海の上
山猫拳
◆
俺には三分以内にやらなければならないことがあった、あった? そんなことあったんだっけ?
湯はすっかりぬるくなっている。自動保温が切れてしまったのだろうか。首を鳴らして7
5年前はこの広さのワンルームに住んでいた。
そうだ、酒を抜きたくて風呂に入った。先月購入した7LDKの自宅に昼から仲間を呼んで
リモコンの表示を見ると、
悪友二人と恋人だけの二次会だ。散々に飲んで昔のことにくだを巻いた。
「ナオト、私もシャワー浴びていい?」
レンの声が聞こえて、フロストガラスの扉に映る人影に目を
「あぁ、ちょうど良かった……」
ガラスが真ん中からパッカリ開いて、白くて長い脚と大きくて丸い綺麗な胸が現れる。
「なに? ちょうど良かったって」
「湯が冷めたんだ、追い炊き押してよ」
レンは少し
レンは違った。気位の高い猫のようだと思った。友人に連れられて乗り気しない様子で店に現れた美しいレンを見て、少し色を付けて接客した。レンはそんな俺をどうでもいいという様子であしらった。
支配的な太客の舐めるような目や、
レンの身体を包んだ白い泡が、水に押されて肌を
「なぁ、レンも入れよ」
そう言ってバスタブにつかったままの指先で
「いやよ。せっかく
「また洗えばいいじゃん、風呂なんだから」
レンがシャワーを止めて俺の方をジロリと
「それとも、下にいる二人もここに来いって呼ぼうか?」
「やめて、わかった。その代わり、明日はダイビングにつきあってよ」
恨めしそうに唇を
レンは
「ねぇ……さっき三人で話してた、お客の女の子たちを新しいクスリの実験に使わせてたってアレ、本当?」
首にしがみついたままレンが耳元で
「本当だけど、レンにはそんなことはしない。アレは
「そっか……ホストの嘘を信じた可哀そうな女の子たちってこと……?」
「嘘が分かる女しか、あんなところで遊んじゃだめってこと」
高校を出て就職した会社はノルマがきついだけの不動産営業で、俺は半年もせずに辞めて、夜の仕事を始めた。
そんなときに地元の先輩に声を掛けられて、少しヤバいが金回りの良いグレーな仕事をいくつか紹介された。そのうちの一つにドラッグの出来を試すバイトがあった。
変化する
使えるモノかどうか? それを試すための人間もそれと同じくらい必要とされる。多くは一か月くらい連絡を絶っても、怪しまれるどころか
もしも製品が不良だったとしても、クスリに逃げた馬鹿な女の末路と言うことで誰もまともに取り合わない。
「ナオト……×××って覚えてる?」
レンが俺の顔を見つめて呟く。誰かの名前を言っているようだが声がくぐもってよく聞き取れない。
「はっ?」
そう言った俺の首にレンの細い指が
そして何かが頭にぶつかったような痛みが走る。俺はひきつけを起こしたように、身体を持ち上げる。だが、何かが背中を引っ張る。
――――――――――
―――――俺は風呂に……いや違う。俺は今、海の中にいる。そうだダイビングをするためにレンが船を出して……右のこめかみがズキンズキンと痛む。
赤い液体が目の前を
見ると細い
急いで外れたレギュレーターを口に入れて酸素を吸い込む。途端にせき込んで、飲み込んだ水を吐き出す。それを何回か繰り返すうちに
飲んで風呂に入って、そこにレンが来てそれで……ダイビングがやりたいとレンが言った。二人で船の上でゆっくりしようって。
海から戻ると、レンが先に船に上がった。上がろうとした俺を突き落として、それで言ったんだ。
「半年間ずーっと見て来たけど、お姉ちゃんがあんたのこと好きな理由、全然わかんなかった。ねぇ……ナオト覚えてる? お姉ちゃんのこと」
俺は
「は? 何? ふざけんなよ、とりあえず上がらせろ」
船の
レンはふざけているのではない。本気で俺を海から引き上げる気がない。
「レン……どうしたんだよ。頼むよ、とりあえずそこから離れて、そんなもんも捨てろ。な?」
レンは静かに首を横に振る。
「可哀そうだから三分あげる。お姉ちゃんの名前、思い出してくれたら引き上げてあげる」
レンはそう言って笑う。
「サユ? ミナコ? ……ナナカ? えーっとケイ? いや、あーもうなんかヒント、ヒントくれよ」
「本当にサイテーだね。粗悪なクスリでお姉ちゃんダメにしといて、名前も覚えてないの? 三分は短すぎたね。
レンは手に持っている角材を俺に向かって放り投げた。あっと思ったときにはすでに遅く、角材は俺のこめかみに当たって、そこで俺の意識は途切れた。
―――――――――――
―――――ボンベの
ボンベにはもうどうせ酸素はほとんど残っていない。俺は呼吸を整えてボンベを身体から外す。そして最後の酸素を十分に吸い込んで、光の方向を目指して浮上する。あと少し、もう少し。耳の痛みなんか気にしてはいられない。一刻も早く上に出なくては。
「っはぁ、はぁっ……なんだよ、ここどこだよ……」
沈みかけた太陽がきらきらと海面を光らせる。それ以外は何もない。
了
海の上 山猫拳 @Yamaneco-Ken
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます