交換条件 (OL(二十五歳) @会社の倉庫 (その1))

 どうしよう。

 ヤバい。

 これは私の人生で一番ヤバいと言っても良い状況だ。


 エレベーターの扉をこじ開けるように出て、小走りで廊下を進み、執務フロアに飛び込んだ。


 ぅわっ。


 私は思わず足を止めた。

 誰もいないだろうな、と思いつつも、チーフがいてくれればという淡い期待は霧散。

 それどころか、よりによって隣のグループのあのクソオヤジがいる。

 出だしから思い切り躓いた格好だ。

 暗澹たる気分がさらに真っ黒に塗りこめられる。


「おぅ。八木ちゃん。帰ったんじゃなかったの?」


 クソオヤジが自席から首を伸ばして嬉しそうにこちらを見る。


「ちょっと、仕事を思い出して……」


 私は苦笑いで自分の机まで歩み寄る。

 卓上の明かりを点け、クソオヤジから隠れるように席に座りパソコンを立ち上げる。


 勘違いであれば良いが……。


 アプリを開き、祈るように注文票のデータをクリックする。詳細情報に切り替わり、その内容に血の気が引く。

 脇から汗が流れる。


 やっぱりだ。


 昨日の帰り間際に受けた得意先からの注文を発送担当に送付し忘れている。

 あの時、急に部長から呼ばれて、処理を後回しにしたためにこうなってしまった。

 つまり丸一日以上何も処理をしていないことになる。


 私は雨が降りかかって微かに音を立てる窓を見た。

 この五階の窓から見る外は真っ暗な夜。

 何度見たって夜。

 当然だ。

 私はその夜の闇を走ってきたのだから。


 今日は金曜日。

 発送担当には月曜まで会えない。

 そこから配送業者に出荷して、得意先に商品が届くのに二日かかって水曜日。

 しかし、得意先の依頼は月曜日中の到着。


 はー。


 状況は既に詰んでいる。


 受けた期日は間に合わせろ。

 受けられない期日は絶対に断れ。


 社是だ。

 社是を作った社長は信頼を一番にしている。

 受けられない期日は断ることが信頼につながる。

 それで先方に叱られたら、そんな取引相手は金輪際付き合う必要はない。

 その姿勢で良いから、一旦期日に合意したのなら絶対に守れ。

 企業同士の契約なのだから当然と言えば当然だが、その確実な繰り返しが次の注文につながるのはこの仕事について二年目の私も肌で感じていた。


「どうした?」


 頭上から声を掛けられて私は悪寒と共に振り仰いだ。


 デスクの向こう側にクソオヤジがニタニタ笑って立っている。


「いえ……。何でもないです」


 反射的に答えた。

 このクソオヤジにだけは知られたくない。

 去年の飲み会の帰り道で信号待ちをしていた私はこいつに背後から急に抱きつかれ服の上から胸を揉まれた。

 咄嗟のことで何もできなかった。

 ギュッと全身に力を入れて立ちすくむだけだった。

 酔っていたのか、酔ったふりか、クソオヤジはふらつく足取りで私を追い越して信号を渡って行った。

 幸か不幸か、周りには誰もいなかった。

 クソオヤジはそれを確認したうえで行為に及んだのだろうが。


 あの時以来、私はこいつとは絶対に二人きりにならないように気を付けている。

 なのに、こんな日に二人きりになってしまうとは。


 チーフに電話で相談してみようか。

 でも、明日、久しぶりに趣味の山登りに行くと楽しそうに雑談していたのを思い出す。

 こんなことを相談して、迷惑を掛けたくない。


「何、やらかした?」

「は?」

「何かミスったんだろ?顔に書いてあるよ。金曜日の退社後に慌てて戻ってきて、速攻で端末開いて確認作業。顔に書いてなくても状況証拠的にそれしかない」

「くっ」


 返す言葉がない。

 私だって、クソオヤジの立場ならそう思うだろう。


「話してみろよ」


 クソオヤジがいやらしい笑いを浮かべて私を見下ろしてくる。


「何であんたなんかに」


 私は悪態をついて視線を切った。


「何だよ、その言い草。俺が何かしたか?助けてやろうとしてるのに」

「あんたねぇ……」


 何かしたか、だと……。


 私は怒りを込めてクソオヤジを見上げた。

 舐められている。

 馬鹿にされている。

 年上の男性を睨みつけるのはそれなりに勇気が要るが、ここで踏ん張らないと弱みに付け込まれそうで余計に怖い。


「おー、こわ。八木ちゃんらしからぬ顔つきだ。そんな顔しても何も解決しないぞ。俺だったら、八木ちゃんのミスも帳消しにしてやれるかもしれないけどな」


 ミスが帳消し?

 本当だろうか。


 私の視線に心の揺らぎを見出したのか、クソオヤジは楽しそうにゆっくりとデスクの島をこちら側に回ってきた。

 私の斜め後ろに立ち、画面をのぞき込もうとする。


「何でもありません」


 私はパソコンの画面を抱え込むようにしてクソオヤジから隠した。


「そういうの、いいって。こんなことしているうちに刻一刻と事態は悪化するぞ。こう見えて、俺は八木ちゃんの何倍もこの会社で働いているんだよ。ミスの挽回なんていくらでも方法を知ってる」

「でも……」


 確かにクソオヤジはここでの勤続年数は長い。

 チーフの先輩にもあたる人だ。

 ミスの回避方法をいくつも知っているのかもしれない。


「あっそ。俺は別に構わないけどね。困るのは俺じゃなくて八木ちゃんなんだから。でもな、八木ちゃんのしょうもないプライドのせいで本来は何も悪くない誰かが、挽回できる機会もあったのに、被害を受けるというのはどうなんだろうね」


 クソオヤジは捨て台詞のようにそう言い放ち、また自分の席に戻って行った。


 クソオヤジの言葉は私の胸に響いた。

 確かにここでクソオヤジに助けを求めることは屈辱以外の何物でもないが、それだけで得意先は発注通りに注文の品を受けることができ、わが社は信頼を失うことを回避できるかもしれない。

 ここで何を大事にすべきなのかは明らかだ。


「あのぅ……」


 私は椅子から立ち上がって、クソオヤジの背中を見つめた。


「ん?」


 クソオヤジが不機嫌そうな顔で振り返る。


「実は……」


 私は手元を見つめながらクソオヤジに事情を説明した。

 悔しかった。

 鼻がツンとして涙が出そうだ。

 しかし、守るべきものは別にあると我慢した。


 私がしゃべり終わるとクソオヤジは自分のスマホを操作し出した。


「あ、辻ちゃん。悪いね、金曜の夜に。今からちょっと倉庫に入りたいんだけどさ。……あー、うん。知ってる。……それね。やっとく、やっとく。……明日。……うん。そういうこと。得意先だから、やれることはやりたいわけ。あー、ついでに伝票の整理もしとくわ。オッケーオッケー。持ちつ持たれつだからさ。ごめんね。そんじゃ、そういうことで」


 クソオヤジはついて来いという感じで顎を振った。


 私は黙ってクソオヤジのかかとの辺りを見つめて歩いた。

 何か策があるのだろうか。

 私のミスは帳消しになるのだろうか。

 淡い期待が湧き起こるが、懸命に押さえつける。

 ぬか喜びはしたくない。


 クソオヤジは駐車場に出て、雨の中小走りで一台の車に乗り込んだ。

 エンジンをかけ、窓ガラスを下ろす。


「どこへ行くんですか?」

「富永町の倉庫。在庫の確認と配送車の確保に行く」


 早く乗れ、と言われて、小走りで助手席に回り込む。


 私が座ると、シートベルトを着ける前に車は発進した。

 倉庫までは車なら十分ほど。

 あっという間の距離だが、オフィスよりも圧倒的に狭い空間で二人きりになってしまったという恐怖心で身震いする。

 金曜日の夜。

 こんなところで私は何をやっているのか、と泣きたくなってくる。

 二度とミスはするまい。

 やりかけた事務はキリがつくまでやり終える。

 今回のことは良い勉強と割り切ろう。

 負けるな、私。



(その2へ続く)

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