第2話 ストロベリームーン〈下〉


「すみません。少し遅くなった」

 環波春は勤務先のバー〈proof〉の裏口から入店すると、素早く着替えてタイムカードを押し、カウンターに立った。

「ギリギリセーフだよ」

 すでに開店準備を終え、最初に来店したグループ客たちのカクテルを作り終えていたらしいマスターの小此木おこのぎ陸人りくとがにやりと笑って迎えてくれた。

「今日はまだ週半ばでお客さんも少ない。ま、気楽にやりましょ」

 五十代後半の割には些か若く見える小此木は、すすきの界隈では評判のいいバーテンダーだ。〈proof〉にはそんな彼の作るカクテルを求めてやってくる客が後を絶たない。

 従業員は店主の小此木と春を含めたパート・アルバイト従業員が三名所属しており、春はその中で最も遅いシフトに入る深夜帯スタッフだ。

 元々の体質が夜型の春にとっては何かと都合がよく、人間関係も良好で、恵まれた職場環境だといってよい場所だった。

 春が札幌に流れ着いて約半年になるが、幸いなことに仕事を変えたことも変えようと思ったこともまだなかった。

「こんばんは。やってる?」

 ドアベルが鳴り、アースカラーのレインコートを羽織った青年が入ってくる。

「もちろん営業中です。カウンターの奥、空いてるよ」

 小此木は笑顔で出迎え、青年がコートを掛けている間を見計らって春に目配せをする。彼は春の固定客だ。

 春は頷き、おしぼりを取り出し、氷をいれたグラスに冷たい水を注ぐ。相手が席にかけて落ち着くのを見計らってそれらを差し出す。

「殉哉くん、久しぶり。さて、何をお作りしましょうか」

「じゃあ、ホーセズネックをお願いしようかな?」

「かしこまりました」

 注文を聞くと、春は早速準備に取り掛かる。

 ホーセズネックは細長く刻んだレモンの皮を添えて提供するブランデーをベースにした酒で、爽やかな香りとほんのりとした甘味が楽しめるロングカクテルだ。

 螺旋剥きしたレモン一個分の皮をグラスの淵から中へと浸したデコレーションを目で味わうこともできる。その装飾が馬の首に見えたことからそう名付けられたらしい。

 春が器用にレモンの皮を削いでいく様子を、殉哉と呼ばれた青年はどこか愉快そうに眺めている。

「最近どう。春は元気なの?」

「……僕はそれなりに。こうして適当に働かせてもらっているし、まあまあだね」

「えー。なんか今日はすこし違う感じだけどな」

「そう? 別にふつうだよ」

「なんていうか、なんかイイことあった? みたいな」

 夏雪殉哉なつき じゅんやは職業年齢不詳で十分に怪しい客だが、妙に人懐っこいところがあり、見目麗しく人好きもするタイプだ。

 春よりも男性的ではあるがツンと通った鼻筋に怜悧な眼差し、西洋の彫刻のような顔立ちを春も一目で気に入った口だ。両耳はたくさんのボディピアスで飾られており、耳の裏には小さな刺青が彫られている少し厳つい外見とのギャップも魅力的だった。

 おまけに勘が鋭く、今のようなどこか風変わりなタイミングでこちらの心情や状況を言い当ててきたりするところも悪くはないと思っていた。

 おそらくであるが殉哉も春を気に入っているようで、春のシフトが入っている夜をめがけて通ってくる常連客だった。

「いいこと? なにそれ。ないよ、なんにも」

「またァ、嘘吐き〜」

「嘘じゃないよ。本当さ」

 切り終えたレモンの皮の端をタンブラーの淵にかけ、内側へ垂らす。そこへ氷を入れて、殉哉の好きな銘柄のコニャックを注ぎ、ジンジャーエールで満たすとできあがり。

「どうぞ。ホーセズネックです」

「ありがとー」

 春に向かって酒杯を掲げてみせると、殉哉は一口を含んで、幸福そうに飲み下す。

「……うん、美味しい。やっぱりなんかあったんだ」

「はあ、しつこいな。どうしてそう思うのさ?」

「春のことだからね。おれにはわかるんだ」

「なにそれ」

「なんでもだよ」

 杯を傾けながら艶然と殉哉が微笑む。まったく、仕方がない。

 根負けした春は「たしかに、ちょっと面白いことはあったよ」と答えた。

「ほらァ、やっぱり! マスターも春の顔見てればわかるよねー?」

「ぼかぁ環波検定5級だからまだちょっと難しいかな」

「いや、なんですか環波検定って。勝手に謎の資格を競わないでくださいよ」

「おれは既に2級を持っているからね! まァ、このくらいは簡単にわかっちゃうんだよねぇ」

「あなたがたに合格通知出した覚えはないですよ」

 謎の資格検定を持ち出し、小此木と殉哉が盛り上がる中で、春は夕刻の出会いを思い起こしていた。

 リボンまで真っ黒なセーラー服。渋い銘柄の煙草。

 相当に可愛らしいが、端的に言って変な少女だった。

 ふっくりとした頬に薄い顎、つやつやした髪を今時古風なおさげ髪にして結っていた。アーモンド型の大きな瞳は鳶色で、あの年頃相応の好奇心をいっぱいにして輝いていた。

 それなのにどこか蓮っ葉な物言いと態度で堂々と煙草をふかしていたのだ。

 ――こんなことは初めてだ、と思った。

 葬式に忍び込んで遺体と対面して得るスリルや高揚感、ばかばかしさ、それらよりも少女との奇妙な出会いごときに心を躍らせてしまうなんて。僕が。

 必要に迫られて始めたゲームはいつしか趣味や習慣といえるものと置き換わりつつあり、肝心の目的は未だ果たせぬまま。

 それなのに、埒外の出来事ひとつに気を取られてしまうだなんて、なんて馬鹿。

「……楽しい、か。へんなの」

 知らぬ間に口に出ていた一言を聞いていたらしい殉哉が意味ありげに微笑んだ。

「春は知っているだろうけど、ホーセズネックのカクテルには〈運命〉って言葉を当て嵌めることがあるらしい。花言葉みたいなものだな」

「何言ってんの、いきなり」

「だから、これは春の〈運命〉に。そう思って頼んだ」

「本当に意味不明なひとだね、殉哉くんは」

「それは褒め言葉ァ」

 そう言って、殉哉はあっという間にグラスを開けてしまった。

「ちょっと、せっかくきれいに作ったんだから、もう少し味わって飲みなさい」

「はいはい、次のはそうするよ」

 二杯目をどうしようか悩む殉哉の様子を見つつ、手元の片付けをしているとドアベルが鳴り、次のグループ客がやってきた。

 外はいつの間にか雨が上がったらしい。傘やコートなどの雨具を身につけて入ってくる客はもういなかった。

 水曜日の夜だというのに、結局その日も店は盛況で、春が一息をつく頃には深夜三時を回っていた。

 相当機嫌が良かったのだろう、閉店間際まで居座った殉哉を見送り、春はかろうじて夜明け前に退勤して店を出た。


 §


 ストロベリームーン。

 六月に見られる満月の呼称だ。

 あいにくの雨で今夜の札幌市内は月が見られないと天気予報で報じられていたが、どうやら予報は外れたようだ。

 春がビルの外へ出ると、夜明け前の昏い空にはぽっかりとしてまだ十分に明るい月が浮かんでいた。

 深夜のうちに雨雲はすっかり去って、大気はしっとりと澄み渡り、空は晴れていた。

 雨が運んできたどこか遠くの草木や土の匂いがする。

 満ちた月は歓楽街の影を冷たいアスファルトに落とし、周囲の闇に溶け込ませていた。春の影はそこにはいないのだが。

 殉哉は春に関することをめざとく見破って揶揄ってきたが、はたして自分はそんなに仕草や表情に感情を滲ませていたのだろうか。

 春の感情。

 うれしい。たのしい。そんなようなどこか浮ついた感情の機微を殉哉は本当に勘づいていたのだろうか。

 ……わからない。けれど、次からはもっと用心しなくてはならない。

 他人に見破らせる内心など、自分は持ち合わせてはいけないのだから。

 自宅までの帰り道は短い。

 もとより交通機関もない時間帯の勤務が生活の中心だし、タクシーや自家用車に乗る必要もない手頃な地域のアパートを選んで細々と暮らしている。

 普段は自転車を使うこともあるが、今日は雨が降っていたこともあり徒歩で移動していた。

 コンビニに寄る必要性もなく、自販機で煙草を二箱購入し、春は市街地の外れにある自宅へと早々に帰宅した。

 豊平川沿いのアパート、シャトー豊平弐番館。四階角部屋の405号室。それが春の間借りしている自宅だった。

 殆どが1LDKで単身者向けの間取りとなっているなんて事のないアパートだ。

 玄関を開けると、鍵を靴箱の上に置いたトレイに投げ入れる。じゃら、と音を立てて鍵束が器に収まった。

 靴と喪服のジャケットを脱ぎ、そのまま洗面台へ向かうと手と顔を軽く洗った。

 鏡には春の姿は映らない。当然わかりきっているそのことに、なぜだか少しだけ春は安堵した。

 電気などつけずに飾り気のないスラックスとシャツに着替え、リビングに足を踏み入れる。冷たい床の感触が裸足には心地よかった。

 この家の中で唯一異質な家具――もともと家具は最小限のものしか揃えていないが――研究用に用いられる小型の冷蔵装置を開けて、滅菌されたケースから輸液パックを一つ取り出すと、ソファに腰を下ろした。

 春は、吸血鬼だ。

 血を吸う鬼と呼称される異形の存在。

 幼い頃にそう成って、そのままずっと世間から自らを偽って生きてきた。つまりは人間のふりをして。

 ……札幌はいい。北国で日照時間も少なく、人の数も程よいほどに少ないから、まだ暮らしやすいほうだ。

 吸血鬼の体は日光に弱く、陽光に晒されれば数分で炎に巻かれてしまう。

 祝福を奪い去られ、人々からは恐れられる存在であること――そのくせ絵空事の向こう側に置き去りにされた存在であることを、春はもう十分に知っていた。

 将来的にはここより以北に移り住むことも視野に入れているが、複数の面で難がある。北へ行くほどに〈食事〉にありつくことが難しくなることはわかっているから。また、都市部であるが故、いろいろなものにアクセスしやすいという文明の恩恵も捨てがたい。

 それに、この街でやるべきことをまだ残したままだ。

 このままでは北へ渡ることはできない。わかっている。

 春は輸液パックが適温になったと判断し、封を切ると一緒に持ってきたストローを挿した。そのまま輸血用血液を啜る。

 色。光。ぼんやりとした輪郭。それから音の波。

 他人の記憶と記録の断片が春の中に流れ込んでくる。名も知らぬ誰かの人生の一部、一欠片が春の中に溶けてゆく。

 どこまでも他人の味でしかないそれが春を生かし続けるほぼ唯一のエネルギー源だ。

 また違う方法で人間の精気を奪い、吸い取ることもできるが、春はそれが苦手だった。最後にそれをしたのは二ヶ月ほど前の筈だ。そのときも後で最悪な気分になった。

 だから、専ら地下ルートを介して横流しにされた医療用血液製剤に頼って生きている。

 それらは血の味はしても無味乾燥で、淡白なものだ。直接誰かを襲って血を吸う行為を経ず、何の情動も伴わないからだろう。人間にとっては、そう――乾パンを食べているようなものだ。

 食事。エネルギーの摂取。ただそれだけの行為。

 流れ込んでくる誰かの記憶はノイズめいていて、空腹が満たされていくのとは逆に春の内心の飢餓感を煽ってくる。

 思わず吐き出しそうになりながらも血液を啜り終えると、専用のゴミ箱に投げ捨て、そのままソファに倒れ込んだ。

 つらい。さみしい。いたい。かなしい。むなしい。

 乾いた心は、しかしきっと別の誰かの記憶にすぎないのだろう。そう自分に言い聞かせながら瞳を閉じる。

 朝が来る前に眠らなければ。陽の光から逃れなければ。

 祝福は自分にとっての呪いなのだから。

 泣きそうになりながら横になっていると、ふと夕方の出来事が脳裏に甦ってきた。

 どこか変わったあの娘。なんていったっけ、そう――すいだ。

「待って。連絡先、教えて。SNSでもいいから!」

 そうだ。少女はそう言って半ば強引にチャットアプリのIDを伝えてきたのだった。

再見ツァイチェン!」

 別れ際、なぜか中途半端な中国語で「またね」と言って少女は手を振っていた。本当に変なやつ。

 微睡かけた身体を起こして、そこら辺に投げ出していた携帯端末を拾う。

 アプリを起動し、ろくに登録者のいないリストを調べるとその中にたしかに「榎島翠」という名前が追加されていた。これに間違いないだろう。

 煙草をふかし、屈託なく笑う少女。翠は自分のことを「おれ」と言っていた。それが妙にひっかかって、春は殉哉のことを連想した。何となく重なってみえるというか、彼らは似ているのだと気がついた。中世的で端正な顔立ちも含め、人好きする印象が妙にそれっぽい。

 厄介な、正直なところ言葉を選ばずに言えば面倒な人間に好かれたものだと思う。

 好かれているのかは正確にはわからない。しかし、興味の対象となっているのは間違いないだろう。

 意を決して液晶をタップすると翠のアカウントのプロフィール画面に飛び、かわいらしくデフォルメされた猫のイラストのアイコンと背景画面として翠が設定したであろう海の景色が表示された。夜明けの海の写真だった。

 彼女は夜明けの海を訪れたことがあるのだろうか。

「……案外、ふつうっぽい」

 プロフィールの他には個人の近況などの投稿もありそうだったが、それ以上の情報を追うのはやめておいた。

 指を滑らせると、チャット画面が開かれる。

 ……自分はいったいなにをしようとしているのだろう。

 これはとんでもないミスかもしれない。

 後々、散々な目をみる予兆かもしれない。

 でも、既にあの場で述べたとは言え、礼くらいは伝えてもいいかもしれない。

 しかし、それ以上はだめだ。自分が関わるべきではない。もう誰も壊し殺してはいけない。わかっている。けれど――。

 さんざん迷った末に、春は「環波だけど。今日はありがとうございました。さようなら」と打ち込み、間を置いてからやっと送信ボタンを押した。

 それきり余計な通知は全て切り、端末を電源ケーブルに繋いで充電状態にしておいた。

 陽光の射ささない浴室へ移動すると、毛布にくるまり丸くなる。

 疲労感と虚しさがすぐに眠気をつれてきてくれた。

 そのまま次の夕方まで春は目覚めなかった。


 

 昼間流れたニュースでは、夜間に殺人事件が起きたこと、それがここのところ札幌市内で起きている連続殺人事件に関係している可能性が高いことが報じられた。

 春がそれを知るのは夕方、陽が沈んでからのことだった。


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