれた痕のついた死体もあるというゴシップめいた記事まで散見される始末だ。

 これでは雨男というより、まるで吸血鬼だ。翠はそう思ってブラウザを閉じた。

 なぜ男性ばかりが被害者になるのか、今のところ憶測でしか物事は語られていない。しかし、もし仮に血を求める殺人者がいるのならば自分のように弱く死にかかった人間を襲えばいいのに、と思う。

 そうすれば、そう――きっと病で死ぬよりはマシな気分で死ぬことができるだろう。

 そんな無粋なことを考えていたときだった。

 携帯端末が短く振動し、通知音が鳴る。

 とりとめのない思考に耽っていた翠は我に返って、画面に視線をやった。

 チャットアプリにメッセージが入ったことを知らせる通知が出ている。

 送り主は『Haru.K』とあり、葬式の夜に出会ったあの環波春だった。瞬間的に鼓動が高鳴る。

 時刻は深夜0時を回っていて、自室のベッドに寝そべる形で端末を弄っていた翠は思わず飛び起きて寝台の上に座り直した。

 あの葬式の夜。明け方に環波から〈環波だけど。今日はありがとうございました。さようなら〉という素っ気も味気もない文面が送られてきた。

 内容だけ取れば形式的で、これで手打ちだという意図さえ感じられるものだ。

 だが、環波のようなタイプはおそらく興味や関心がなければ連絡自体をよこさないで終わりにするだろう。翠は経験則からそう考えていた。だから、メッセージの内容そのものよりも向こうから連絡があったことが素直に嬉しく思えた。

 翠は翌日の昼間に〈こちらこそ、久しぶりにスリル満点で楽しかった。有名なサイコパステストの答えみたいで恐縮だけど、またどこかのお葬式で会えたらいいと思っています〉という返信を、通学帰りに気まぐれに撮影した自撮り写真――校門前で制服姿の翠がピースサインをしているだけのものだ――と共に送りつけて返した。自意識過剰かもしれなかったが、それなりに効果的なアプローチだと自負していた。

 それでも所詮後腐れのない間柄、返事は期待していなかった。だが、数日後の雨の夜に環波から〈君はもう少し警戒心をもつべきじゃないの〉という旨の返信が届き、そこから短いやりとりが始まった。

 送り合うのはあくまで他愛のないおしゃべり。互いの近況を伝え合うにはまだ相手のことを知らなすぎるし、かといって挨拶だけでは短すぎる。そういうなんてことのない会話を嗜む程度の付き合い方だった。

 寝台の上に座って、意味もなく慎重に、そして真剣に携帯端末の画面に触れる。

〈明後日の夕方、君の学校の近くまで行く用事があるけど、会う?〉

 翠は一瞬息を呑んだ。

 会う。それは実際に対面で話をするということで、とどのつまりはデートの誘いなのではないか。

「……いや、何目線よ。〈会う?〉って」

 嬉しさや気恥ずかしさよりも先に環波のあの冷たげでとっつきにくい物言いがそのまま脳内再生されて、思わず口に出していた。

 その時、画面が更新され、続いて送られてきた新しいメッセージが表示された。

 不意打ちだ。驚いて目を瞠る。

〈会うって言い方、よくなかったかも。会える? これでいい?〉

 環波も同じタイミングで同様のことを考えていたらしい。

 翠は堪えきれずに声を上げて笑ってしまった。

 相変わらず〈これでいい?〉という少し余計な物言いが鼻につくところはもうこの際大目に見ておこう。

〈わかった。とくべつに許してしんぜよう〉

〈ありがとう〉

〈それじゃ、学校の前でまっていればいいかな。何時頃に行けばいいか教えて〉

〈16時半、いや17時でお願いします〉

〈了解。楽しみにしています〉

 最後に黒猫模様のスタンプをつけて送信。

 既読マークがつくと、どうやらそれで会話は終わりらしく、続きが送られてくることはなかった。

 翠はふう、と息を吐いた。文字を打ち込んでいる間、息が止まっていたかもしれない。

 ――それで、だ。

 どうしよう。

 どうしたら。

 ノリと勢いで会う約束をとりつけてしまった。というか、環波も環波だ。今更なんのつもりなのだろう。こんなにいきなり「会える?」だなんて。

 もしかしなくても自分は相当変な少女に見えたはずだ。

 制服姿で堂々と煙草を吸い、他人の葬儀で平気で嘘まで吐いて見知らぬ他人を助けた。それにあの時は車椅子を使っていた。それに出席しているのは同世代の子どもの葬式。何らかの事情を抱えていることは一目瞭然の筈だった。そんな子どもにわざわざ会おうだなんて。

 頬が熱く、目元が少しだけくらくらする。

 仄暗く青い目。上品で冷たげな美貌に、細い腰。聳えるような長身。艶やかな長い髪。

 あの日出会った環波の姿が思い起こされる。

 ……うん。性格は最悪より斜め上っぽいけれど、容姿は最上級。

 悔しいけれど、少しだけあの姿に惹かれた自分がいる。

 他人の見た目から入るなんて、おれも大概だ。

「……ばか。変人」

 でも、本当に馬鹿で変人なのは自分かもしれない。

 ふたたび寝転がり、枕に顔を埋めると翠は長いため息をついた。

 幸い漫画みたいに何を着て行こうだの、化粧はどうしたらいいだの考える必要はない。

 自分には制服がある。どこか不吉なほどに真っ黒なセーラー服が。

 制服は世界へのフリーパスだ。大抵の場所なら、どこにだって行くことができる。

 たとえそれがデートだって、最強装備で間違いなしだろう。


  §


 六月下旬の金曜日。

 約束の時間である十七時よりも十五分早く高校の正門前に出た翠は、あたりに環波春の姿がまだないことを確認すると、軽く息を吐いた。

 日中は教室で大人しく授業を受け、放課後は図書室で時間を潰し、夕方になるのを待った。

 翠は帰宅部で何の部活動にも所属しておらず、また委員会などの役職も辞している身なので、学内でも居場所は限られている。今日のように図書室で図書委員に紛れて読書をしたり、立ち入りが表向き禁止されている屋上に上がり込んで煙草をふかすか、空き教室を利用するかのどれかとなる。

 翠は三年生であるが、年齢的にはすでに十八歳を迎えており、ふつうの生徒よりひとつ年上だ。

 持病により長く休学をしている期間があり、通常通りの進級と卒業ができなかったため、三年生を二回やることになったのだ。

 そのため、事実上の学友たちは一足先に高校を卒業してしまい、翠はひとり取り残される形となった。クラスに友人と呼べる同級生も数名いるが、正直少しだけ浮いている気がして身の置き所に困ることもないではなかった。

 待ち合わせの時間まであと十分を切った。

 今日は髪をハーフアップにアレンジして、爪には自然な桜貝色のネイルを施し、教師から注意を受けない程度に化粧をして、それなりに身支度を整えてきたつもりだ。

 最後にリボンが曲がっていないか確かめ、少しだけきつく結び直す。

 背後の校舎からは吹奏楽部がコンクールに向けて練習をする音色が聞こえてくる。その時だった。

「きみ、ここの学生? かわいいじゃん」

「誰かと待ち合わせとかしてる?」

「時間あるなら少し付き合わない」

 翠は内心で「ちっ」と舌打ちをして、それとは裏腹に適当な微笑みを浮かべる。

「ごめんなさい。今はちょっと……人を待っているもので」

 翠に絡んできたのは大学生とおぼしき青年三人組だ。

 翠の通う道立高校は周辺に専門学校や国立大学の敷地があり、少し歩けば役所にも歓楽街にも行き当たる微妙な立地にある。

 だからこの時間帯にこのような若者がいてもおかしくはないのだが、タイミングは最悪だった。

 帰宅部組の下校時刻には生活指導の教員がいることも多いが、この時間は学校側の態勢も手薄であった。

「えー。少しならいいじゃん、カラオケとかさ」

「お勉強でつかれてるっしょ。おごるよ、おれら」

「ほら、いこ!」

 思いの外強い力で肩を掴まれる。体がびく、と震え拒否反応を示した。

 抵抗しようにも思うように腕に力が入らない。翠は思わず声を上げかけた。

「ちょ、やめ――」

「……なにしてるの。その子、僕の相手なんだけど?」

 よく通るが、低く、苛立ちを含んだ声が聞こえた。

 不機嫌極まりないといった表情の環波春がそこにいた。

 灰暗い青色の目には冷たげな怒りのような色が浮かび、冷たい美貌には下品なものでも見るような侮蔑の色が浮かんでいる。

「翠さんは待ち合わせに出てくるの、早すぎ。この辺は人通りも多い。若くて可愛いんだから、もっと気をつけなさい」

「えっ? えっ、ええ――ふぇ?」

 情報量が多すぎて翠はしどろもどろになった。

「で、君らはどうするの。さっさと帰れば? 北楡大生でしょ。それなら勉強で忙しいはずだ」

 上背のある環波の迫力に怯んだのか、青年たちは翠から手を離し、環波に軽く会釈する。

「っす。ですよね〜、失礼しました」

「じゃあ、デート楽しんで」

 などと言ってそそくさと正門から離れ、歓楽街方面へと去っていく。

 その後ろ姿を尻目に環波が「クソ虫が」と小さく吐き捨てたのを翠は聞き漏らさなかった。

 うわあ、この人なんかこわい。

 環波は一息吐くと改めて翠の方に向き直った。身長差で自然と上を見上げる形になり、翠は次に何を言われるのか不安になって一歩だけ後退った。

「ちょっと遅くなったかも。ごめんなさい。平気?」

「え、ええ……はい。大丈夫、です」

 先程までとは打って変わって、環波の態度はあくまで柔らかいものだった。

 拍子抜けしたというか、緊張感が一気にほどけて、翠は大きく息を吐いた。

「この前と同じ。すっごく緊張した! でも、環波さんが来てくれてよかった」

 まだ恐怖心が抜け切っておらず、そこから急激に弛緩したことで自然と笑みが漏れてくる。

「……よかった、って。当然のことだし。というか、だめ。そういう無防備なの禁止。だめです。君は本当に気をつけるように」

 環波は片手で口元を抑えると、ふい、と目を逸らしてしまった。

 心なしかその頬には僅かに朱がさして見える。

「なに。ひょっとして照れていますか? 相手はおれみたいな子どもですよ」

「……照れていません。だいたい子どもだっていうけど、もう十六、七歳にはなっているでしょう」

「惜しい、十八歳です。おれ、一年分留年していますから。環波さんはいくつなんですか?」

「二十六歳。今年で二十七になります。あと、環波じゃなくて春でいいです」

「ふーん。九歳差か。やっぱり春さんは大人でおれは子どもですね」

「……そうかな」

「そうですよ。ああ、とりあえず、移動しましょうか。先生が来たりしたらちょっとまずいから。今日は何か決めてあるんですか? というか、なんで誘ってくれたの」

「……なんとなく。いえ、この前のお礼、していないなって。だから、もし嫌いじゃなければ映画でもどうですか。おごりますよ」

「よろこんで」

 翠が微笑むと、春もようやく安堵したように微笑んだ。冷たげな横顔が少しだけ和らいで見えた。

 映画であれば札幌駅かすすきの駅方面に向かうのがいいだろう。ということで、二人は地下鉄の最寄りである北24条駅に向かって歩き始めた。

「今日は車椅子じゃないんですね」

「あの日は体調が悪くて。今日は歩けるから使っていません」

「では、少し歩調をゆっくりめにした方がいいかな。僕、歩くの早いでしょう」

「そうしてくれると助かります」

「……いっそ背負うこともできますけど?」

「それはとても目立つのでいやです」

 あの葬式ではタイトなブラックスーツ姿だった春も、今日は私服だ。スマートカジュアルとでもいうのか、薄手のニットに黒いボトムスとセットアップのジャケットを羽織っている。

 黒い制服姿の翠と並んで歩いていても不自然ではない格好だ。

 駅へと続く道を歩きながら、春が口を開いた。

「どんな映画が好き、ですか? ジャンルを指定してくれたら映画館で選ぶのが楽だから」

「映画ならアクションとかSF、あとはホラーが好きかもしれません。でも、けっこう色々見るんですよ。ミニシアター系もちょくちょく見ます」

「映画自体が好き、というわけか」

「そうなりますね。春さんはどんな映画が好きなんですか?」

「僕もわりと大雑把に見る方です。でも、北野武とかガス・ヴァン・サントとか、あとウディ・アレンが好きかな」

「けっこう渋い。でもたしかに好きそうですね」

「それは褒めてる? それともけなしてるの?」

「これから選ぶ映画によります」

「それは責任重大だ」

 そんなようなやり取りをしているうちに北24条駅に到着する。

 翠にはごうごうと唸る地下鉄の風が週末の匂いをさせている気がした。




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