Sick

津島修嗣

第1話 ストロベリームーン〈上〉


 逆境が人に与えるものこそ美しい。それはガマガエルに似て醜く、毒を含んでいるが、その頭の中には宝石をはらんでいる。(シェイクスピア)


 Sweet are the uses of adversity, Which, like the toad, ugly and venomous, Wears yet a precious jewel in his head.

                    – William Shakespeare



 六月十日、雨の夕刻。

 札幌市北部に位置する斎場では今夜も故人の葬儀が営まれようとしていた。

「北海道に梅雨がないなんて、今時もう通じないですよ」

「近頃はよく降りますもんねぇ」

「ほんと、札幌は住みやすくていいなんて言うけど、本州と変わらないくらいだ」

 余分な装飾などない清浄な佇まいのエントランス・ホールは黒一色、喪服姿の人々でそこそこに賑わっていた。

 近況を伝え合う人々や故人についての話をする者、式の前に喫煙室へ向かう大人たち。トーンを落とした控えめな会話が場の雰囲気を幾分か和らげている。

 一方でメインホールには鯨幕がぐるりと張られ、式場を外界と遮蔽していた。

 会場前の小さなスクリーンには『故 田中莉奈 田中家葬儀式場』という案内が投影されている。

 要するに、なんてことのないお別れのセレモニーが行われようとしているだけだった。

 姉の朱美あけみに付き添われて会場入りした榎島翠えのしま すいは、顔見知りへの挨拶を済ませ、エントランスからメインホールを眺めていた。

 式場の中央、白い花に囲まれた遺影は翠とさして変わらぬ年齢の年若い少女のものだ。死因は小児がん――悪性リンパ腫を患い、治療の甲斐も虚しく一四歳で亡くなったという。

「莉奈ちゃんに白い花は似合わない。どうせ死ぬのなら青とかピンク色の花に囲まれていたいって話していたもの」

 そう吐き捨てるように言うと、肩を朱美に小さく小突かれてしまった。翠はかろうじてまだ高校生で、そのため黒いセーラー服さえ纏っていれば事足りた。というか制服さえ着ていれば大抵の場所には立ち入ることができるのだから徳である、とも思っていた。まるで世界へのフリーパスではないか。

 対する朱美はかっちりした喪服に身を包み、髪をアップにして、場違いにならない程度に化粧をしている。翠は「朱美が武装している」と揶揄い、朱美は「あなたもいずれこういう格好をする時がくる」と返り討ちにして翠をうんざりとさせた。

 歳の離れた姉妹である二人は両親の離婚後、母親に引き取られ、その母親も病気で若くして亡くなってしまった。母の死後はすでに成人していた朱美が翠を育ててくれた。

 そのため、二人は姉妹というよりは親子あるいは友人同士のような関係を築いていた。

「田中さんのお父さんがきた。わたし、挨拶に行ってくる」

 ここで待っていろ、というようにすかさず朱美が歩き出したので、翠はその場に置いてけぼりを喰らってしまった。

 邪魔にならないように端に避けて弔問客を観察する。

 葬儀。通夜、あるいは告別式。翠にとってはさして珍しくも無い光景が今夜も目の前にある。

 故人を想って涙する者、様子を少し遠くで伺う者、まだその意味すら分かりあぐねている子どもたち、わけ知り顔の大人たち。少なくはない数の客が集まっているが、翠にとっては皆同じように見えていた。

 雨が降っている。こういう日は煙草が吸いたくって困るな。

 そんな罰当たりなことを考えていると、背後で自動ドアが開いた。それなのに人間が入ってきたという気配がない。どういうことだろう。

 思わず振り返ると、黒より濃く映える闇がそこにあった。

 雑踏が遠のき、すべての音が止んだ気がした。

 ゆったりとエントランスに進み出てきた人物は、大きな蝙蝠傘をさっと払って雨粒を落とし、畳んだ。傘がなくても聳えるような長身。それをブラックスーツに包んだ青年の姿が現れた。

 しなやかな四肢に細い腰。上品で恐ろしいくらいに整っているけれど、冷たい顔立ち。

 もしかすると外国人なのかもしれない。目の色が仄暗い青色であることに翠は気が付いていた。

 丁寧になでつけた髪を後ろで一本に結えている。長い前髪が一房、申し訳程度にその美貌を遮っていた。

 彼がエントランスに足を踏み入れた瞬間に弔問客の視線が集まる。控えめな笑みを浮かべ、誰ともなく会釈をすれば自然と人が彼を避けて歩いた。

 けれど、彼はそんなことは一個だにせずにそのままホール奥の喫煙室へと消えていく。ひょっとしたら知り合いが待っているのかもしれない。

 あるいは――と。翠は思う。彼は自分にだけ見えるまぼろしなのかもしれない。

 翠は別の葬式でも彼の姿を見たことがあった。

「お式の用意が整いました。参列される皆様はメインホールへご入場ください」

 葬儀場の係員が呼びかけると、エントランスにたむろしていた人々はメインホールの中へ移動を始めた。

「翠、私たちも中に行きましょう」

 いつのまにか姉の朱美が戻ってきて、翠の乗った車椅子を押してくれる。

 翠も朱美も、鯨幕の向こう側に入っていった。

 あとには、そこそこに長い読経と喪主である莉奈の父親の挨拶など、ごくありふれた手順のセレモニーが待っていた。

 読経や挨拶の最中には、啜り泣く声も混じっていた。

 翠には音よりもお香と供物の花々、それに参列者の体温でぬくめられた化粧やら何やらの体臭――この場を満たす匂いの方が気になった。

 若くして死ぬ――死ぬには若すぎると人は言うが、それは果たしていくつまでのことを言うのだろう。

 嘘偽りもなく死は誰にだって訪れるが、辿る運命までは選べないのだ。

 現に街では最近になって物騒な連続殺人事件の報道が連日連夜繰り返しなされている。

 病で死のうが、事故でしのうが、それとも誰かに殺されようが関係ない。

 次は自分かもしれない。

 次に死ぬのはこのおれかもしれないのに。

 翠は朱美には分からないように膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめた。



 その事件は通夜が終わりかけたときに起きた。

 タクシーを待つ弔問客やそのまま駅前へと歩き出す家族連れもある中、翠と朱美が共通の知人と閑談をしていた折、ホール内から半ば怒鳴るような声が響いてきた。

 場違いな声量と詰るような物言いに何事かとホールの中を覗いてみれば、先程の青年が棺のすぐ横で喪主である男性――故人の父親に詰られていた。

「どういうつもりなんだね、君。警察を呼ぶぞ」

「その……申し訳ありません。少し誤解をなされているようで。僕はただ莉奈さんに」

「黙れ。君が娘の、いや、この場の誰の知り合いでもないことはわかっている。人様の葬式に忍び込むなんて、どうかしている! その上いつまでも遺体をじろじろと眺めて……何を考えているんだ!」

 青年の冷たい美貌には僅かではあるが焦りの色が浮かんでおり、彼が発する弁明の言葉は取り付く島もなくすぐに遮られてしまう。

 さらには施主である莉奈の母親や複数人の親族がそこに加わろうとしている。

 話は単純で、彼はこのセレモニーにはまったく無関係の人間であり、彼にとっては都合の悪いことにそれが故人の家族にバレてしまったということらしい。

 莉奈の父親は顔が広い方だが、この式に限って参列者はおのずと莉奈に関係する人物が中心となるため、その範囲はたかが知れている。おそらくではあるが、彼らが憤っているとおり、悪いのは葬式に勝手に紛れ込んだという青年の方だろう。

「翠、帰ろうか。ちょっと雲行きが怪しいし、これ以上は私たちがいても迷惑になりそうだ」

「姉さん」

 姉の朱美が言う通り、青年を詰めるうちにさらに頭に血が上った喪主が本当に警察を呼びかねない様子に発展しかけている。

 潮時。その通りだろう。故人との関係からしても義理は果たした。騒ぎに巻き込まれる前にこの場を後にするべきだ。

 でも――あの白すぎる横顔。悪い夢のような不吉な美貌。虚しい青灰色の瞳。

 もしかしたら、馬鹿は自分かもしれない。

 おれは他人の葬式に忍び込むような馬鹿を働くよりも愚か者。

由紀よしきおじさま! ごめんなさい。その方はわたしがお声がけしてお呼びしたんです」

「ちょっと、翠?」

 朱美が何か言うよりも早く腕が動いて、車椅子を彼らのほうへ近づけていた。

「君は……翠ちゃんか」

 翠は揉めていた二人の間に最大限近づくと、軽く会釈をしてみせた。

「はい。お久しぶりです。その……最後の方はわたしも体調が優れず、なかなか会合に顔を出せなくてすみませんでした。それで、その方なのですが」

「あ、ああ。この男――いや、彼は君の知り合い、なのかい?」

「ええ。わたしの所属している小児がん治療のボランティア、彼――紺野こんやさんもその学生メンバーなんです。まだ加入して間もないのですが、莉奈ちゃんとも少しだけ……。最初にお別れするのが莉奈ちゃんだったから、どうしても参列したいって。それで、わたしが式の日取りをお伝えしたんです。ご家族の皆様にはご迷惑だったかもしれません。でも、自分が関わった子としっかりお別れする機会が無いのはわたしたちにとっても辛いことなのです。だから、すこし余計なことをしました。ごめんなさい」

 翠はいつしか目許を潤ませ、青年と莉奈の父親を交互に見つめた。

 青年も翠に倣い、静かに頭を下げて謝る。冷たく醒めた美貌はそうした動作をとることによって幾分か真摯な色を帯びてみえるだろう。

「そ、そうだったのか。それならそうと早く……いや、私たちのほうこそ早合点して悪かったね。莉奈の……娘のために、よく来てくださいました。十分なおもてなしもできずに恐縮ですが、線香の一本で構いません。どうぞ、お別れをしていってあげてください」

「……僕の方こそ、急に申し訳ありませんでした。翠さんの言う通り、実習の途中まででしたが莉奈さんと関わらせていただくことがありました。僕が言うのもなんですが、こんなに娘さん想いのご家族がいらっしゃるとわかってよかったです」

 翠は青年を伴って再度遺族に礼をし、棺のそばに行くと、線香を香炉に立てた。そして合掌し、深く一礼する。

「本当に、長居をしてはご迷惑になりますので、わたしたちはこれで失礼させていただきます。この度はご愁傷様です。心よりお悔やみ申し上げます」

 翠と青年はそうして式場を後にした。

 無事にホールから出てきた二人をみて、朱美が意味ありげな笑みを浮かべている。

 翠が目配せをすると、朱美は肩をすくめて会場の外へ出ていった。


 §


 式場は最寄り駅へと続く陸橋に隣接している。

 陸橋の下では会場で大っぴらに煙草を吸えなかったものが屯していることがほとんどなのだが、皆が帰途につくこの時間帯は二人の他に誰もいなかった。

 翠は制服の胸ポケットからタバコを取り出すとライターで火をつけて、煙を吸い込んだ。

 そのまま長く息を吐く。

「……はー。もうすっごく緊張した! 吸う?」

 翠が車椅子で移動する間も黙ってついてきた青年は、翠の横に並ぶと「ありがと」と短く言って煙草とライターを受け取った。

 咥えた煙草にさっと火をつけて、ライターを翠に差し出す。すんなりとした動作は思いの外優しげだった。長くて細い手指が翠の興味を俄然に引いた。

「で、あなた何? 誰?」

「紺野じゃないの?」

「それはおれが適当につけた名前でしょ。一つでっかい貸しなのだから、素直に名前くらい名乗りなさいよ?」

環波春かんなみ はる。バーテンダー。君は学生? なのに煙草を堂々と吸ってる」

「これは訳ありだからいいの。あなたこそ、堂々と他人の葬式に紛れ込んでた」

「そうだよ。葬式ゲーム。僕の数少ない趣味のひとつさ」

「それであんなふうに捕まりそうになって、馬鹿じゃないの」

「今夜のはスリルがあって楽しかったけど、確かに危なかったな……うん、たまには失敗もあるよ」

「教えておいてあげるけど、今日みたいに開けた形式のセレモニーでも、病死した子どもの葬式は避けたほうがいい。小さい頃から同じメンツに囲まれて生きているから、部外者はとても目立つの。というかあなた男の人? それともほんとは女の人? ともかく、ただでさえあなたの外見は目立つから、気をつけた方がいい」

「僕の容姿がそんなに? それはご忠告痛み入る」

 皮肉げにそう吐いてみせる春の容貌を間近でみて、翠は遠巻きに見ているときよりもずっと彼が綺麗であることに驚いていた。

 白く艶かしい横顔。すっきりとした顎のラインが酷薄そうに見え、やはり冷たい印象を与えるけれど、切長の青い瞳も、首から肩の薄い輪郭も、何もかもがひどく美しい。

 少し笑った時に覗いた真珠色の犬歯は鋭すぎて、獰猛な獣のようでもあった。

 煙草を吸う様子も優雅で浮世離れしていて、しばらく独り占めをして眺めていたいくらいだった。

「で、翠さん。きみはどうして僕を助けたのかな?」

「おれはあなたを別の葬式でもみかけたことがある、だから」

「……だから?」

「環波さんがおれにだけ見えるまぼろしかと思った。だから助けた」

 翠の言葉に春は面をくらったように目を瞬いた。そして数秒ののち、お腹を抱えて大笑いし始めた。

「まぼろしときた! そいつは傑作だ。なに、きみも葬式ゲームが趣味? 札幌中の通夜の常連ってわけ? これってそんなにメジャーな趣味じゃないと思うけどな!」

「おれにだって事情があるのだよ。ともかくさ、おれはあなたが気に入ったから機転をきかせて助けることにした。実際、焦っていたでしょ? その証拠におれの嘘にあなたは簡単に乗っかってきた」

「それは、渡りに船というか……わかってる。僕はきみに助けてもらった。だから、ありがとう」

 決まりが悪そうにそう口にする春はようやく年相応の青年の顔に見えた。だがそれも一瞬の話で、すぐにまた冷たい氷のような表情に戻ってしまった。

「それじゃあ、共犯ね。おれたち」

 翠が煙草の煙で輪っかを作ってみせると、春は些か複雑そうな表情になった。

「……翠さん。せっかく助けてもらって悪いけど、僕はそろそろ行くよ」

「待って。連絡先、教えて。SNSでもいいから!」

 翠のお願いには先程の貸しによる効力があった。春は渋々といった体で最もメジャーなテキストチャットアプリのIDを翠と交換すると、その場から去っていった。

 黒いスーツが初夏の闇に溶け込んで、いつの間にか春の姿は見えなくなっていた。代わりに残されたのは花のような甘やかな芳香だった。ライラックの季節はもう過ぎているのに、と翠は思った。

 翠はもう一本煙草を吸うと、朱美が待つ最寄り駅へと向かって車椅子を漕ぎ始めた。




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