ワンナイトラブ? (OL(二十五歳) @会社 (その1))

「佐伯さん。二番に資材部から内線です」

「はいよ」


 佐伯さんは私に軽く手を挙げて、電話に出た。


 私は自分の顔が赤らんでいることを自覚しながら、しずしずと椅子に腰を下ろした。

 胸がドキドキしている。

 呼吸が浅い。


 佐伯さんはどうなのだろう。

 私の二つ左隣の席の向い側に座っている佐伯さんの顔は見えない。

 きっと、平然としているのだろう。

 微かに聞こえてくる電話でのやり取りの声も気負うところはなく、いたって自然だ。


「佐伯君。ちょっと良い?」


 電話が終わるやいなや、佐伯さんは上司に呼ばれて立ち上がった。


「何でしょうか?」

「昨日のプレゼンの質疑応答メモできてる?」

「できてますよ。って言うか、もう係長に送ってありますけど」

「え?そうなの?……あ。本当だ。悪いね、佐伯君。ありがとう」


 佐伯、という名前が耳に飛び込んでくるたびに私はドキドキうろたえてしまう。

 馬鹿みたいだ。


 でも、仕方ないじゃない。

 昨日の今日なのだもの。

 もっと言えば、あれからまだ丸一日は経っていないのか。

 昨日の今頃は佐伯さんの名前を聞いても、こんなに心が動じてしまうことはなかったのに。



 昨日、営業一係が年明け一発目の目玉としてターゲットにしていた大型案件のプレゼンがあった。

 それがまずまずの出来だったので、夜は打ち上げの慰労会が開かれ、私も佐伯さんも参加した。

 佐伯さんはプレゼン対応の中心メンバーとして活躍したので、課長や係長から何度もビールを注がれ、結構飲んでいた。

 課長が翌日早朝から出張だということで一次会でお開きとなったのだが、みんな店を出たのに佐伯さんだけ姿がなかった。


「佐伯はどうした?」

「さっき、何だか慌てた感じでトイレに行きましたよ。だいぶ飲んでたから、吐いてるのかも」

「そっか。ちょっと飲ませ過ぎたかな……」


 一月の寒空。

 雪がちらちら舞っている。

 上司や先輩たちがコートのポケットに手を突っ込み、首筋をすぼめながら、恨めしそうに店の扉を見つめている。


「私、帰りが佐伯さんと同じ方向なので、ちょっと待ってます。皆さんは先にお帰りください」

 ちょっと勇気を出して、提案してみた。

 憧れの佐伯さんと一緒に帰ることができるのなら、少し寒いぐらい我慢できる。


 私の申し出にメンバーはホッとした様子を見せた。

 課長が「電車が無理だったらこれで」とタクシー代として五千円札を私に握らせ、「頼んだよ」とみんな寒そうに背中を丸めて足早に去って行った。


 寒かったが、私は気にならなかった。

 黒い空を見上げると、小さな雪片が次々に降ってくる。

 これはどこから落ちてくるのだろうと不思議な感じがした。

 目を凝らしても、雪が出来上がる瞬間は見えない。


 佐伯さんを一人で待っているこの時間がソワソワ緊張しつつも楽しかった。

 これから短い時間ではあるが、佐伯さんと二人きりになれることが約束されていることが嬉しかった。


「何してんの?」


 背後から声を掛けられ、振り向いたら佐伯さんが立っていて「わっ」とびっくりした。


「佐伯さんを待ってたんですよ」

「え?そうなの?そりゃ悪かったね。課長たちは?」

「もう、先に帰られました。体調大丈夫ですか?」

「俺?全然平気だけど?」


 佐伯さんは、どうかした?という顔で私を見る。


 確かに佐伯さんの顔色はいつも通りだ。


「そうなんですか?てっきり気持ち悪くなってトイレに籠ってらっしゃるんだって」

「そんなに酒に弱くないよ。ちょっと学生時代の友達から電話があったから遅くなっただけ」

「ああ……。じゃあ、帰りましょうか」


 拍子抜けだった。

 体調が悪いのなら介抱するという名目でもっと一緒にいられたかもしれないのに。


 クシュンとくしゃみをしてしまった。

 急に首筋が寒い感じがした。


「風邪ひかないでくれよ。タクシー捕まえよう」


 佐伯さんは車道近くで手を挙げて、タクシーを止めた。


 車内は暖かくて快適だった。

 心も体も弛緩していく。

 佐伯さんと片寄せ合ってタクシーに乗れるなんて最高だ。

 リズミカルに過ぎ去っていく街灯やネオンの灯りがきれいでぼんやり眺めてしまう。

 せっかくの二人きりなんだから、何か話題はないかな……。


 肩を揺すられて、いつの間にか眠っていたことに気付く。


「うぅ。気持ち悪い……」


 それを言うのが精いっぱいだった。

 胃の辺りがグルグルムカムカする。

 気を抜くと吐きそうだ。

 酒に酔ったのか、車に酔ったのか。

 車内が暑い。

 暑すぎる。


「おいおい。帰れるか?」

「はい。だいじょう……」


 大丈夫と言いたかったが、ゴフッと胃の奥から空気が漏れて、食道に焼けつくような痛みが滲む。


「駄目だな。とにかく一旦降りよう。ほら」


 佐伯さんが車外に出て、タクシーの右側に回り、手を引いて私を降ろしてくれる。


 外は空気が冷たくて、火照った肌に気持ち良かった。


 えっと、ここどこだっけ?


「あっ。私、課長からタクシー代もらってて……」

「そんなのいいから」


 佐伯さんは「すげえ雪だ」と呟きながら私の前にしゃがみ込んだ。「とりあえず背中に乗って」


 おんぶ?


「え?そんな、大丈夫です。歩けます」

「いいから、いいから。足元がふらふらしてるよ」


 そうこうしているうちに、佐伯さんの背中や頭に白いものが降りかかる。

 大粒の雪が音もなく世界を白くしていく。


 私はドキドキしながら、佐伯さんの背中に体を委ね、首筋に手を巻き付けた。

 煙草の香ばしいような甘いにおい。

 佐伯さんのにおい。


 佐伯さんは私を負ぶいながらしっかりとした足取りでマンションに入って行く。


 ここって、もしかして?


 私は名実ともに労せず佐伯さんの部屋に上がり込んだ。

 ソファに座らせてもらい、悪酔いに効く胃薬と水をもらった。


 素直にそれを飲んで目を閉じて一秒でも早くお腹の不快感が治まるように念じる。




(その2へ続く)

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