9.シュゼットのハーブ生活

※動物への精油使用については、リスクが高い場合があります。そのため、動物が居るご家庭で精油を使用する際は、必ず、専門家にご相談ください。

※また、作中に登場するシュゼットの飼い犬ブロンは、魔法動物という特別な犬種であるため、精油が身近にあっても危険ではない、という設定になっています。




 もらい物のリンゴを使ってジャムを作った翌日、日曜日の今日はシュゼットの仕事はお休みだ。それでもいつも通りの時間に目を覚まし、ベッドから降りる。木製のベッドフレームがギシッと音を立てると、専用の小さなベッドで寝ていたブロンの耳がピクッと反応した。ブロンはのろのろと顔を上げ、歯を見せながら大きなあくびをした。

「あははっ、おはよう、ブロン。起こしちゃった?」

「クーンッ」

 ブロンは甘えた声を出しながら、シュゼットの足にすり寄って来た。まだ寝ぼけていて、いつもはつぶらな瞳がショボショボしている。

 シュゼットはブロンをひと撫ですると、開けたままの窓の方へ歩いて行き、朝日を浴びながら伸びをした。

「良い天気! 今日はたまった家事を片付けちゃおうっと」


 立ち洗いを済ませると、ジンジャー入りの紅茶と、パンとチーズの簡単な朝食を済ませた。アンリエッタはまだ足が痛むため、今日も裁縫仕事をしていることになった。


 まずは家の中の掃除だ。

 はたきで窓枠や家具の埃を落とすと、大きな引き上げ窓を拭き始めた。

 窓を拭くのにはレモングラスの精油が良い。レモンに苦みを足したような大人っぽい香りは、虫よけになるからだ。花を咲かせてくれる虫に対して、シュゼットは畏敬の念を持っている。

「それでも家の中でブンブン飛び回られるのは嫌だよねえ」

 シュゼットは苦笑いをしながら、キッチンガーデンを臨む窓は念入りに吹いた。互いの平穏のためにも、家の中は不可侵にしておくのが良いのだ。ブロンも「ワフッ」と同意する。


 次は埃が落ちた床の拭き掃除。

 たらいの中に湯をはり、ラベンダーの精油を数滴混ぜた湯に布巾を浸す。これで床を吹くと、ほんのりとラベンダーの香りがして気分が上がり、掃除がはかどるのだ。

「でもブロンは床をなめちゃダメだよ。アロマオイルは動物に合わないことが多いから」

「ワフッ!」

 ブロンは元気よく答えた。

 ブロンの食事場にはカーペットが敷いてあるため、万が一食べ物をこぼしてもカーペットの上なら拾って食べることができるようにしてある。対策はばっちりだ。

 ダイニングルーム、キッチン、シュゼットとアンリエッタの寝室、それから空き部屋の二つの床掃除は一時間で終わった。開け放った窓から流れてくるラベンダーの香りに誘われたのか、家の傍を蝶やミツバチが飛び始めた。しかしレモングラスのおかげで、中に入ってくることはない。

 アンリエッタは手を動かしながら、胸いっぱいに深呼吸をした。

「ああ、良い香り。でも、何にも手伝えなくて悪いわねえ」

 アンリエッタは完成した香り袋を布の柄や大きさによってより分けている。シュゼットが常に持ち歩き、求められれば手売りしている香り袋も、シュゼットたちの大切な収入源だ。中身のドライハーブはシュゼットが、袋はアンリエッタが製作を担当している。

「大丈夫だよ、おばあちゃん。アロマがあれば、掃除なんてあっという間だから!」

 シュゼットはニッと笑い、次は風呂場へ向かった。


 タイル張りの風呂場の掃除には、カビを防ぐティートリーの精油を使う。とはいっても、風呂場はあまり汚れていない。ふたりはほとんどそれぞれの部屋で立ち洗いをしていて、風呂を使うのは客人か、精油を入れた湯の沐浴をする時くらいだからだ。

 風呂場の掃除はあっという間に終わり、最後はキッチンだ。


 キッチンには、柑橘系の精油を使う。特に油汚れが良く落ち、消毒の効果もあるのだ。キッチンの掃除をしていると、柑橘の香りに刺激されるのか、シュゼットは必ずお腹が鳴ってしまう。

「お昼には、とれたて卵で何かつくろうかな。ゆで卵の気分じゃないし、セージ入りのスクランブルエッグにしようかな」

 シュゼットはそう言いながら手を洗い、ザルを持ってキッチンガーデンに続く勝手口を開けた。その途端、夏のまぶしい日差しがカッと音を立ててシュゼットの全身を照らした。勝手口の脇に咲くヘンルーダの黄色い小さな花も、嬉しそうに陽を浴びている。

「暑いけど、良い天気! 植物も気持ち良いだろうなあ。ねえ、ルー?」

 返事をするように、ヘンルーダは風で縦に揺れた。

 シュゼットは伸びをしながら、高さが三メートルある煉瓦塀に囲まれたキッチンガーデンに入って行った。植えられている植物の種類はハーブ、草花、野菜、樹木、すべて合わせて約二百種類。ラベンダーはもちろん、カモミール、バレリアン、コンフリーやフェンネルをはじめとしたハーブや、アスター、オレガノなどの宿根草、ジャガイモなどの根菜、バラの木やマンダリンの木などの樹木。この庭も神のお告げ、基、前世の記憶の欠片を頼りに忠実に再現した。前世よりも輸入の手段が安価ではないため値は張ったが、ほとんどの植物を育てることができている。



「――自分の家で、好きな分だけ育てて、収穫できる。これって良いよね」

「自給自足以外の方法がとれるのなんて、お貴族様くらいよ」

 アンリエッタはセージ入りにスクランブルエッグを口いっぱいに頬張り、「おいしいっ」と無邪気な声を上げた。

「今年はそこまで暑くないから、植物が良く育ってるよ。去年は暑くて、すぐに水が渇いちゃったから」

「だからセージの味も良いのね」

 シュゼットの祖母との生活は、こんな風にとても平穏なものだ。

 朝起きたら立ち洗いをし、二人そろって朝食を食べ、午前の往診に出かけるか家事をする。正午前には帰って来て、ふたりで昼食をとり、午後の二時までは洗濯と土仕事をする。収穫時期ならば収穫をし、剪定が必要ならば良いものを残して残りは剪定し、それからまた午後の往診に行って、六時には買い出しを終えて家に帰るようにしている。そこから夕食を食べて、縫物やドライフラワー、ハーブチンキ作りなどの仕事を終わらせて、眠りにつく。毎日同じことの繰り返しだが、シュゼットはこの日々が好きだった。


「明日もいつも通り、穏やかに過ぎて行きますように」

 枕もとのラベンダーの香り袋にそうささやいて、シュゼットは眠りについた。ブロンは「ワフウ」とあくびをしながら答えた。

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