ヒッチハイク (男性(二十七歳童貞) @車の中)

 思っていたのと、何か違う。


 だけど、想定外のことが起きるのがヒッチハイクの醍醐味だとすれば、今の状況も楽しまなければいけないのだろう。


 十二月の寒空の下、段ボール紙を持ち続けても誰も停まってくれず、出発地から一メートルも進めないまま深夜を迎え、一人空しく家に帰るというのが最低最悪のケースと考えていたから、百五十キロメートルほど進めている現状は大成功と言えるだろう。


 日が暮れて諦めかけた俺の前に一台の車がハザードランプを点滅させながらゆっくり停まってくれた時の感動と言ったらない。

 まさに地獄に仏を見るような思いだった。

 そして、窓がゆっくり下がって顔を見せてくれたのが、まあまあ可愛い同年代の女性だったことに内心テンションが爆上がりした。


 自己紹介をして、「どこに向かってるところだったんですか?」と訊ねたときの彼女からの返答が「さぁ」だったことに違和感があったが、初めてヒッチハイクに成功して有頂天になっていたためスルーした。

 やっとの思いで捕まえた車。

 ドライバーの機嫌を損ねないように、こちらから踏み込んだ質問をすることは控えようという判断もあった。


 彼女、真子も「初めてヒッチハイクの人を乗せた。一度やってみたかったんだよね」と興奮気味に喋ってくれた。肩にかからない程度の長さの髪を左耳に掛けるのが癖なのか、その仕草を何度もしながら良く笑ってくれた。初対面にしては車内の雰囲気は良好だったと思う。


 高速道路を西に向かって進みながら、天下分け目の合戦の場として有名な関ケ原を過ぎた辺りから急に彼女の表情が曇ったきがした。

 見れば、給油ランプが点灯している。お願いがあるんだけど、と切り出した彼女は、お金を持っていないと言う。


「まさかヒッチハイクに付き合うとは思ってなかったから」

 それはその通りだと思う。

 たまたま路上で段ボール紙を持って立っている俺を見つけたから、こうなったわけで、ガソリンが少ないことや、手持ちのお金がないことを俺が非難できるはずがない。

 給料日前かもしれないし、銀行に寄る暇がなかったのかもしれない。

 こうやって車に乗せてもらっているのだから、何らかのお礼もしたいと思っていたところだ。

 テレビでよく見るのは、ドライバーさんがすごく良い人で、ご飯やお酒まで振舞ってくれるというケースだが、あれはテレビカメラがあるからこその親切だということはちゃんと理解している。


 ということで、俺たちは午後九時過ぎに滋賀県の多賀サービスエリアに入り、俺の金で給油し、俺の金で遅めの夕食をとった。


 このサービスエリアにはホテルがあった。

 雪が降りそうな寒さで野宿はさすがに厳しい。

 軟弱な、という思いが脳裏をかすめたが、健康は資本だ。

 風邪をひいたらヒッチハイクは継続できないし。

 そんなことを考えながら、ホテルの案内を見ていたら、ホテルはもったいないよと真子に腕を引かれ、コインシャワーに連れて行かれた。

 一人三百円。


 なるほど。

 そういう手もあるか、と思ったが、真子も浴びたいと言い出して、三百円を与えたときに何かおかしいと頭の中がもやもやし始めた。


 真子はどういうつもりなのだろう。

 真子はどこまで俺を導くつもりなのだろう。


 何となく、この辺りでお礼を言って別れた方が良いような気がしたが、車の中に全荷物を詰めたリュックを乗せていて、鍵は真子が持っているからどこにも行けない。


 シャワーを浴びて、髪を乾かして戻ってきた化粧気のない彼女は俺の腕を取って「寝よ」と上目遣いで言った。

 その表情は可愛いけれど、その可愛さゆえに警戒心が増す。

 こんな可愛い子がシャワー後に俺を誘ってくる。

 そんな馬鹿な。


「快適さはホテルには程遠いけど、ここでも寝られるのよ」


 真子の車は座席を倒すとフルフラットになった。

 後部座席に積んであった大きなバッグから真子はシュラフを取り出し、車の中に広げる。

 そして、俺にも寝袋を並べるように言った。

 本気なのか。

 冗談に決まっているでしょ、と言われるのを心のどこかで待っていたが、俺たちは本当に真子の車の中でそれぞれの寝袋に横になった。


 シュラフの中で目を閉じていても俺はいつまでも寝付けなかった。

 身体は疲れているのに、心がザワザワして眠れない。

 若い女性と狭い車内で横になっているシチュエーションに緊張しているのが大きいだろう。

 若い女性でなくても数時間前に出会ったばかりの人と一つ車の中で一晩を過ごすというのはどうにも落ち着かない。

 敷布団と違って、車のシートのごつごつした感じもしっくりこない。


 しかし、それ以上に「何で?」という疑問が頭の中を渦巻いて、その答えを脳が見つけようとして俺を眠らせないでいる。


 何で?

 何で真子まで俺に付き合って、サービスエリアの駐車場で一晩を過ごそうとしているのか。

 真子は大きなバッグを抱えどこへ行こうとしていたのか。

 「どこに向かってるところだったんですか?」と訊ねたときの返答が「さぁ」だったのは何故か。


 真子も眠っていないのだろう。

 寝返りを何度も打っている。


 そして、闇の中でジジーとファスナーの音が聞こえた気がした。

 トイレにでも行くのかな、と思ったら、少しずつ冷気がシュラフの中に入ってくる。

 パッと目を開くと、彼女が俺を見下ろしていた。

 俺のシュラフのファスナーを下げ、中に入って来ようとしている。


「え?」

「ごめん。私の寝袋、安物で寒くって寝られないの」

「でも……」

「私、大丈夫だから」


 何が大丈夫なのか分からない。


 しかし、彼女は無理やり俺のシュラフに足を突っ込んできた。

 そして俺に覆い被さるようにして身体を密着させてくる。


 確かに彼女の身体は冷えていた。

 縋り付いてくる手足が冷蔵庫の魚の切り身のように冷たい。

 ブルブルと震えているので、恐る恐る腕を回してすっぽり包んであげると、彼女は俺の胸に額を当てて安心したようにフーっと息をついて身体の強張りを解いた。


「変な女だと思ったでしょ?」


 消え入りそうな声でのその発言で彼女に自覚があることを知り、俺は多少安心した。


「まあね。でも、ヒッチハイク自体が非日常だから、こういうこともあっても良いと思うよ」


 少しずつ温かくなっていくにつれ、彼女の身体は弛緩し、抱き心地が良くなってくる。

 俺はこの状況、彼女を懐に受け入れていることに抵抗がなくなっていた。


「聞いてくれる?」


 彼女は二年近く同棲した彼氏について語り出した。

 付き合い始めは普通にセックスしていたのだが、半年ほどすると、ハメ撮りされたり野外露出させられたりするようになった。

 自分で見て楽しむためだと言っていたのだが、実はその画像をSNSに投稿して収益を得ていたらしい。

 そのことに怒ったら、もう二度としないと泣いて謝ったのに、許すと、今度はスマホではなくちゃんとしたカメラで撮りたいと言って、ジンバルという動画用のカメラを買ってきて撮影をするようになった。

 なし崩し的に被写体になり続けた。

 そうしたら、最近、「お前が他人にされているのを見たい」と言い出して、「この三人の中から選んで」とスマホで中年男性の写真を見せられた。

 これはいよいよだなと思って、隙を見て逃げ出してきたときに、俺と出会ったということだ。


 これまで平静を装っていたが、さすがに平常心を保てる自信がなくなってきた。

 初対面の女性と一つの寝袋に収まっている状況がかなりイレギュラーなのに、互いの息がかかる近さで彼女が語った内容があまりにあまりで、相槌すら打てない。

 彼女がされてきた仕打ちを想像したら、下半身が反応しそうで、そんなことになったら、身体を密着させている彼女にもばれてしまう。

 俺は窓の外に目を向けて、色即是空空即是色と頭の中で繰り返し呟いた。


「びっくりした?」

「う、うん」


 驚き以外の何物でもない。


「ねぇ……。彼女のエッチな写真って撮ってみたい思う?」


 どうしてそういうことを訊くのか。

 俺に何を言わせたいんだ。


「俺……。付き合ったことないから」

「え?嘘?」

「いや、本当」


 取り繕っても仕方ない。

 知ったかぶりで嘘をついて、後でぼろが出てしまう方が恥かしい。


「そうなんだ……」


 俺の腕の中で顔を上げた彼女の瞳がやけに濡れて光っている。「じゃあ、ちょっと刺激強すぎたね」


 フフッと息を漏らす彼女の目元に妖艶の二文字の意味を悟った気がした。

 頭がボーっとするほど熱い。


「私、大丈夫だよ」


 まただ。

 一体何が大丈夫なのか。


「ち、ちょっと……ごめん」


 俺は熱くて、息苦しくて、寝袋を無理やり押し広げ、自分の右腕を寝袋の外の空気に晒した。

 そして、手探りで先ほど売店で買ったウーロン茶のペットボトルを探す。


「寒いよう」


 真子が俺の動きを止めるように覆いかぶさってくる。

 そして、俺の顔を両手で挟み、またフフッと笑う。「私で試してみる?」


「な……」


 何馬鹿なことを、と言おうとした口が温かいものに塞がれて、もう馬鹿なことしか考えられなくなってしまった。

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