ホストの接客 (四十一歳女性 @繁華街の公園 (その1))
癌。悪性腫瘍。
医師のその宣告の衝撃は思ったほどではなかった。
理由はいくつかあると自分なりに分析している。
まず、そう言われるだろうなと覚悟していたのは大きい。
何故、覚悟ができていたかと言うと、ここ数か月、不正出血や排尿時に尿道のあたりに刺すような痛みがあって、それが五年前に子宮体癌で亡くなった母と全く同じだったから。
母が子宮体癌だと分かったとき、私なりに色々調べた。
そして、ぽっちゃり体型で妊娠出産の経験がなく、間もなく四十代に突入する私には起こりやすい病気だと学んでいた。
だから、自覚症状が出てきたときには、かなりまずいと理解していた。
そんな状況でのがん宣告。
衝撃をやわらげたのは、これで色んなことを諦められると思えたことだ。
例えば、恋愛。
例えば、出産。
出世や趣味、娯楽など。
そういう世間的に人生を豊かにすると言われるようなものを私は何一つ持っていない。
幼い頃から陰キャだった。
容姿が可愛くない自覚があったし、活発に人と交わることも得意でなかったから。
一人が居心地が良いと思っていた。
最初から一人であれば、寂しいとも思わない。
誰かと交われば、要らないストレスを受ける。
家の中に閉じこもって、夏は冷房で涼やかに、冬は暖房でぬくぬくと過ごしていれば、体調も起伏なく維持できる。
それでも、全く外に出ずに生活できるかと言えば、当然そうではない。
生きていくための仕事。
地方公務員になった。
職場の人と挨拶ぐらいはする。
多少の世間話も。そんな中で、誰それが結婚した、家族で旅行に行った、趣味の登山に恋人がついて来てくれない、可愛いキャラクターで机を飾ろう、などの会話も耳に入ってくる。
楽しそうで羨ましくないわけではない。
自分がつまらない生活を送っているという自覚もある。
しかし、義理的に誘われることは面倒でしかない。
癌宣告からの辞表提出でそういうものから全て解き放たれた。
自分を卑下することも、誰かを羨むことも、周囲の目を気にすることも。
癌、だから。
闘病が大変だから。
もうすぐ死ぬから。
そう思えば、これから何かを手に入れようとする必要がない。
背中に翼は生えないが、大きな殻を脱ぎ去った感覚があった。
四十一歳にして、漸く自由を手に入れた気分だ。
今の感覚を毛筆で半紙に大きく書きたい。
解放。
そんな私が、どうしてこんなところにいるのだろう。
華やかなネオン。
飲み屋の掛け声。
酔客の喧騒。
心がザワザワする。
五感に訴えかけてくる情報が多すぎる。
だけど、引き返したくない。
半ば勢いだけで来てしまったが、またここに来るエネルギーは私にはない。
店の前をトボトボ歩きながら、看板を見つめる。
でかでかと貼り出されたホスト達の写真。
何度見ても神々しい。
実物でなくても直視できない。
どうしよう。
店の敷居が高い、と言うか、実際には店へ続く下り階段の闇が深い。
相場は調べてきた。
三十万円は財布に入れてきたし、カードだって使える。
金銭的には問題ない、のに……。
すれ違った私と同年代か、少し上の女性がカットソーにひざ下丈のスカートという何の変哲もない格好で階段を降りていくのを見た。
ふーん。
ああいう一見ただの主婦みたいな格好の人もホストクラブに入って行くんだ。
よし。ぐるっと一周してきて、次こそは足を踏み入れてみよう。
そう思って回ってきたのに、いざ店の前まで来るとやはり勇気が出ず、足が向かない。
私は誰とも付き合ったことがない。
処女からの脱却という淡い願望と未知への恐怖からも癌宣告で解き放たれた。
だが、不思議なことにキスへの想いが急速に強まってしまった。
死というものが明瞭にならなければ、こんな想いに駆られることはなかったと思う。
しかし、自分が癌だと分かって、急にこれだけは死ぬ前に経験しておきたいという願望が止められなくなった。
服を脱ぐ必要はない。
体の手入れも必要ない。
時間もかからない。
セックスと比べれば、どこでもできる。
この手軽さも魅力だ。
それで、男性とキスだけをすることについてネットで検索して辿り着いた場所がここだった。
マッチングアプリと悩んだが、手続きが不要で、後腐れのなさでホストに軍配を上げた。
相手もその道(どの道か分からないが)のプロだということも安心感がある。
問題はコミュ障の性格だ。
打ち解けて話が弾むなんてありえない。
何を飲むかさえ上手に言えるか不安だ。
だから、キスがしたいだなんて自分からお願いできるだろうか……。
「お世話になりましたっ!」
その言葉の意味と声の響きは真逆だった。
皮肉や捨て台詞のように聞こえた。
反射的に声の方角を見てしまい、建物と建物の間の狭い通路から出てきたその男性と目があってしまった。
三十手前ぐらいだろうか。
可愛らしい顔立ちだが、目の周りに疲れが見える。
ストライプが目立つスーツの下に着ている襟の大きなカッターシャツが少しよれている。
肘の辺りに土埃がついているのは何故だろう。
「この店、やめた方が良いっすよ。他に良い店いっぱいありますから」
「え?あ?え?」
私は急に話しかけられてどぎまぎしてしまった。
だけど、足早に立ち去ろうとするその男性の背中に声を掛ける。「これ、使ってください」
「え?」
振り向いた男性にバッグから取り出したハンドタオルを差し出す。
そして、彼の手の甲を指差した。
そこから血がじわじわ垂れてきている。
何かにぶつけた拍子に切れてしまったのだろう。「わっ。何だ、これ」
彼はちょっとびっくりした感じで、手の甲の傷を舐めた。
が、傷は結構深いようで、じわじわ赤い血が溢れてくる。
「ばい菌、入りますよ。とりあえずこれを当てて、どこかで手当てを……」
「大丈夫っすよ、こんなの。ハンカチ、汚れます」
「それなら、こっちが大丈夫です。私、汗っかきなんで、いっぱい持ってます」
私は手元のバッグからハンドタオルを二枚出して見せた。
「あ。へぇ。じゃあ、すんません」
彼は申し訳なさそうにハンドタオルを受け取って、傷口を押さえた。
「そこの先の公園で傷口を洗っていてください。このコンビニで絆創膏買ったら、すぐに向かいますから」
「え?いや、いいっすよ、そんなの」
あ、ちょっと。
私を止めようとする声が聞こえたが、それが逆に私を突き動かした。
手早く絆創膏と消毒液を手に取り、会計を済ます。
小走りに店から出ると、リードを街灯に結ばれて動けない犬のようにちょこんと彼が立っていた。
「何してるんですか。こっちですよ」
私は彼の前に立って公園に向かって歩き始めた。
歩きながら、私は昔のことを思い出していた。
あれは私が小学校三年生の時。
自転車で習い事のそろばん塾から帰る途中に、物陰から飛び出してきた野良猫に驚き、自転車ごと転んでしまったことがある。
倒れた私は右腕を地面に強打した。
痛みもひどかったが、腕にできた擦過傷から流れる血の量に驚いて私は動けなくなった。
今から思えば笑い話だが、その時は本気で出血多量で死ぬと思い込んでしまっていた。
その時、私に優しく声を掛けてくれた人がいた。
学生服を着た、恐らく中学生の男子だった。
彼は優しく私を立ちあがらせ、近くの公園まで連れて行き、傷口を洗ってくれた。
そして持っていたハンカチを傷口に当て、私の家の前まで自転車を押して送ってくれた。
ここが家だと告げると、彼は「じゃあ」と手を挙げて、私にお礼を言わせず走り去ってしまった。
もう一度会いたい。
会って、ちゃんとお礼が言いたい。
そう思って転んだ道路や傷を洗ってもらった公園の辺りを毎日のように歩き回ったが、彼のことはその後一度も発見できなかった。
あの時のハンカチは今でも大切に持っている。
あの経験がなければ、こんな大それたことはしていなかったかもしれない。
そして、このホストクラブの前で会った彼と小学生の時の恩人が顔立ちがどことなく似ている感じがするのも私の行動を後押ししている。
繁華街の片隅にある小さな公園に人通りはなかった。
水飲み場で蛇口に向かって手を出させ、傷口を洗う。ベンチに並んで座り、傷口に消毒液を垂らし、絆創膏を貼り付ける。
「はい。これで、一安心」
私はひと仕事やり終えた充実感で背もたれに身を委ねた。
「何か、すいません。こんなことしてもらって……。喉、乾きませんか?」
彼は何かを思いついたかのように急に立ち上がった。「ちょっと、さっきのコンビニで飲み物買ってきますんで、ここで座って待っててください」
「あ。いや……」
けっこうです、と言わせない感じで、彼は素早く走り出した。
(その2へ続く)
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