ヒモ生活の終わりに (男性(二十五歳) @セレブなマンションの一室 (その2))
彼女は毎日どこかへ行った。
仕事と言っているので仕事なのだろう。
かなりきれいな身なりでポルシェに乗って出かけており、普通の会社勤めではないのは間違いない。
彼女との会話から想像するに、おそらく親が経営している会社で役員待遇。
「スポーツしかしてこなかったから何もできない」、「人の上に立つような人間じゃないのよ」という愚痴をしょっちゅうこぼす。
詳しくは聞かないが、毎日日当たりのよい部屋で何もすることなく椅子に座っているだけで退屈だし、だからこそ真面目に働いている部下たちに顔を合わせる度に申し訳ない気持ちになるのだそうだ。
仕事から帰宅するとしばらくソファでくっついて座ることもヒモの役目だ。
彼女は愚痴をこぼしながら、俺の体温を奪うように腕にすがりつく。
俺は彼女の頭に頬を寄せて黙って言うことを聞いた。
それで彼女は充電されるらしい。
十分で済むときもあれば、二時間かかることもある。
しかし、彼女は俺がいなくても困ることはないだろう。
いや、俺がこのまま居続ける方がおかしいのだ。
先日、彼女の部屋のインターホンが鳴った。
彼女が画面を見てサッと顔を強張らせたのが印象的だった。
彼女は居留守を使ったが、玄関のドアの向こうから「居るんでしょ?もう一回話をしましょ」と年配の女性の声がした。
「焦って勝手に決めたのは悪かったと思ってるわ。でも、私も焦るほど年を取ったってことよ。その辺りのこと、考えてほしいの」
あの年配の女性はおそらく彼女の母親だろう。
想像するに、彼女に社長職を譲ろうとしているのではないか。
彼女は母親がマンションまでやって来ても部屋に上げなかった。
それは何故か。
一つの要因として、俺がここに居るからではないか。
色んな意味で俺がここに居ては、彼女の選択肢が窮屈になる、あるいは判断を遅らせると思った。
出て行こうと思ったきっかけはそれだった。
遅かれ早かれ彼女は母親の跡を継ぐだろう。
正真正銘の経営者になるのだ。
ヒモがいては何かとまずい。
彼女はその時、ここから出て行ってほしいと俺に言わなければいけなくなる。
それは多少なりとも彼女を心苦しくさせるだろう。
ここまで世話になっておいて、彼女にそんな思いはさせたくない。
逆に万が一今の関係を続けながら彼女が社長になったとしたら、そんな偉い人と同居していることに俺が落ち着かない気がする。
どちらに転んでも俺は出て行くべきだ。
正直、丁度、いつまでこうしているのだろうと考え始めていた時だった。
ここに居させてもらって、少しずつ人間としての生活のリズムを取り戻してきた実感がある。
体もだが、頭も動かしたくなってきている。
このまま彼女の好意に甘えてばかりでは、二度と自分の足で立てなくなる気がしてきた。
彼女に依存しきって、今の生活を当たり前だと思うようになってしまって、そのうち何かの拍子に思い上がって彼女に反抗的な態度をとってしまうかもしれない。
そこまで落ちぶれたくはなかった。
自分の足で歩いて、働き、生活費を得て、いつの日か彼女に「その節はお世話になりました」としっかりお礼が言えるようになりたいと思った。
俺は暗がりの中、ベッドを降りた。
ベッドを回りこんで彼女の傍に立つ。
相変わらず彼女の寝顔はその黒髪に隠れて見えない。
ここを出て行くにあたり、心残りが一点だけあった。
それは彼女とキスをしたことがないということだ。
頻度は多くないかもしれないが、この二年間でそれなりにセックスをした。
しかし、唇を重ね合ったことはない。
こちらから唇を寄せに行くと顔を背けてかわされた。
理由を訊くと、彼女は、キスは私のことを本当に好きな人とするから、と笑った。
その笑い方がどこか寂し気で強がっているように見えて、俺は彼女の頭を両手で押さえつけて強引に唇を奪おうとした。
どれぐらいかは言えないが、俺は彼女のことを本当に好きだから。
すると彼女は両手両足をばたつかせて抵抗した。
その抵抗があまりに強かったので、俺は手を離し、本当の理由を教えてくれと頼んだ。
別れた夫にキス顔が変だと指摘されたことがトラウマになっていると彼女は涙ぐみながら呟いた。
目を閉じて少し唇を差し出した彼女の顔。
それを見ると心が冷めて、キスをする気がなくなると言われたらしい。
恋愛期間が二年。
結婚して二年。
いつから変だと思ってキスをしていたのか。
そう問い詰めると、離婚を切り出された。
そして離婚後まもなく交通事故に遭った。
何故かは分からないが、ふらっと死神に呼ばれたかのように歩道から車道に出てしまった。
精神的に病んでいた自覚がある。
死のうと思っていたのかもしれない。
そんなことを聞かされるとさすがにそれ以上キスを求めることはできなかった。
どんな思いでいつも髪で自分の顔を隠して眠りにつくのかと考えると掛ける言葉が見当たらなかった。
だが、俺がトラウマを解消してやりたいという気持ちもあった。
俺がこのまま出て行ってしまったら、彼女はこれからもずっと心の傷を癒すことができないまま生きていくことになる。
キスをして、可愛いよと言われることだけが傷口の痛みを和らげる薬になると思うのだが。
どうせ出て行くのだ。
嫌われても良い。
そう思って、俺は眠る彼女の前に膝立ちした。
ゆっくり優しく彼女の髪を後へ流す。
彼女の寝顔が露わになったが、暗がりの中ではその輪郭もおぼろげだ。
が、彼女の目元で何かが微かに光った気がした。
ん?
俺はその光の原因を探るべく、目を凝らした。
光は発光ではなく反射。
そしてそれは枕の方へ筋を作っていることを発見した。
つまり……。
涙?
俺はハッと息を殺した。
彼女は泣いている。
眠っているとは考えにくい。
眠っているふりをしている。
気付いていたのか。
荷造りがばれていたか。
今日のセックスで確信したのか。
そして、俺が出て行くのを眠ったふりで黙って見送ろうとしていたのか。
彼女への深い愛情が俺の心を熱くさせた。
闇に目が慣れてきて、また一つ気付くことがあった。
彼女は小刻みに震えていた。
何かに必死に耐えている感じがあった。
それでも目を閉じたままジッとしている。
俺は今しかないと思った。
そして、ゆっくり彼女の唇に近づいた。
鼻が触れ合いそうな距離で静止する。
彼女を覆う空気が熱い。
聞こえる呼吸音に不自然な力みが感じられる。
そっと唇を重ねた。
焼けるように熱い皮膚と強張った肉の感触。
そして、俺の首筋に彼女の冷たい手が添えられた。
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