ヒモ生活の終わりに (男性(二十五歳) @セレブなマンションの一室(その1))
この感情は何だろう。
緊張と不安。
感謝と謝罪。
そして寂しさ。
罪の意識はある。
だけど、他に手段を見つけられなかった。
俺は暗闇の中、ゆっくりとベッドに身を起こした。
隣で眠る彼女を見下ろす。
その背はこちらに向けられている。
彼女のいつもの眠っている時の姿勢だ。
それは背を預けられる安心感から来ているのか。
あるいは俺に対する潜在的に抱く拒絶の現れかもしれない。
長い髪がその横顔を覆い隠すように流れているのも、それを裏付けるような感じがする。
寄せては返す穏やかな波のような彼女の寝息。
深く心地良い眠りの証。
これのために昨晩は拙いながらも俺が思いつく彼女を気持ち良くする行為を全て行った。
彼女の反応は上々で、大きな声で鳴いた。
何度も達していたように見える。
そして、荒い息遣いがやがて鎮まったときには、名前を呼んでも返事はなかった。
窓とカーテンの隙間から入り込み天井をぼやっと白く照らす微かな明かりは何によるものだろう。
夜明けにはまだ早い。
月明かりか街灯か。
今からその正体もついでに確認しておこう。
荷物というほど大層なものではないが、身の回りのものはすでにリュックにまとめて自分の部屋においてある。
俺が彼女のもとから去ったことを伝えるための書置きも用意してある。
不義理であることは分かっているが、この二年彼女から受けた恩義が深いからこそどうしても面と向かって別れを切り出せなかった。
思えば、彼女がいなければ、俺は今、生きていないかもしれない。
何の誇張もなくそう思える。
フラフラしていた。
とにかく気力がなかった。
全てが億劫だった。
毎日毎日、何かを考えるのが嫌だった。
何かを考えてしまう自分の脳を捨ててしまいたかった。
きっかけは就職だった。
典型的なブラック企業に入ってしまった。
ノルマを割り当てられ、昼も夜も営業のために駆け回った。
当然、残業になっても手当はつかなかった。
ノルマに達しないと上司に叱責され、能力評価と称して給料を減額された。
就職前に提示された給与や勤務体系、福利厚生の制度は全て守られなかった。
制度そのものはあったのだが、それは俺みたいな世間知らずをかき集めるためのお飾りでしかなく、どうあがいてもその制度を利用することができない仕組みになっていた。
半年も持たずに俺は起きられなくなって仕事を辞めた。
そんなブラック企業しか入れない俺のこれまでの人生の道のりが誤っていたのだと気付いた。
子どものころから何かに真面目に取り組んだことがなかった。
勉強はもちろんのこと、部活もいつもサボっていた。
かと言って全力で遊んだこともなかった。
体が弱く、しょっちゅう入院していたから、勉強も運動もみんなについていけなかったのだ。
そんな俺を両親は、生きているだけで十分、と甘やかしてくれた。
性格的に飽きっぽく、何をやっても長続きしなかった。
俺は長生きできないとどこか自分の人生を投げていたところがある。
大人になって入院することがなくなるほどには体も強くなったが、面接で何もアピールできることのないこんな生い立ちだから、まともなところに就職できるはずがなかった。
会社を辞めて数日は寝てばかりいた。
こんな俺でもお腹は空いてくるし、何かを口にすれば排泄しなければならないというのが腹立たしかった。
生きるための行動が億劫だった。
息を殺しコソコソと深夜のコンビニで食糧を買いあさって、小走りで部屋に戻った。
あとは布団をかぶって押し込むように時間を過去へ追いやった。
少し外の空気を吸ってみたい。
そう思えるまでに一か月かかった。
そういうことで、することもなく、小春日和の陽気に誘われて近くの大きな川の土手に腰を下ろして風に吹かれている時に彼女に拾われた。
「暇なら、ちょっと、手伝ってくれません?」
つっけんどんな命令口調に飛び上がりそうなほど驚いて振り返ると、ジャージ姿ですっぴんのアラサーっぽい女性が立っていた。
ハァハァと肩で呼吸している。
頬が赤いのは照れているからなのか、肉体を酷使したからなのか。
左手に持つ杖が印象的だった。
何を手伝ってほしいのか確認すると、掃除だと言う。
彼女は目と鼻の先にある大きなマンションを指差した。
「どうして俺?」
「どうしてってことはないのよ。ただ、丁度都合良く時間を持て余してそうな人を見つけたから声を掛けただけ」
口ぶりからして彼女はその分譲マンションのオーナーのようだった。
自分も最上階に住むそのマンションの管理人が急病で入院してしまい、さらに、代わりに来た人間が空き巣の現行犯で捕まって、次の人の手配に時間がかかるとのことだった。
エントランスやエレベーター、廊下など目の届くところにゴミやほこりがあることが許せない彼女は自分で掃除を始めたところ、杖をつきながらでは思うようにできず遅々として進まないので、仕方なく俺に声を掛けたと言う。
仕事は彼女に指示された場所を掃除するだけ。
できればマンションの住人が帰ってくる夕方までに。
一万円を提示されて、悪くないと思った。
そして、やってみると意外に楽しかった。
昔から掃除は嫌いではなかった。
ゴミやほこりが掃除機の中に消え、辺りがきれいになっていく様子は爽快感があった。
夕方までまだ時間はたっぷりある。
まずまず大きな八階建てのマンションだったが、それでも彼女に言われたところを掃除機掛けするぐらい前職のノルマと比べたら造作もないことだった。
余裕過ぎて気づけば鼻歌が出てしまっていた。
が、すぐに困ったことが起こった。
掃除機が動かなくなってしまったのだ。
うんともすんとも言わなくなった。
俺が壊してしまったのだろうか。
掃除を続けるには何か代替手段を探さなくては。
ほうきや雑巾があれば何とかなりそうだが……。
「何やってるの?」
床に膝をつき手を雑巾代わりにしてほこりを集めていたら、彼女が現れた。
「掃除機が動かなくなってしまって……」
俺はしょんぼりと謝った。
ここでも用なしの烙印を押されるかと思ったら、逆に彼女が謝ってきた。
彼女は俺から掃除機を受け取り、ついて来いという感じでエレベーターに乗った。
掃除機の充電が切れているということだった。
考えてみれば当たり前のことだった。
彼女は昼食をとっている間に充電すれば良いと言って俺を広い部屋に招いてくれた。
意外なことに昼食はカップ麺だった。
キッチンの収納にスーパーのバックヤードかと思うぐらいに多種多様なカップ麺が箱で置いてあった。
どれでも好きなものを食べても良いし、カップ麺が嫌なら食べなくても良い、と言う彼女は料理が苦手のようで、家にいるときは昼でも夜でもカップ麺とのことだった。
俺はオーソドックスなしょうゆ味のカップ麺を食べた。
彼女は最近はまって毎日食べているというチリトマト味を豪快に啜り、美味しそうに眉尻を下げた。
「さすがに毎日は駄目でしょ」
ブラック企業で心身に不調をきたし、金がないので毎日もやし料理と卵かけご飯ばかり食べて貯金をすり減らして生きている俺が批判するのもおかしいが、金も時間もありそうな彼女にはもっとふさわしい食事があるように思った。
「こういうの、現役時代は食べたことなかったから、その反動」
スポーツに疎い俺は知らなかったが、彼女は走高跳の選手だったらしい。
学生時代も実業団に入ってからも、食事はしっかり管理されていて、カップ麺は害悪の象徴のように遠ざけられていたと言う。
食べてはいけないと言われると食べたくなるのが人間だ。
引退して誰からも止められなくなって、彼女は色々な種類のカップ麺に手を出した。
そして、カップ麺の味と手軽さの虜となり、沼にはまるようにのめり込んでいるという。
杖をつかないと歩けない足の状態が競技人生の引退と何か関係があるのかと思ったが、そうではならしい。
三年前に交通事故に遭って足に大怪我を負ったとのことだった。
手術は成功したが、後遺症により左足に力が入りにくいため杖を使っているようだ。
医師によればさらに二回手術を行い、適切なリハビリをすれば杖なしで歩けるようになるということだが、それにはあと四、五年かかるらしい。
「もっと体に良いものを食べたら、早く良くなりそうですけどね」
「じゃあ、あなた作ってよ」
その日以来、俺は彼女の部屋で三食を作り、そのまま寝泊まりしている。
世間的に言えばヒモという状況だ。
掃除は好きだが、料理はろくにやったことがない。
それでもインターネットで調べながら、下手なりに努力をした。
彼女は美味しい時は「うまい」と、美味しくない時は「まずい」と忌憚のない評価を下した。
「美味しい」と言っては顔を綻ばせ、「まずい」と顔をしかめても、「まずい」ことを面白がって笑った。
何をどう間違えたらこうも変な味になるのか、一緒に考えてくれた。
失敗したことを叱られなかったのが新鮮だった。
体の関係を持つようになるまでには一か月半の時間を要した。
大人の男女がひとつ屋根の下に生活をしていて、一か月半は遅いような気もするが、日没の早い冬の寒さが人肌恋しくさせなければ、もっと時間はかかった気がする。
俺もそうだが、彼女も精神的に闇を抱えていて、誰かにぶつけるぐらいに性欲が高まるまでにはそのぐらいの期間が必要だったのだ。
(その2へ続く)
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