20.「ただいま」

 地下室のすべての在庫品に魔法をかけ、昼食を終え、温かい日が降り注ぐ午後になっても、ニノンはシュゼットの家にいてくれた。

 「今日は休日だからのんびりさせてよう」と甘えてきたが、きっと自分たちを心配しているのだろう、とシュゼットは思った。

 実際のところ、シュゼットもブロンもアンリエッタもニノンがいてくれるのは心強かった。これまでの嫌がらせは手紙だけだったが、昨日は急に物理的な攻撃に変わったのだ。ニノンが心配するのも無理はない。


「今夜は泊まっていこうかなあ。朝からシュゼットとアンリエッタさんの料理が食べられるのって最高じゃない!」

「ありがとう、ニノン。でも、夜にはエリクさんが帰ってくるから大丈夫よ」

「エリク? エリクって誰?」


 アンリエッタの言葉に、ニノンはブロンをワシャワシャとなでながらシュゼットとアンリエッタを交互に見た。


「居候してもらってる人。この町に引っ越してきた元警吏さんなんだけど、色々あって友達になって、用心棒として居候してもらうことになったんだ」

「元警吏さんが居候なんて心強いね。でもなんで? 家がないの?」

「まさか。たまたま嫌がらせの現場に居合わせて、心配だからしばらく家にいるって言ってくれたんだ」

「へえ! 良い人! それなら安心して帰れるや! よかったねえ、ブロン」

「キャンッ!」


 ブロンはシッポを振りながら、ニノンのほほをペロペロとなめた。

 ニノンはとっさに本音が出てしまっていることに気が付いていないようだ。


 ――やっぱりわたしたちのために、貴重な休日を使ってくれたんだ。


 シュゼットはニノンに背中から抱きついた。


「心配してくれてありがとうね、ニノン」

「えー、わたしが泊まりたかっただけだよ」


 ウソをつきとおそうとしている辺り、本音が漏れたことに本当に気が付いていないようだ。シュゼットはクスクス笑いながら「そっか」と答えた。


「せっかくなら会ってから帰ろうかな。シュゼットの親友として、良い人か見定めておかないとね」

「ニノンもすぐに仲良くなれると思うよ、気さくな人だから」


 それからシュゼットはキッチンで夕食の支度を、アンリエッタは洗濯ものを片付け始め、お客のニノンはブロンの遊び相手をして時間をつぶした。

 シュゼットはポークと豆のスープの下ごしらえをしながら、窓の外を見た。

 ガーベラの鉢植えが並ぶ窓の向こう側には、夕焼けと夜空と町の灯りが見える。いつもなら物悲しくなる時間帯だが、今日のシュゼットの心は穏やかだった。

 それは今ニノンがいて、時々笑い声が聞こえてきて、エリクがもうじき帰ってくるからだ。


「恵まれてるなあ、わたし」


 そうつぶやいた時、玄関の方からザバーッと水がこぼれたような音が聞こえてきた。それに続いて、ヒュンヒュンッという風を切る音が数発。それから最後にバンッという大きな音が鳴った。ブロンの甲高い鳴き声が聞こえてくる。


 ――ニノンがブロンと魔法で遊んでるのかな。それにしてはやりすぎな気もするけど……。


 シュゼットはエプロンで手を拭くと、急いで玄関に駆けて行った。


「うわあ! エリク!」


 玄関の光景にシュゼットは驚愕した。

 ドアの前は水浸し。そのドアには矢が四本しっかりと刺さっている。そしてその水も矢も避けたあたりに、エリクが両腕で顔を覆って立っている。


「どど、どういうこと?」


 シュゼットがエリクに近寄ろうとすると、エリクが強く首を横に振った。


「俺にもわからん。また嫌がらせか?」

「違う違う。わたしだよ」


 ブロンを抱えたニノンが階段下から現れた。


「言ったでしょ、わたしが親友として見定めるって。シュゼットたちの用心棒にふさわしいかどうか」

「ふつうに挨拶あいさつするだけだと思ったよ! やりすぎ、ニノン!」


 シュゼットはニノンの頭を優しく小突いた。するとニノンは頬を膨らませて「フンッ」と鼻を鳴らした。


「だって心配だったんだもん! 急に町に現れた人を居候させるなんて。危ないよ!」

「そ、それは、……ごめん。まさか心配かけてるなんて思わなくて」

「シュゼットもアンリエッタさんも人が良すぎるから、わたしがしっかりしなきゃと思ったの。でも……」


 ニノンは腕の中のブロンを見た。それにつられてシュゼットもブロンを見る。

 ブロンはニノンの腕をかなりの力で噛んでいた。血がにじみそうな勢いに、シュゼットは急いでブロンを取り上げた。


「ブロンが怒ったんだよね、エリクをいじめるなって。それって何よりも大丈夫な証拠だよ」


 ニノンは腕をさすりながら、エリクの前に立った。


「やりすぎてごめんなさい」

「いいよ。シュゼットたちを思ってのことだろう。お前の言い分もわかるし」

「うん。でもドア開けた瞬間にこれだけの攻撃を避けられるなら、用心棒としては申し分ないね」

「お褒めにあずかり光栄だ」


 エリクとニノンは歯を見せてニッと笑い合った。その表情はどこか似ているところがある。シュゼットは、だからこそエリクとすぐに友達に慣れたのかもしれない、と思った。


「シュゼットたちのことよろしくね、えっと、エリク?」

「ああ、任されたよ。お前、名前は?」

「ニノンだよ」

「それじゃあ、任された、ニノン」


 ふたりがにこやかに握手を交わすと、ブロンがご機嫌に「キャンッ!」と鳴いた。


「ブロンもごめんね。エリクのこと傷つけて」

「キューン……」


 ブロンは少しためらってから、差し出されたニノンの手をペロッとなめた。ニノンはシュゼットからブロンを受け取り、「ありがとう、ブロン!」と言いながらギュウッと抱きしめた。

 ニノンによるある種の珍事は、一部始終を離れてみていたアンリエッタの「孫が愛されてて嬉しいわ」という言葉で幕を閉じた。






「――それじゃあまたね。おやすみー!」

「ありがとう、ニノン。気を付けてね!」


 玄関先に立てかけてあった箒に乗り、ニノンは家に帰って行った。すっかり暗くなった空の中に溶けて行くニノンを見送りながら、エリクが「すごいよな」とつぶやいた。


「あんな細いものに器用に乗れるなんて」

「あはは、本当だよね。わたしもいつも思うよ」

「あ、そういやバタバタしてて、まだ言ってなかったな」

「えっ?」


 エリクはシュゼットを見て、ブロンとアンリエッタを順に見た。


「ただいま」

「あ、そっか。おかえり、エリク」

「おかえりなさい、エリクさん」

「キャキャンキャンッ」


 ブロンがピョコッとエリクに飛びついた。


「あ、そういや、今日マリユス教授から聞いたんだけど……」


 エリクはブロンを片手で優しく持ち直すと、ポケットを探り、シュゼットが初めて会った日に渡した香り袋を取り出した。


「ラベンダーの香りって、安眠だけじゃなくて、心の安定にも効くんだろ。それなら今日からはシュゼットとアンリエッタさんも香り袋を傍に置いて寝たらどうだ? 俺も夜の寝台の上と日中の休みたいタイミングで、香るようにしてるんだ。きっと安心して寝られるぞ」


 エリクはそう言ってにっこりと微笑んだ。

 その笑顔と香りに、今日一日感じていたシュゼットの心のザワザワが落ち着いて行った。


 ――そうか。わたしも少し不安だったんだ、嫌がらせのことがあって。おばあちゃんとブロンが怖がってるから、自分はしっかりしなきゃって思って。気が動転してたのに、その気を落ち着けるのにハーブを使おうって思えないくらいには、動揺してたんだ。


 エリクはシュゼットの変化にも気づいていたのだろう。シュゼットが自分のことに気が回らないほどには、不安に思っていると。

 不安でしわくちゃにしぼんでいたシュゼットの心は、干したての毛布のように温かく、柔らかくなっていた。

 シュゼットはその心がある辺りに手を当てて、にっこりと笑った。


「ありがとう、エリク。今夜から試してみるね」

「ああ。よく寝れると良いな」

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