目覚まし時計 (高校一年生女子 @電車の車両内 (その1))
「終わったね。春期講習」
私は少しの達成感と圧倒的な寂しさを込めて呟いた。
電車のガタゴト音が妙に切ない。
このまま二年生になったら、分かっていない状態が余計にひどくなって決定的な差になっちゃう。
何とかこの春休みの間に一年生で習う内容をしっかり理解してしまいなさい。
英語の成績が芳しくない私を見かねてお母さんが見つけてきた隣の市の塾で開催している春期講習。
塾なんて、しかも、電車に揺られて見ず知らずの都会に行くなんて。
そうは思ったが、私の反論はお母さんの睨みの前には何の意味もなかった。
憂鬱な気持ちのまま迎えたその初日。
駅から塾までの道のりでたまたますぐ目の前に川島君を見つけて、神様の導きと思って勇気を出して声を掛けたのが一週間前。
私は一教科だったが、川島君は二教科受講していると聞き出し、その日のうちにお母さんに頼んで二教科目を申し込んだ。
川島君とは頭の出来が違うから同じコースにはなれないが、行き帰りが同じタイミングになるだけで毎日、塾が楽しみで仕方なくなった。
私はファインプレーのお母さんを心の中で何度も拝んだ。
授業の内容が頭に入ったかは別の話だが。
「あっという間だったな」
そう言って灯りの少ない窓外に目をやる川島君の横顔はとろけてしまうほどに格好良い。
川島君は学校ではあまり目立たない生徒だ。
目立とうとしないと言ったら良いだろうか。
孤高という言葉がぴったりくる。
誰に媚びることなく、かと言って話しかけられても邪険にふるまうこともない。
休み時間はいつも一人。
耳にイヤホンを差しこんで机に突っ伏して寝ているか、頬杖をついて窓の外を眺めているか、少し眉間に皺を寄せて本を読んでいるか。
そのシュッとした外見からか、滲み出ているオーラのためか、クラスのいじめっ子的な奴らも川島君にだけはちょっかいを掛けることはない。
勉強ができることは間違いない。
テストの結果を誰かと見せ合うことはしないから、具体的な点数や順位までは分からないが、授業で当てられても答えに詰まったところを見たことがない。
「川島君が塾に通ってるなんて、ちょっとびっくり」
初日に話しかけたときに正直にそう言ったら、川島君は「何でだよ」と笑ってくれた。
「俺だって勉強ぐらいするよ」
「そうじゃなくて、塾に通わなくたって私と違って独学で全部理解してそうだってこと」
「偏見。俺も人並みに教師や講師に教えてもらって、ちょっとずつ理解してるんだ」
「へぇー」
答えなんて何でも良かった。
川島君と喋っていることが私には素晴らしい出来事だった。
いざ話をしてみると川島君は見た目だけでなく声まで耳に心地よくて、私はさらに彼のことが好きになってしまった。
自制しないと次々に話しかけてしまう。
うざい女と思われるのだけは絶対に嫌だ。
もう一週間、せめてあと三日あればなぁ。
何度もそう思ったが、春期講習は今日で終わり。
明日から川島君と話す機会がなくなる。
次に会うのは始業式か。
もしかしたらクラスも離ればなれになるかもしれない。
そんなことになったらせっかくこの一週間で頑張って縮めた距離が元に戻ってしまう。
そう思っただけで、息苦しいほどに胸が押しつぶされる感覚がある。
何とかしなければ。
一昨日、昨日とその何とかを必死に考えたが、ヘタレの私に実行できそうなものは一つも思いつかなかった。
思い返せば、初日に何も考えずに声を掛けた自分の勇気に今さら驚くぐらいだ。
あの時の自分をヨシヨシと褒めてあげたい。
何の気なしにふと右側を見たときに川島君が私を追い抜こうとしているタイミングだった。
呼びかけるというよりは、思ったことが口に出てしまった感じで、「川島君」と声にしていた。
その私に川島君が気付いてくれたのもラッキーだった。
あれで一年分の運を使い果たした気がする。
何の取り柄もない私にこんな素晴らしい一週間が訪れただけで満足しないといけないのかもしれない。
だけど、川島君の横顔を見ていると、このまま黙って彼が遠ざかって行くのを見つめているのは違う気がしてくる。
「ねぇ、川島君」
私は二人掛けの椅子の隣に座る川島君の肩に顔を近づけた。
自然と上目遣いになってしまう。
「ん?」
「昼休みとかに時々イヤホンで何か聞いてるよね。あれ、何聞いてるの?」
これを知っているクラスメイトはいないのではないか。
この春休みの思い出にせめてこの答えを知りたい。
これを教えてもらえないようでは、この先、告白したって成功するはずがない。
「落語」
「へ?」
「落語だよ。知らない?着物着た人が高座に上がって一人で面白い話を喋るやつ」
「えっと、落語は知ってるけど……。川島君って学校の休み時間に落語、聞いてるの?」
てっきり私が名前も知らない海外のロックバンドとか、クラッシック音楽とかだと思っていた。
「落語。面白いんだぞ」
「ふーん」
「変……かな?」
私は慌てて首を横に振った。
高校一年生が学校の休み時間に落語を聞いているということに驚いただけだ。
川島君は何を聞いたって良い。
私にとっては川島君がしていることが正しいことであり、何なら私を含めて落語を聞いていない他のクラスメイト全員が駄目な奴なのだ。
でも、川島君と落語は私の中で上手につながらなかった。
それがまた面白かった。
川島君、面白い。
また川島君に対する好きの気持ちが積み上がって手と足をジタバタしたくなる。
これが噂に聞くギャップ萌えか。
川島君、ずるい。
「明日は朝早くに出発だなぁ」
私はつまらない感じの声を上げた。
「どっか行くの?」
「お母さんの実家。お墓参りに」
ため息まじり。
お母さんの実家のある田舎なんてつまらない。
お墓参りなんてつまらない。
明日も川島君と二人でこうやって電車でガタゴト揺られながら、たわいもないことを喋っていたい。
「偉いな」
「え?偉い?」
予想外に誉めてもらえて、私は少しテンションが上がる。
「偉いよ。俺たちは祖先がいてくれたからここにいられる。だから、祖先に感謝するのは自然なことだよ。俺もこないだ行ってきたとこ。逆に、ないがしろにする奴は嫌い」
あっぶねー。
もうちょっとで、お墓参りなんてつまらない、って言ってしまうところだった。
じゃあ、お墓参りに行く私のことは好き?
そう訊いてみようかと思ったが、グッと堪えた。
ここで妙な勢いに任せてしまって失敗したら馬鹿みたいだ。
それより、他にお願いしたいことがある。
「寝坊するの、怖いんだよね」
「誰か、起こしてくれるだろ」
「もう高校生なのに親に起こしてもらうって、ちょっとね」
いつもお母さんに起こしてもらっているのだが、ここは平然と嘘をつく。
大願のためだ。
少しぐらい嘘だってつくさ。
「目覚まし時計をいくつもセットしたら?」
「おお。それ良いね」
予定通りの展開になった。
授業中、頭の中で懸命にシミュレーションして良かった。「じゃあさぁ……」
「ん?」
私はおずおずとスマホを取り出した。
「優子、おはよう、って言ってくれる?」
私は録音ボタンに指を向けた。
(その2へ続く)
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