刹那的欲望>理性と罪悪 (大学二年生女子 @キャンプ場)

「ちょっと奇跡的だよな」

「うん。まだ何だか心がびっくりしてる」


 今、拓海が運転する車の助手席に自分が乗っていることが不思議でならない。


 私は名古屋の大学に、拓海は東京の大学にそれぞれ進学して二年と少し過ぎた。

 つまり別れて二年だ。

 それからは一度も会うことはなかった。

 連絡も取っていない。

 なのに、先ほどキャンプ場でバッタリ顔を合わせたのだ。


 私はこの静岡県のキャンプ場にグランピングをしに女友達三人でやって来ていた。

 水洗い場で手を洗っていたところで、「え?」と大きな声を聞いた。

 どこか聞き覚えのある男性の声だった。

 顔を向けると、拓海が石像のように硬直して立っていた。

 それを見て私もあまりの驚きに数秒間リアクションが取れず石像になった。


 拓海は大学のサークル仲間四人でこのキャンプ場に来ていて、併設のロッジを借りているとのことだった。


 邂逅による二人のリアクションの大きさに互いの友人は大いに興味を覚えたようだ。

 妙な照れがあって、高校時代の友達ということで押し通したが、そんなことはどうでも良いのか、せっかくだからみんなで夕食を一緒に食べようということになり、拓海たちが借りているロッジに女三人がお邪魔する格好となった。

 そして、時は進み誰かが「酒が足りない」と言い出し、ただ一人下戸で酒を飲んでいなかった拓海が必然的に買い出し係に任命され、一人で行かせるのは可哀そうだとみんながこっちを向いて言うので私が同行することになり、今に至る。


「うわぁっ」


 私の思わず漏らした声に反応してか、拓海が車のスピードを落とした。


 キャンプ場の脇でキャンプファイヤーが行われている。数人が思い思いにその周りに座って、揺らめき燃える炎を眺めていた。


 夜の帳を勢いよく突き破る火柱。

 次々に姿を変化させ魅惑的に踊る火炎。

 赤く光り徐々に原形を失っていく木片。


 夜の炎は人を惹きつける力がある。

 思わず心を奪われる美しさと人の心を和ませる温かさ。

 妙に人恋しい気持ちにもなるのは何故なのだろう。

 パチパチとはぜる音も耳に心地よい。


 その時私のスマホが鳴った。

 LINEの通知だ。

 画面を確認し、そして、すぐに押し付けるように胸に伏せる。


「まさか追加注文?」

「美容院からのLINEだった。キャンセルが出たから予約取れるよって」


 何故だろう。

 咄嗟に嘘をついてしまった。


 LINEは美容院からでもなければ、ロッジからの追加の注文でもなかった。

 彼氏からだ。

 バイトが終わった、という、ただそれだけの連絡。

 普段ならこんなLINEしてこないのに、と思うと、彼が第六感的に何かを察知しているのかとちょっと怖い。


「へぇ。ラッキーだね」


 拓海は笑って車を出した。


 キャンプファイヤーが後方に去って、どことなく肌寒いのは気のせいか。


「どこで買い物するの?」

「ここに来る途中にあったコンビニみたいな酒屋さんかな。開いてると良いけど」

「そんなのあった?」

「あったって。一本道だよ?」

「私、寝てたから」

「相変わらずだなぁ」


 相変わらず。

 その言葉で車内は妙な沈黙がはびこった。


 私はよく寝る。

 高校までの通学電車でも良く寝ていて、駅に着いた時に拓海に起こしてもらうことが度々あった。

 図書館で一緒に勉強していて、気付いたら私だけ居眠りしている時もあった。

 そういう付き合っていた頃の思い出が蘇ってきて、ちょっと感傷的になってしまう。


 拓海のことは好きだった。

 その隣は居心地が良かった。

 眠ってしまうのは安心感があったからだろう。

 彼が作り出す空気はいつもふわふわ温かい。

 今はどうだろうか。

 運転席と助手席との間の微妙な距離でそれが分からない。

 すぐ隣に座り、肩や腕を触れさせて確かめてみたい気もする。

 それは許されないことだろうか。


「帰ってきてたんだね」

「うん。また行きたいと思ってるけど」

「今度はどこ?」

「アメリカ。西海岸かな」

「そっか。頑張ってね」


 拓海は将来、海外で働きたいという夢を持っている。

 高校の頃から英語は日常会話なら話せるレベルだ。

 大学に進学して、すぐにオーストラリアに留学した。

 出不精の私とは全然違う。

 別れは必然だった。

 私は彼の足かせにはなりたくなかったし、彼も私に囚われて行動を躊躇うような人ではなかった。


「友達に教えてもらったんだけどさ」

「ん?」

「ここからすぐのところに夜景のスポットがあるんだって。寄っても良い?」

「良いよ」


 何気なく了解した。

 しかし、すぐに心が揺れてきた。

 二人で夜景を見る?

 それはどういう意味なのか。

 今の彼氏は車を持っておらず、男性とドライブで夜景を見るなんて人生で初の体験だが、想像するにロマンチックだ。

 ちょっと心が浮き立つ。

 しかし、拓海の心理が分からない。

 当然、夜景は夜にしか見えない。

 ロッジに戻れば、改めて夜景を見に出ることはないだろう。

 従ってチャンスは今しかない。

 拓海にしてみれば私が隣にいるかどうかは問題ではないのかもしれない。


 拓海は迷いのない運転で小道を折れ、樹々が覆う上り坂を走らせる。

 街灯のない暗い山道だ。

 車のライトが心もとない。

 こんなところに夜景のスポットがあるのだろうか。

 拓海は私をどこへ連れて行く気なのか。


 そう思って少し手に汗を握っていたら、急にトンネルを抜けるように視界が開け、平たんな場所に出た。

 車が止まり、ライトが消える。


 一瞬にして辺りが真っ暗になって、ゾクッとした。


 虫の鳴き声が微かに聞こえる。

 人の気配はない。


 ここで拓海がのしかかってきたら私はどうするだろう。

 全力で抗うだろうか。

 そんなことはしない気がする。

 多少逆らっても拓海が求めてくるのなら、そのままの流れに身を任せてしまう予感。

 こんなところで?

 やっぱり、ちょっと怖い。


 しかし、拓海は外から呼ばれたかのようにサッと車から降りて行った。


 ドアを閉める音が強く響いて、私は置き去りにされまいと慌てて外へ出る。


 少し強めの風の流れに髪がなびく。

 私は着ているパーカーの胸の辺りを掴んで、拓海の背中について歩いて行く。


「わぁ」


 拓海が小さく声を上げる。


 その声に触発され、私は拓海の横に出て視界を開いた。


「わぁ」


 同じ声になった。


 眼下に無数の小さな光。

 海上の波がどこまでも連なっているように、家々の明かりが密度を違えながら、向こうのさらに向こうにまで広がっている。


 自分が光に包まれているような感覚になる。

 光の波に圧倒されている。


「うわぁ」


 拓海が今度は空を見上げて歓声を上げる。


「うわぁ」


 星空もまた素敵だった。

 山の稜線で切り取られた空いっぱいにまさに星屑が散りばめられている。

 今にも降ってきそうな、雨のような小さな光の群れ。


 見えるもの全てがキラキラしている。


 こんな光景があるのか。

 世界はこんなにも美しいのか。


 広大な闇と無数の光。

 それ以外に何もない。

 全てのモノの境目が分からなくなってくる。

 平衡感覚があやふやになって、自分が空中に放り出されたような、闇に引きずり込まれるような錯覚に陥る。

 光の一粒、一粒が槍の鋭利な切先のようにも見える。


 私は心に怯んでいる部分を発見した。

 美し過ぎて怖い。

 自分がどこか知らない国に来たような心細さ。

 私は体を強張らせた。

 体の奥がキュッと緊張している。

 手足が冷える。

 寒い。


 不意に肩を引き寄せられた。

 拓海が私を背後から抱きしめる。


 温かい。

 これだ。

 拓海の温度。

 異国の中で知っているものに出会った安堵。

 温もりの中で私の体は弛緩する。


「ごめん。こうしていたいんだ」

「うん。私も」


 私の胸の前で重なる拓海の腕。

 私はその上に自分の腕を重ね少し力を込めた。

 もっとギュッと強く抱きしめてほしい。

 私をもっと覆ってほしい。


 私の想いを理解してくれたのか、拓海はしっかりと抱きしめ直してくれる。

 私の頭に拓海の頬が寄せられて、私は体の四方からじんわりと拓海の体温を感じた。


 世界はさらに素晴らしいものになった。

 安全な場所から見る絶景ほど贅沢なものはない。


 その時、視界の片隅に紅い花が開いた。

 遅れて、ドンと重い音が下腹に響く。


「嘘みたいだ」


 拓海の呟きが全てだ。

 この美しい世界にさらに花火が共演するとは。

 天国だって、こんなに完ぺきではないだろう。


 花火は次々と打ちあがる。

 赤。青。紫。黄。橙。


 ドン。ドン。ドン。


 重低音が次々に体を突き上げる。


 拓海が腕にさらに力を込め、締め付ける甘い痛みに私はとろけてしまいそうになる。

 汗ばむほどに熱くなってきて、体の奥にうごめく疼きがギリギリと私の敏感なところに爪を立てる。

 肺に深く空気を取り込めず、口が開く。脳が痺れる。

 何も考えられなくなってくる。

 膝に力が入らない。

 背中に直に感じる拓海の体の厚みと硬さに全てを委ねたくなる。


「キス、して」


 私は半身をよじってすがるように拓海を求めた。

 そしてすぐに唇を探り当てる。


 いつもの世界ではない。

 罪悪の意識だとか理性だとかしがらみだとか、そんなものもう知らない。

 ここには私と拓海だけ。

 ここは二人だけの世界。

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