10.エリクの時間

「これ、作って来たから。今日中に使ってね」

「ありがとう、シュゼット。ちょっとでも頭がかゆくなると、すぐに怒っちゃうから、本当に助かるわ」

 アレットはローズマリーのシャンプーが入ったビンを受け取りながらささやいた。

「最近はどうなの? その、具合は」

 シュゼットもささやき返しながら、一人掛けのソファに座ってぼんやりと外を眺める老婆を手で示した。

「ちょっと前のことは、すっかり忘れるようになっちゃったわ。朝食を食べたかどうかとか、トイレに行ったかとか」

「そうなんだ。でも、顔色は良さそうだね」

「ええ。それに昔のことはよく覚えてて、昔の話をする時は生き生きしてるの。だから、思い出話をするようにしてるわ」

「楽しい記憶を思い出す時間が長いから、元気でいられるのかもね」

「だと良いけど。ともあれ、本当にありがとう、シュゼット。はい、お代ね」

「ありがとう。レモンバームの精油が取れたら、またアロマトリートメントに来るから」

 夏の終わりに咲くレモンバームは、認知症に効果がある。特に精油を使ってトリートメントをすると、認知症患者の情緒が収まるのだ。

「それじゃあまた来るね」

 シュゼットは老婆にもさよならを言って、家を後にした。


 今の家には、アレットとその夫のドミニク、子どもが四人、それから年老いたドミニクの母であるドリアーヌが暮らしている。ドリアーヌは去年から少しずつ認知症の症状が出始め、最近では一日のほとんどをソファの上で過ごすようになってしまった。風呂にも入ろうとしないため、アレットが、シュゼットが作ったローズマリー入りのシャンプーやせっけんを使って体を清潔にしているのだ。

「大変な仕事だよね。今はおばあちゃんの足が不自由だから立ち洗いを手伝ってるけど、頭はハッキリしてるから、『そこの戸棚に掴まって』とか言えばわかってくれるけど。年を重ねたら、そうはいかなくなるかもしれないもんね」

 ブロンは不安そうに「キューン」と鳴いた。

「大丈夫だよ、ブロン。おばあちゃん、今はピンピンしてるから」

 そう言ってブロンを抱き上げようとしたその時、ブロンが急にハッとして「キャンッ」と吠えた。

「わっ! どうしたの、ブロン?」

 ブロンは素早く辺りを見回し、西の方へターッと駆け出した。シュゼットは手提げカゴを持ち直し、その後を追った。

 行き着いた先は町役場のある中央広場だ。人の往来が多く、小さなブロンを見失いそうになる。

「待って、ブロン!」

 そう叫ぶと、ブロンが答えるように「キャンッ」と甲高く鳴いた。その声のおかげで、ブロンのフワフワした体を見つけることができた。そしてそのそばには、エリクがいた。噴水の縁に腰をかけて眠っている。

「なあんだ、エリクか」

 シュゼットははあはあ言いながら、ブロンとエリクの方へゆっくりと歩いて行った。

 エリクは腕と足を組み、グラグラしながら眠っている。そのグラグラ揺れる足先を、ブロンは必死に追いかけている。

 ――またこんなところで寝てるなんて。本当に昼間に眠くなっちゃうんだな。

 シュゼットはエリクの隣に腰を下ろし、横顔をのぞきこんだ。レモングラスのようにきれいに伸びたまつ毛と髪は水分が少なくパサついている。肌や唇はかさつき、少し荒れている。外見にも影響があるようでは、やはり相変わらず眠れていないのだろうか。

「おーい、エリク。体、変にするよ」

 声をかけるが、エリクは目を覚まさない。そこで、右肩を掴んで優しく揺すった。

「エリク? 起きてー」

 これでもまだ起きない。座ったままでよくこんなにも深く眠れるな、とシュゼットは感心してしまった。

「こうなったら奥の手だ」

 シュゼットはまだ足を追いかけていたブロンを抱き上げた。

「ブロン、エリクにペロペロ攻撃!」

「キャンッ!」

 ブロンは元気よく鳴くと、エリクの顔をペロペロなめ始めた。

「うわっ! なんだ!」

 ビクッと体を震わせて、エリクは飛び起きた。シュゼットとブロンに気が付くと、苦笑いをして、縁に座りなおした。

「なんだ、ブロンかあ」

「やらせたのはわたしだよ」

「キャンッ!」

 シュゼットとブロンがニシシッと笑うと、エリクは指で二人の額を小突いた。

「驚かすなよなあ」

「ごめんごめん。でも、わたしも驚いたよ。またこんなところで寝てるんだもん」

「散歩してたら眠くなったんだよ。ちょうどよく座れる場所があったから、仮眠してた」

 そう答えながら、エリクはあくびをした。青色の目が涙できらめく。

「ねえ、エリクが何の仕事してるか聞いても良い? ひょっとして夜遅い仕事?」

「いや、今は無職」

「あ、そうなんだ」

「でもシュゼットの言う通り、前は夜遅い仕事だった」

「それって?」

「警吏だよ。前に住んでた町でやってたんだけど、夜配属が多くてキツかったんだよな。だから引っ越しを理由に辞めた」

 警吏とは市議会に雇われた役人で、治安維持のために犯罪者を取り締まるのが仕事だ。夜警の監視もしなければならず、夜にも当然働かされている。たいていは恰幅が良く背の高いものが選ばれるが、エリクは背は高いが、恰幅が良い方かと言われると平均より少し良いくらいだ。

「それじゃあ、今は仕事探し中ってことか」

「ああ。でもなかなか頭が回らなくて、やる気起きないんだよ。シュゼットの香り袋のおかげで、少しは寝られてるんだけどなあ」

 エリクはまたあくびをした。

「お金は大丈夫?」

「警吏は大変だけど、給料はよかったからな。貯めてた分で暮らしてる」

 シュゼットはブロンを下ろして、エリクの肩に手を置いた。

「あのさ、エリク。よかったら、なんだけど。エリクの時間をくれない?」

「俺の時間?」

 エリクはパサついた髪を揺らしながら首を傾げた。

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