長年連れ添った妻の手術 (配管工男性(六十一歳) @病室)
「それでは、手術室の準備が整うまで、このまましばらくお待ちくださいね」
看護婦が出て行って、急に佐知と二人きりになる。
佐知はこれから大きな手術を受ける。
子宮頸ガン。
今後の人生を左右するような手術を控えた彼女に何と声を掛けたら良いものか……。
「あれだ。その……。洗濯機の横に置いてある洗剤って何を使っても同じだったか?」
こんなこと、何も今訊くことでもないのだが、思いついたことがこれだった。
手術を前にして不安だろうから、励ますようなことを言いたかったのだが。
ベッドの上に横たわる佐知はフフッと笑った。
久しぶりに見た笑顔だ。
俺はこの笑顔に何度となく救われたことを思い出す。
独立してからというもの、配管工事の仕事が軌道に乗るまではなかなか儲からず、佐知には苦労をかけっぱなしだった。
しかし佐知は文句一つ言わず、逆に愚痴ばかりこぼす俺を、時には尻を叩いて発破をかけ、時にはその柔らかな胸に抱いて慰めてくれた。
還暦を迎え、昨年、それなりに安定した状態で家業を息子の代に任せることができたが、全ては佐知が切り盛りしてくれたおかげだ。
「洗剤は一つです。もう一つは柔軟剤ですよ。ちゃんとボトルの裏を読めば分かります」
「そうか……。そりゃそうだな」
「洗濯機の蓋を開いて、奥にポケットがありますから、柔軟剤って書いてある方に柔軟剤を入れてくださいね」
「ああ。あそこな。前も聞いたな」
「洗濯機の内側に糸くずを集めるフィルターが付いてますんで、洗濯が終わったらそれを外して中のゴミを捨ててくださいね」
「毎回か?」
「できれば」
「分かった」
「ご迷惑を掛けて、すみません」
佐知が枕から少しだけ頭を浮かし、謝罪する。
「何を言ってるんだ」
迷惑なんて、あるか。
それなら俺の方こそ何年も迷惑かけっぱなしだ。
仕事以外に何もできない俺に良くついて来てくれた。
佐知には感謝しかない。
そんな大事なことに今頃になって気が付いた。
「枯葉が飛んでくるでしょう?」
「ああ。今年もすごかった」
我が家の前に公園があり、桜とイチョウが何本も植えられている。
桜の葉っぱはまだ可愛いものだ。
しかし、イチョウは恐ろしい。
黄色に色づいたおびただしい量の葉っぱが北風に運ばれて我が家の前に敷き詰められる。
それはもう侵略と言って良いレベルだ。
毎年十二月に入ると佐知と二人で落ち葉をかき集めるのが日課になる。
それを今年は一人でやった。
落ち葉を竹ぼうきで何箇所かに掃き集める。
できた落ち葉の山をゴミ袋に詰める。
ゴミ袋を収集場所に運ぶ。
この一連の作業がもう若くはない体には応える。
特にほうきと塵取りを一人でやるのは骨だった。
大体昨日で片付いたが、今日は腰の痛みで目が覚めた。
「きれいなんですけどね」
「そうだな」
等間隔に立ち並んだイチョウの大木。
秋の傾きかけた日差しを浴びて太い幹を燃やすように揺れる黄金の葉。
もうすぐ落ちてくるなぁ。
今年もそんな時季ですね。
リビングの窓越しに公園を眺めながら温かいものを飲むのが子どもの巣立ちを経た夫婦の毎年の楽しみだったのだが。
妻の体に腫瘍が見つかって、病理検査、血液検査、エックス線検査、MRI検査……。
検査、検査、検査。
そして手術。
この秋、二人で公園の木々を眺める余裕なんてなかった。
気付けば、黄色の葉っぱが玄関の前にふきだまっていた。
面倒だ。
キリがない。
腰が痛い。
愚痴をこぼし合いながら葉をかき集めて捨てる。
二人でそれができていたのも、今思えば幸せだった。
佐知が布団から出した手を伸ばしてきた。
俺は黙って、その手を片手で受け取った。
冷たい。
思わず空いている手を重ね、熱を送るように撫でる。
互いの手が年齢を物語っている。
小さな傷やしみが数えきれない。
指の皺は深く、爪も筋張っていてガタガタだ。
俺の手は茶色くごつごつとしていて骨ばっているが、佐知のは親指の付け根や甲がふっくらとしている。
俺の手は爺さんの、妻の手は婆さんのそれになってきた。
「チュウしてくださいよ」
「は?」
佐知の言っていることが良く分からなかった。
「だから、そこにチュウしてくださいって」
佐知はちょっと顎を振って、俺の手に挟まれている自分の手を示した。
「何で?」
「何でって、良いじゃないですか。夫婦なんだから」
「だからって、何で今、こんなところで……」
「今だからですよ。ちょっと心細いんです」
俺は胸を打たれた。
ガン宣告から今日まで佐知は泰然としていた。
少なくとも俺にはそう見えていた。
感心していた。
取り乱しているのは妻の病気を知った俺の方だ。
伴侶の死。
それを味わうのは妻の方だと思っていた。
順序が逆転するかもしれない。
佐知がいなくなるかもしれない。
そう思っただけで、ジワッと目頭が熱くなる時もある。
言い知れぬ寂しさに心が搾り上げられる感覚がある。
それが、手術を目前にして初めて佐知の口から弱さが零れた。
佐知だって怖いに決まっている。
それに俺は気付かず、自分の感情の乱れにすら手を焼いて……。
「佐知」
俺は丸椅子から腰を上げて佐知を見下ろした。
左手に佐知の手を握ったまま、右手でその頬に触れる。
そして、その唇に唇を寄せようとした。
キスなんて、いつ以来だろう。
こんなことで佐知が頑張れるなら何度でもしてあげれば良かった。
「ちょっと、何です?」
今度は佐知が逃げるように顔を背けた。
「何ですって、何だよ」
俺は佐知の拒否反応に驚いた。「佐知が……」
チュウしてって言ったんじゃないか。
「私は手の甲にしてほしいんです」
「手の甲より口の方が良いだろ」
「そんなことないです」
佐知は手の甲を持ち上げて俺の顔へ近づけた。
佐知の考えていることが良く分からない。
俺は面倒になって、取りあえずその手の甲に唇を押し付けた。
「これで良いか」
「はい」
佐知は満足そうに頷いた。
「じゃあ、こっちもな」
俺は再度佐知の唇を求めた。
「ひゃあー」
佐知は俺の唇から顔を遠ざけるように反対を向いた。
「逃げるなって」
「だって……」
佐知はチラッと俺の唇を見た。「煙草とコーヒーのにおいが……」
俺は愕然とした。
長年連れ添った妻は俺の口臭に辟易としていたようだ。
「いつから……」
昨日、今日の話ではないはずだ。
結婚する前から俺は煙草とコーヒーを人生の友としてきた。
「それが嫌いってことではないんですよ。でも、まあ、ねえ……」
妻は申し訳なさそうに笑う。
「息、止めてろ」
俺は妻の顔を両手で挟み、固定した。
「えー!するの?」
「佐知」
「はい?」
「どっちか辞めるよ。煙草かコーヒーか。どっちが良い?」
「絶対、煙草」
佐知は俺の目を見てきっぱりと言った。
煙草か。
長年、嫌だったんだな。
「分かった。今日から禁煙する。だから、ちょっと息止めてくれ」
「うー……。はい」
俺は自分も息を殺して佐知にキスをした。
少しカサカサしているが、意外に弾力のある唇だった。
後ずさりして丸椅子に腰を下ろしてから呼吸を再開した。
佐知は薄ら目を開けて俺の動きを観察する。
そして、再び手を伸ばす。
俺がその手を握るとギュッと握り返してきた。
「急に楽しみができちゃったなぁ……。目を覚ましたらチェックしますよ。本当に吸ってないか、チュウで確認しますからね」
佐知は結婚したときと変わらない笑顔を見せてくれた。
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