海の上

山猫拳

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった、あった? そんなことあったんだっけ? 


 微睡まどろみの中でゆっくりと目を開く。足をばすと、ちゃぷんと音が立つ。水面みなもが揺れてあごらした。どうやらバスタブの中で少し寝てしまったらしい。


 湯はすっかりぬるくなっている。自動保温が切れてしまったのだろうか。首を鳴らして7じょうはある広いバスルームをぐるりと見廻す。


 5年前はこの広さのワンルームに住んでいた。かせいだ金は使ってみて初めて実感できる。壁に埋め込んであるリモコンを操作したいが、身体が重くて腕が上がらない。



 そうだ、酒を抜きたくて風呂に入った。先月購入した7LDKの自宅に昼から仲間を呼んでさわいでいた。


 リモコンの表示を見ると、すでに日が変わってしまっていた。始めは二〇人くらいが一階のダイニングで入り乱れていたが、夕方には半分に減り、夜一〇時をまわる頃にはごく親しい友人とレンだけが残った。


 悪友二人と恋人だけの二次会だ。散々に飲んで昔のことにくだを巻いた。


「ナオト、私もシャワー浴びていい?」


 レンの声が聞こえて、フロストガラスの扉に映る人影に目をる。

「あぁ、ちょうど良かった……」


 ガラスが真ん中からパッカリ開いて、白くて長い脚と大きくて丸い綺麗な胸が現れる。まなじりが少し吊り上がった大きな瞳、やや厚めの形の良い艶やかな桜色の唇。レンは俺がこれまで会った女の中で最も美しい。


「なに? ちょうど良かったって」

「湯が冷めたんだ、追い炊き押してよ」


 レンは少しあきれたように眉を寄せて笑いながらバスタブに近寄って、壁のリモコンを押す。そしてシャワーを浴び始める。


 驟雨しゅううのようなシャワーがレンの身体をらす。レンに会う前までは、女は皆ネズミのようだと思っていた。どこからともなくいて、俺の精神こころ身体からだと金をかじる。


 レンは違った。気位の高い猫のようだと思った。友人に連れられて乗り気しない様子で店に現れた美しいレンを見て、少し色を付けて接客した。レンはそんな俺をどうでもいいという様子であしらった。


 支配的な太客の舐めるような目や、すがりつくようにこびを売る糸くずのような客のどれとも違っていた。泥の中に突如咲いた蓮のようで、どうしても欲しくなった。


 レンの身体を包んだ白い泡が、水に押されて肌をってなめらかに流れていく。その一連の様子をただぼんやりとながめる。


「なぁ、レンも入れよ」

 そう言ってバスタブにつかったままの指先で水面みなもを揺らす。


「いやよ。せっかく綺麗きれいにしたのに」

「また洗えばいいじゃん、風呂なんだから」


 レンがシャワーを止めて俺の方をジロリとる。

「それとも、下にいる二人もここに来いって呼ぼうか?」


「やめて、わかった。その代わり、明日はダイビングにつきあってよ」

 恨めしそうに唇をとがらせて、バスタブに歩み寄る。レンなら不機嫌ふきげんな顔でにらまれるのも良い。


 レンは船舶せんぱくの免許も持っていて、ダイビングもかなりの腕前だ。海の好きなレンのためにこの家を買った。俺に向かい合うように入って来た身体からだを抱き寄せる。レンのやわらかな身体と時折ときおりれる吐息といき堪能たんのうする。


「ねぇ……さっき三人で話してた、お客の女の子たちを新しいクスリの実験に使わせてたってアレ、本当?」

 首にしがみついたままレンが耳元でささやく。


「本当だけど、レンにはそんなことはしない。アレは売掛うりかけが溜まってるくせに恋人気取りの失礼な女にしかやらないよ。借金がチャラになって、俺の役に立つんだからむしろ喜んでるかも」


「そっか……ホストの嘘を信じた可哀そうな女の子たちってこと……?」

「嘘が分かる女しか、あんなところで遊んじゃだめってこと」


 高校を出て就職した会社はノルマがきついだけの不動産営業で、俺は半年もせずに辞めて、夜の仕事を始めた。

 そんなときに地元の先輩に声を掛けられて、少しヤバいが金回りの良いグレーな仕事をいくつか紹介された。そのうちの一つにドラッグの出来を試すバイトがあった。


 変化する取締とりしまりに合わせて、成分を少し変えたドラッグが夜の街にはあふれ返っている。合法の定義が変わるたび、沢山の新作が生まれた。


 使えるモノかどうか? それを試すための人間もそれと同じくらい必要とされる。多くは一か月くらい連絡を絶っても、怪しまれるどころか清々せいせいされるホス狂いの女。


 もしも製品が不良だったとしても、クスリに逃げた馬鹿な女の末路と言うことで誰もまともに取り合わない。


「ナオト……×××って覚えてる?」

 レンが俺の顔を見つめて呟く。誰かの名前を言っているようだが声がくぐもってよく聞き取れない。


「はっ?」

 そう言った俺の首にレンの細い指がからみつく。そのまま上から押されてバスタブの中に沈められる。いつものレンとは思えないくらいに強く重い。腕をばたつかせてレンを押しのけようとするが、何かに当たった手ごたえはなく虚しく腕が踊るだけだ。


 水面越みなもごしに見えるレンの顔がゆがんで渦巻うずまき、恐ろしい黒い塊に変わる。レンはどんどん重くなって、俺は沈んでいく。バスタブがこんなに深いはずはない。けれど、際限さいげんなくどこまでもどこまでも俺の身体は沈んでいく。


 そして何かが頭にぶつかったような痛みが走る。俺はひきつけを起こしたように、身体を持ち上げる。だが、何かが背中を引っ張る。


――――――――――

 ―――――俺は風呂に……いや違う。俺は今、海の中にいる。そうだダイビングをするためにレンが船を出して……右のこめかみがズキンズキンと痛む。


 赤い液体が目の前を渦巻うずまいて流れ、上に登っていく。引っ張られているんじゃない。背中のボンベが引っかかっているんだ。


 見ると細いなわのようなものが周囲に張り巡らされている。定置網ていちあみに引っかかったんだ。


 急いで外れたレギュレーターを口に入れて酸素を吸い込む。途端にせき込んで、飲み込んだ水を吐き出す。それを何回か繰り返すうちに朦朧もうろうとした意識がはっきりと戻って来た。




 飲んで風呂に入って、そこにレンが来てそれで……ダイビングがやりたいとレンが言った。二人で船の上でゆっくりしようって。


 海から戻ると、レンが先に船に上がった。上がろうとした俺を突き落として、それで言ったんだ。

「半年間ずーっと見て来たけど、お姉ちゃんがあんたのこと好きな理由、全然わかんなかった。ねぇ……ナオト覚えてる? お姉ちゃんのこと」


 俺は呆気あっけに取られてレンの様子を海面かいめんから顔を出して見ていた。

「は? 何? ふざけんなよ、とりあえず上がらせろ」


 船の甲板かんぱんから降ろされた梯子はしごつかむ。その指を狙ってレンが角材かくざいを振り下ろす。俺は声も上げれない痛みでまた海中に落ちる。


 レンはふざけているのではない。本気で俺を海から引き上げる気がない。

「レン……どうしたんだよ。頼むよ、とりあえずそこから離れて、そんなもんも捨てろ。な?」

 レンは静かに首を横に振る。


「可哀そうだから三分あげる。お姉ちゃんの名前、思い出してくれたら引き上げてあげる」

 レンはそう言って笑う。無邪気むじゃきな美しいあの顔で。何なんだ、俺はレンの姉なんか知らない。客の女の中にいたとでもいうのか? あのネズミどもの中に。


「サユ? ミナコ? ……ナナカ? えーっとケイ? いや、あーもうなんかヒント、ヒントくれよ」

「本当にサイテーだね。粗悪なクスリでお姉ちゃんダメにしといて、名前も覚えてないの? 三分は短すぎたね。しばらくしたらまたここに戻ってきてあげる。それまで楽しんで」


 レンは手に持っている角材を俺に向かって放り投げた。あっと思ったときにはすでに遅く、角材は俺のこめかみに当たって、そこで俺の意識は途切れた。



―――――――――――

 ―――――ボンベの残圧ざんあつを確認する。すでに30を切っている。視界は悪いが、時折ときおり光が揺らめいて俺のところに届く。海面の方向は分かった。


 ボンベにはもうどうせ酸素はほとんど残っていない。俺は呼吸を整えてボンベを身体から外す。そして最後の酸素を十分に吸い込んで、光の方向を目指して浮上する。あと少し、もう少し。耳の痛みなんか気にしてはいられない。一刻も早く上に出なくては。


「っはぁ、はぁっ……なんだよ、ここどこだよ……」

 沈みかけた太陽がきらきらと海面を光らせる。それ以外は何もない。


 茫漠ぼうばくとした海の上に俺はただ浮かんで、ダメにした女たちの名前を一人づつ思い出してみようとしたが、何も浮かんでは来なかった。


 了

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海の上 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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