亀とみる

緋色ザキ

亀とみる

 亀のジャックは映画が好きだ。


 僕は映画をレンタルして鑑賞するのが趣味なのだが、映画を見始めると決まってジャックは水槽をひっかく。それで、水槽から出して机の上に乗せてやると嘘みたいに大人しくなって、画面の方を凝視する。


 どうせ見たって何も分からないだろうにと最初は思っていたが、それは僕の思い違いだった。ジャックは見終わったあと、決まってその映画に出てきたなにかのまねをする。この間タイタニックを見たあとは頑張って足を動かして十字架を作ろうとしていた。そのもくろみは、しかし、足の長さが足りず成し遂げられなかったようだが。


 ジャックは映画を見ていると決まって涙を流す。


 不思議に思いネットで調べてみたところ、どうやら亀は目の乾燥を防ぐために涙を流すようだ。しかし、僕がいつも見ている作品は必ずと言っていいほど感動するシーンが出てくるため、ジャックが感動している可能性も捨てきれない。僕はジャックと映画を鑑賞しながらいつも目に涙を浮かべてしまう。感動とは無縁のコメディやらホラーを見て判断するのも手ではあるが、それはなんだか情趣に欠ける気がして、僕はしないことにしている。未知であるからこその良さというものが世の中には存在するのだ。


 そんなこんなで、僕は毎週のように亀のジャックと映画を見るという端から見れば奇想天外な生活を送っているのである。この話を友達にすると、決まって言われることがある。


「一人暮らしで寂しいのは分かるけどさ、亀と映画を見るのは辞めた方がいいと思うぞ」


 そう言うときの友人の声には哀れみやら驚きやらの感情が内包されているのだ。僕はそれに対してこう伝える。


「ジャックと映画を見るのは楽しいんだ。それに、一緒に見るとしばらくの間ジャックが登場人物のまねをするからそれでDVDを返却し忘れていることを思い出せる。他にも……」


 しかし友人は続けようとする僕の肩に優しく手を置く。


「分かった。分かったからもういいって」


 そして、今度飯でも奢るから元気出せよと慰められる。


 彼らは何も分かっていない。別に僕は孤独に耐えかねてジャックと一緒に映画を見ているわけではない。もちろん、彼女がいればそれはそれで楽しいのかもしれないけど、いなくてもそれはそれでまたいいのだ。そもそも本当に出会いに飢えていたら行動している。寂しさを紛らわすために亀と映画を見ている人間がいるとしたら、それはもう、いろいろ取り返しがつかない気がする。少なくとも僕はそうではないのだ。しかし、何度伝えても理解してもらえず、最近は説明をするのを放棄した。人間の思い込みとはかくも強烈なものなのだなということを、身をもって体感したわけだ。


 さて、そんなこんなで日々を穏やかに過ごしていたわけだが、のんびりとした時間は急に終わりを告げた。


 僕のゆるやかな日常はゼミの到来によって崩されたのだ。


 とはいっても、授業は別段忙しいわけではなかった。週に二日、二コマというわりとオーソドックスなものだ。しかし、その二日とも授業終わりに飲み会があったのだ。


 先に言わせてもらうなら、僕は飲み会というものがそこまで嫌いなわけではない。お酒は大して強くないが飛び抜けて弱いわけでもなく、中庸という言葉がぴったりな人間である。そして、人と話すことも嫌いじゃない。だから、最初のうちは楽しかった。そう、最初のうちは。


 しかし、しかしである。この毎週二回の飲み会は次第に僕を蝕み始める。その原因の最たるところはお金だ。僕は親からの僅かな仕送りとアルバイトでせっせと貯めたお金を元手に一人暮らしをしている。とはいえ、アルバイトもそんなに入っているわけではない。それでも、これまでは普通に生活できていた。だが週二回の飲み会の支出は計り知れないものがあった。僕の貯金をじわりじわりと溶かしていく。しかも、この飲み会、参加を辞退するのが難しいのである。緊急の用事以外で誰も行かないという選択肢を取らないのだ。僕が行きたくなさそうな態度を取ると、先輩方が口では無理しなくてもいいよといいつつ、来いよというオーラを纏い始める。僕は意外と場の空気に敏感で彼らの考えがひしひしと伝わってきてしまう。それで、最初の一ヶ月目にしてすでに渋々参加するという状況になってしまったのだ。


 さて、そんな週二飲み会ライフが三ヶ月目にさしかかったある日のこと。


 その日もゼミ終わりに飲み会があり、大学近くの焼き鳥屋へと足を運んだ。そして、僕は最近定位置となり始めたテーブルの端っこにちょこんと座り、メニュー表に目を向けた。二時間三千円。僕の心を締め付ける言葉である。このおかげで、先週からアルバイトのシフトを増やすことになったのだ。ゼミが始まってからというもの、ジャックと映画を見る時間がほとんど取れていなかったというのに、さらにまた映画鑑賞から遠ざかってしまうのだ。それで恨みがましい視線をメニュー表に向けていると、ポンポンと肩を叩かれた。


「どうしてそんなに暗い顔をしてるの?」


 顔を上げると、そこには同じ学年の女子生徒、鷺宮がいた。普段僕の前に座る人はといえば、静かというか、飲み会の参加がいまいちだと思ってそうな男の先輩たちだったからなんだか新鮮だった。


「実は金欠なんだ」


 そのせいだろうか、ぽろっと本音が漏れた。


「分かる、私もそう」


「というか僕も聞きたい。いつもテーブルの真ん中にいるのになんで今日はここなんだ?」


 鷺宮はその問いに苦笑した。


「なんかさ、あっちにいるとけっこう気を遣うんだよね。それで疲れちゃってさ」


 それは予想外の言葉だった。てっきり、あっちにいる人たちはみな飲み会を楽しんでいるものとばかり考えていた。けれども、いま目の前に座る彼女は苦々しい顔でいつもは自分がいた場所を見ている。


「本当はさ、私、ゆっくりお話ししながら飲みたいんだ。だから小平くんがテーブルの端に座ってるの、羨ましいなって思ってたんだよ」


 恨み言をぶつけてくる。けれどもその声音は柔らかい。僕はこれまで彼女と話したことがなかったし、あまり話も合わないだろうと思っていたけど、案外そんなこともないのかもしれない。


「じゃあ、その責任を取って今日は僕が鷺宮さんに付き合うよ」


 グラスを軽く持ち上げると、鷺宮さんは嬉しそうに笑ってグラスをコツンとぶつけてきた。




 それから少しだけ毎週二回の飲み会が楽しくなった。僕と鷺宮さんは決まってテーブルの端に座り、のんびりと話した。鷺宮さんは酔ってくるとおしゃべりになるようで、バイト先でのことや家庭のこと、サークルのことなどいろいろなことと話してくれた。中にはかなり際どい内容もあったが、周りもみんな酔っていて、聞こえていないはずだ。なんなら僕もちゃんと覚えていないくらいである。


 さて、そうこうしているうちに夏休みが近づいてきた。


 そしてついに夏休み前、最後の飲み会の日がやってきた。僕は嬉しかった。さすがに夏休み中はこの半強制的な飲み会も行えまい。有意義な日々を送ることができる。なんだか、他のゼミ生のテンションもいつもより高く、みな飲むペースが普段以上に速かった。


 そのせいか、一次会が終わった頃にはいつもよりもふらついていた。


 なんだか不思議な気分である。隣に立つ鷺宮さんもいつも以上に顔が赤かった。


「大丈夫?」


「うん、へーきへーき」


 とそんなやりとりを繰り返していると、一人の先輩が近づいてきた。


「なあ、鷺宮、ちょっと話したいことがあるんだが」


 酔っているにしてはひどく真面目な雰囲気だった。僕は察して、ちょっとトイレ行くわと鷺宮さんに言ってその場を離れた。


 本当はトイレで用を足す必要はなかったのだが、酒のせいか尿意がやってきた。僕はふーとため息をついて用を足すと、手を洗う。鏡の前に立つ自分を見ているうちに、次第に酔いが覚めてきた。そして、なんだか無性に焦りを感じた。


 僕は一目散に元いた場所へと戻った。だが、ゼミ生の姿はそこにはなかった。すでに二次会組と帰宅組に別れて解散してしまったのだろう。週二回飲み会をしているだけあって、その辺りの動きは非常に機敏なのだ。


 僕は肩を落とした。しかし、どうしようもない。それで仕方なく家に向かって歩き出そうとした。


 そのとき不意に瞼に柔らかい何かが当てられた。


「だーれだ」 


 ほんのり甘い匂いがした。それはひどく嗅ぎなれた匂いで、飲み会のときは決まって横の席から香ってくる匂いだった。


「鷺宮さん」


「ぶー、違います」


「答えは?」


「美咲でしたー」


 そう言ってけらけらと笑う。


 かなり酔っているようだった。僕は彼女の手をどけて、それから振り返った。そして顔を見てなぜだかほっとした。


「どうしたー?」


 鷺宮さんはかくっと首を横に捻る。


「鷺宮さん、酔ってるね」


「酔ってない」


「じゃあ、酔ってない」


「いや、酔ってる」


「どっち?」


「酔ってない、こともない」


「それなら、近くまで送ってくよ」


「……うん」


 そうして、僕らは歩き出す。お互い終始無言だった。別に沈黙が気まずいわけではない。けれども僕は鷺宮さんに聞いておきたいことがあった。


「あ、あのさ」


 鷺宮さんは立ち止まり、その少しとろけた瞳をこちらに向ける。


 僕は言葉を詰まらせる。鷺宮さんはそんな僕をしばらく見ていたが、不意に一歩前に近づいてきた。顔を少しでも当たるくらいの距離。お酒の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。


「ねえ、さっき逃げたでしょ」


 鷺宮さんはむくれ顔でそう言った。


「えっと、うん。結局どうなったの?」


「ふーんだ。教えないよー」


 そうして鷺宮さんはまた歩き出す。だが、数歩進んだところで足を止めて振り向いた。


「追いかけてこーい」


 僕は慌てて彼女の前まで駆けていった。わずか数メートルなのに心臓が爆音を立てる。


「ねえ、私のことどう思ってる?」


 僕は一度目を閉じて、それから鷺宮さんの瞳を見た。


「好きだよ」


「知ってる」


 ぎゅっと柔らかくて温かい塊が僕にしがみついてきた。その耳は赤く染まっている。


「言わせてごめん」


「許さない」


 こうして、僕らは付き合い始めたのだった。




 鷺宮さんが彼女になって二週間後のこと。


 僕が映画鑑賞が趣味だと伝えたところ、うちで一緒に見たいと言い出した。


 もちろん返事はオーケー。二人でレンタルショップに行って、適当に面白そうな作品を見繕い、お酒やおつまみを買って二人でうちに入った。


 よくよく考えれば、この部屋に誰かが来るのなんて初めてのことで、しかもそれが彼女なのだから感慨深いなと思った。


 鷺宮さんは部屋に入ると、キョロキョロと見渡したのち、ジャックの前に立った。 


「この亀、可愛いね」


「うん。ジャックっていうんだ」


「へー、洋風な名前だ。出身は?」


「大学の近くにあるペットショップだよ」


「ジャパンかあ」


 そんなくだらないやりとりののち、部屋を暗くして映画を見始めた。ジャックは珍しく水槽の中から静かに映画を見ていた。映画はとても感動的なもので、僕は何度も泣きそうになった。


 主題歌が流れ終わると、僕は立ち上がって部屋の電気をつけ、鷺宮さんを見た。彼女は映画を見始めたときと同じ顔をしていた。


「すごい感動的な話だったね」


「うん?うーん、まあたしかにねえ。でもちょっと狙いすぎな気もしたなあ」


「そ、そっか。どのシーンが一番良かった?僕は最後の卒業式の場面がぐっときたんだけど」 


「私は途中のコメディっぽいやりとりかなあ。あれがすごい面白かった。ちょうどそのときジャックが涙を流しているのを見て二重に面白かったなあ」


 それからも映画について色々話したが、僕らの話は壊滅的にかみ合わなかった。そして、ジャックの目に浮かぶ小粒の水の塊の正体も期せずして知ってしまった。


 なんというか、そんなもんなんだなと思った。けれども、彼女が楽しそうに話す姿を見るのも悪くなかった。


 その日は二人で濃密な時間を過ごした。


 それから夏休みの間、僕らはいろいろなところに出かけ、多くの時間をともに過ごした。だが、一緒に映画を見た日以降、感動的な作品を一緒に見ることはなかった。その作品を見るときは、そう、いつもみたいにジャックを机の上に座らせ、目に涙を浮かべながら見るのであった。

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