ホストの接客 (四十一歳女性 @繁華街の公園 (その2))

 彼が戻ってくるまでの時間が茨の上に座っているような辛さだった。

 改めて自分が自分らしくないことをしてしまったことに驚いている。

 そして、自分がコミュ障であることを思い出し、これから何を話せば良いかと息苦しくなってくる。

 キスがしたくてホストクラブを物色していたなんて絶対に言えない。

 今のうちに立ち去った方が自分の身のためなのではないか。

 あるいは、彼は私を馬鹿にしていて、このまま戻って来ないことも考えられる。


「どっちが良いっすか?」


 気付けば、彼が横に立っていた。

 キリンの一番搾りとアサヒのスーパードライを手に持っている。


「え?え?」


 これはどちらか選べということだろうか。

 たかが絆創膏を貼っただけなのにビールをもらって良いのだろうか。

 ビールをもらったら、ここで飲むということなのだろうか。

 こんな公園で一人ぼっちで飲むぐらいなら、早く帰りたいのだが。


「あれ?ソフトドリンクの方が良かったです?」

「いえ、そんな……」


 私はおずおずと一番搾りを受け取った。

 特に銘柄にこだわりはないが、スーパードライは炭酸が強くて、ちょっと喉に痛い。


 彼は当たり前の顔で私の隣に座り、ブシュッとプルタブを引いた。

 ごくごくと美味しそうに半分ぐらい一気に飲む。


「ふー。やっぱり、退職後の一杯目はビールっすね」


 私は彼の飲みっぷりの良さに呆気に取られていたが、あまりに美味しそうに飲むので、追随して飲んだ。


「確かに、退職後のビールは最高ですね」


 本気でそう思った。

 何だか、解放感のある華やかな味がする。


「分かります?ってか、何で分かるんです?」

「実は私、今日、会社に辞表を出してきたんです」

「マジっすか?俺もっすよ。ヤバいな、これ。今たまたま出会った二人が、二人とも今日仕事を辞めてるって、すごい確率っよね。まあ、俺の場合は辞めたって言うより、辞めさせられた、に近いですけどね」

「どうして辞めさせられたんですか?」


 先ほどの捨て台詞のような「お世話になりましたっ!」が私の耳に残っている。


「それ、訊きます?」

「あ……。ごめんなさい」


 退職の理由を訊くなんて不躾なことを。

 私、どうかしている。


「冗談っす。丁度愚痴を誰かに聞いてほしかったんっすよ」


 彼は爽やかな笑顔を振りまいて、また一気にビールを飲んだ。

 缶が空いたらしく、ベコッと握りつぶす。「あそこの店長、もっと客から注文を取れってうるさいんっすよ。ドリンクとか指名とか、取れない奴は要らないって。酔わせてでも、色仕掛けでも、脅迫でも何でも良いから注文入れさせろって。でも、俺は無理強いはしたくないし、注文するかどうかはお客さんが決めることだって言ったんっす。そしたら、帰れって、二度と来るなって言われて……」


「そうなんですか」

「ホストクラブって、ただでさえ社会的に評判良くないじゃないですか。ホストに貢ぐために借金までして、路頭に迷って犯罪に手を染めるって異常だと思うんっすよ。そんな強引な営業してたら、ホストクラブ側も長続きしない。店もお客さんもウインウインじゃないと駄目だと思うんすよね。普通のОLさんが気軽に入れて、無理のない金額で遊べて、それでストレス解消になって、また来たいなって思ってもらえる。そういう仕組みがないと客層が広がらないし社会にも定着しない。それがなかなか分かってもらえなくて……」


 彼はそこまで一気に喋って、何かに気付いたように私を見る。「あ。すんません。何か、熱く語っちゃった。これって、かなりヤバい奴っすよね」


「い、いえ。そんなこと……」

「姫こそ、お話しください。何か、辛いことでもあったんですか?」

「姫?」


 私のこと?


「ちょっと、ここじゃ雰囲気ないっすけど、俺も一応ホストの端くれなんで、って、クビになっちゃったけど、でも真似事ならできますよ」


 彼は急に立ち上がって、「いらっしゃいませ」と頭を深く下げた。


「でも……」


 タダでそんなこと、申し訳ない。


「お隣よろしいですか?」

「あ。はい……」


 彼は私の隣に再び腰を下ろした。

 そして私に恭しく紙片を差し出す。


「今日はご来店ありがとうございます。姫。僕、カタカナでタケルって言います。呼び捨てで呼んでください」


 私が職場で使っている文字だけの味気ないものではなく、花柄が描かれた可愛い名刺だ。

 タケルに合っている。


「タケル……」


 男性を呼び捨てするのって、人生で初めてかもしれない。


「はい。お飲み物はビールでよろしいですか?」

「あ……。はい」


 私は手元の一番搾りを見て頷いた。

 ビール以外に選択肢はないから、ここはタケルに合わせるべきだろう。

 急に喉が渇いてきて、少しビールで潤す。


 タケルは自分の両手を抱くような仕草をした。


「ちょっと肌寒いな。もう少し姫に近づいても良いですか?」

「え?……はい」


 私が許可すると、タケルは「やった」と人懐っこい笑顔を浮かべてそっと腕が私の腕に密着するように座り直した。


 男性の硬く引き締まった肩や腕の感触が直に伝わってくる。

 その接着面から熱い波動が私の体の中を伝播する。

 喉の渇きが止まらず、さらにビールを飲んだ。


「姫は最近何か良いことありました?」


 タケルが前かがみになって横から私の顔を見上げる。


 至近距離で見つめ合うのが恥かし過ぎて、私はビールを握ったまま硬直する。


「特には……」

「そうですかぁ。僕は姫に会えて嬉しかったですけどね」


 タケルはお尻のポケットから傷口を押さえるのに使った私のハンドタオルを取り出して見せた。「営業トークじゃないですよ。こんなに親切にしてもらえたの、生まれて初めてかもしれません」


「小学生の時にしてもらったことがあるんです。私、自転車でこけちゃって。そしたら見知らぬ中学生の男の子がハンカチで傷口を押さえてくれて、家まで送ってくれて……」

「へぇ。何か、良いですね」

「ちゃんとお礼言いたかったんですけど、名前も聞いてなくて……。その時以来、会えなくて。ずっと持ち歩いてるんですけど……」


 私はバッグの底からジッパー袋に入れた淡い水色のハンカチを取り出した。

 他人に見せたのは初めてだ。「ちょっと気持ち悪いですかね」


 私は苦笑いした。


「そんなことないですよ。何だか素敵ですね。御守りみたいな感じですか?」

「御守り……」


 確かにそうだ。

 このハンカチが私の心を温めてくれる唯一の思い出。「私、入院するんです。手術が必要で。手術しても、当分夜遊びはできないから、入院する前にちょっと男性に優しくしてもらいたいなって思って」


「そうだったんですね。じゃあ、ぜひ僕にそれをやらせてください。何か、僕にできることってないですか?」

「できること……」


 キス。

 キスしてほしい。

 だけど、そんなこと……。


 沈黙の時間がやってきた。

 私の苦手な奴だ。

 早く何か答えないといけないと思うが、喉が詰まって声が出ない。


 タケルが私を上目遣いで見てくる。


「例えば、キスはどうですか?」

「え?」


 ドキッとした。

 ずばり言い当てるってどういうこと?


「いや、同僚のホストからよく聞くんですよ。お店に来る女性がホストにしてほしいことってキスなんだって。お客さんはキスより先のことは色々なハードルが高すぎるし、求めていない。逆にキス未満では物足りない。多くのお客さんにとってキスが頂上なんだって」


 私は否定できず、だけど肯定するのは恥ずかしくて、結果、さらに黙ってしまった。

 タケルの言ったことは完全に私に当てはまる。


 不意にタケルが私の顎に指を添えた。

 クイッと持ち上げられる。


 ゆっくりタケルの顔が近づいて来た。

 嫌ならいくらでも逃げられる。

 その時間をタケルが作ってくれている。


 私は目を閉じた。

 全てをタケルに委ねた。


 タケルの腕が私の肩を抱いて引き寄せるのを感じた。

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