第38話 言わなければいけないこと
調度品などほとんどない簡素な空間に、ジャスミンの甘く華やかな香りが漂う。ティーカップを手にしたまま、アシュリーはうっとりと目を閉じた。
どこか懐かしく、とても優しい香り。そっとティーカップを口へ運び、ひと口飲むと自然に息が漏れた。
「とても美味しいわ、ガーベラ。それに、何だかとても落ち着く感じがする」
「ありがとうございます。ジャスミンには、心を落ち着かせる効果があるみたいです」
向かいに座るガーベラがにこりを微笑む。心を見透かされているようで、アシュリーは思わず苦笑した。
「あ、そう言えばストックは?」
「ストックなら、昨夜から協力者が運営している工房へ――」
ガーベラが言い終わる前に、コンコンとノックの音が響き、今まさに名前を出していたストックが疲れた顔をして部屋に入ってきた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、ストック。もしかして、私が頼んでいたものを作りに?」
「ええ。とりあえず完成しましたが、微調整は必要かもしれないです」
そう口にしたストックは、腰にぶら下げた革袋のなかから黒いブレスレットを取りだし、アシュリーへ差し出した。
「うん……サイズは問題ないわ。これに魔力を通せばいいの?」
「はい。ちょっと試してもらえます?」
試着したばかりのブレスレットを外したアシュリーは、手のひらにのせて魔力を通した。黒いブレスレットが一瞬光に包まれ、ぐにゃりと形を変える。
「わぁ……すごい……!」
ガーベラが思わず目を見開く。魔力を通されたブレスレットは、二十センチほどの鋭く細いナイフに変化していた。
「斬れ味については保証します。何せ魔鉱石を使っていますし。ただ……」
にわかに眉をひそめたストックにアシュリーが顔を向ける。
「どうしたの?」
「いえ、どうせ魔鉱石使うのなら、もっと大きな剣とかのほうがよかったんじゃないかなって」
「ふふ、いいのよこれで」
「そもそも、一応団長も出歩くときは短剣を腰にさしてるじゃないですか。今さらなぜそんなナイフを?」
「まあ、ちょっとね」
言葉を濁すアシュリーに、ストックとガーベラは怪訝な表情を浮かべた。そんな二人を気にすることなく、アシュリーはもとに戻したブレスレットを右腕に装着する。
そう。ストックが言うように、純粋な武器としての殺傷力は長剣が勝る。だが、アシュリーにはどうしても携帯性に優れた暗器(隠し武器)が必要だった。目的を達成するために。
と、ストックが何かに気づいたように「あ」と声をあげた。
「もしかして、左手のブレスレットと合わせたかった、とかじゃないですよね?」
ストックがアシュリーの細い左手首に目を向ける。そこには、先ほどストックが手渡したのとほぼ同じ見た目の黒いブレスレットが装着されていた。
それは、ストックたちが彼女と初めて出会ったときから身につけていたもの。
「そんなわけないじゃない。でもまあ、たしかに左右対称になっていい感じだけど」
「それも、魔鉱石を使ってますよね? いったいどんな効果が付与されてるんですか?」
「内緒よ。まあ、お守りみたいなものね」
ふふ、とごまかす様子を見て、ストックとガーベラは訝しげに首を捻った。
――憂鬱だ。
紅い絨毯の上で跪いたまま、ステラは小さく息を吐いた。
天帝陛下の期待に沿うべく
バジリスタ城へ報告のために訪れたステラとネメシアは、昨日の出来事を侍従長からそっと聞かされた。天帝の護衛をしていた二名の兵士が、どのような理由かはわからぬがあっさりと処刑されてしまったこと。
ネメシアは驚いていたが、ステラはそこまで驚きはしなかった。なぜなら、自身が側近として仕えるようになってからも、護衛や侍女が何の前触れもなく天帝に処刑されたことがあったから。
おそらく、処刑された者は何かしらの理由で天帝陛下の逆鱗に触れてしまったのだろう。だとすると、今もまだ陛下の怒りは収まっていないのかもしれない。
そこへ、あまりよくない報告をしなければならないのは、憂鬱としか言いようがない。
ステラは、隣で同じように跪き俯いているネメシアの横顔をちらりと見やった。やはりと言うべきか、ネメシアの顔は緊張でこわばり、頬を雫が伝っている。と、そこへ――
玉座へ向かって右側にある大きな扉がギギィッ、と音を立てて開き、一人の女性が入ってきた。天帝、サイネリア・ルル・バジリスタである。
サイネリアは跪く二人をちらりとも見ず、そのまま玉座へ腰かけるとおもむろに足を組んだ。
「おもてをあげなさい」
静かな空間に、サイネリアの凛とした声が響き、ステラとネメシアはゆっくりと顔をあげた。
「ハルジオンの件で報告があると聞いたんだけど?」
「は……」
感情がまったく窺えない瞳を向けられたネメシアが、軽く深呼吸をしてから口を開く。報告を聞いているあいだも、サイネリアの表情が変わることはなかった。
「ふうん。あのハルジオンが、まさか矢で射られて殺されるなんてね」
サイネリアの耳にも、すでにハルジオン暗殺の件は伝わっている。ただ、詳しい状況などはまだ知らせてはいなかった。
「で。仰々しい警備までして、テロリストどもにあっさりやられてしまって、しかも犯人も捕まえられていないと」
声色こそいつもと変わらないが、ステラとネメシアは何とも言えない圧力を感じざるを得なかった。
「ステラ。あなたがいたというのに、ちょっとだらしないんじゃなくて?」
「は……! 申しわけありません……!」
「はぁ……もしかして、私の見込み違いだったのかしらね?」
サイネリアの口から吐かれた、鋭いナイフのような言葉がステラの胸を抉った。目を伏せて唇を噛むステラをちらりと見やったネメシアが、決意したように口を開く。
「へ、陛下。ステラ殿に問題はありません。私の力不足……そして、敵の巧妙さゆえの結果です」
サイネリアが放つ圧力を堪えつつ、ネメシアは何とか言葉を紡いだ。玉座に包まれつまらなそうにしていたサイネリアがネメシアへ目を向ける。
「陛下。『緋色の旅団』はこれまでのテロリストとは違います。強大な武力を有し、しかもこの上なく頭の切れる者が指揮をとっているんです」
「強大な武力ですって?」
「はい。ヤツらは……魔鉱石を保有しています」
その言葉を聞いた瞬間、たしかにサイネリアの顔色が変わったのをネメシアは見た。サイネリアの目がスッと細くなり、謁見の間の空気がズシリと重くなったのを感じた。
「テロリストが魔鉱石を……? バカバカしい。そんなことあるはずないわ」
「ほ、本当です。以前、中央博物館が爆破されたときも、魔鉱石が使用された形跡はありました。そして、ハルジオン司令官を殺害した矢の先端にも、魔鉱石が使われていたんです」
「にわかには……信じがたいわ」
眉をひそめたままサイネリアが言う。と、そこへステラが口を挟んだ。
「陛下。ハルジオン様を暗殺したヤツらは、次に必ず陛下を直接狙ってきます。どうか、もっと護衛の数を増やしていただけませんか?」
「私を直接? そんなこと、できるわけないじゃない」
「……悔しいですが、『緋色の旅団』を率いるアシュリー・クライスは私よりも切れ者です」
ステラが必死に訴える。
「ステラ殿の言う通りです。アシュリーは、頭がいい上にやると言ったことは必ずやり遂げる。それに、彼女には絶対にそうするべき理由があるのですから」
「理由?」
サイネリアからジロリと睨まれたネメシアが、ごくりと喉を鳴らす。
これを言うべきか言わずにおくべきか。ネメシアは迷っていた。彼が口にしようとしている内容は、天帝サイネリアが抱える闇に触れることになる。が、ネメシアはそれでも言うべきだと判断した。
「……『緋色の旅団』団長のアシュリー・クライスは、陛下が滅ぼしたリエッティ村の生き残りです」
「ネメシア長官!」
弾けるようにネメシアのほうを向いたステラが、咎めるような口調で呼びかける。が、それでもネメシアは止まらなかった。
「学園を卒業したアシュリーが故郷へ戻ったとき、リエッティ村はもうなかった。彼女は必死の思いで真実を突き止めようとし、数年の月日をかけて真実を明らかにしたのです。その過程で、戦力を手に入れるため『緋色の旅団』をのっとり、復讐のために動き始めた」
「長官!」
顔をしかめたステラが、ネメシアの言葉を制止しようと肩をつかむ。ネメシアの口から吐かれる言葉が、暗にサイネリアを責めているように聞こえたためだ。ヘタしたら処刑されかねない暴言とも受け取れる。
「……ハルジオン長官が殺されたのは、彼がリエッティ村襲撃の張本人だったからでしょう。それを成し遂げた今、アシュリーは間違いなく陛下を狙ってきます」
ネメシアは真剣な目でサイネリアをじっと見やった。一方のサイネリアは、かすかに顔をしかめたまま何も言わない。重苦しい空気が体にまとわりつき、ステラは胃のあたりが次第に重くなるのを感じた。
「へ、陛下。ネメシア長官の無礼な発言はご容赦ください。陛下のことを思ってのことですので……。先ほど長官が話したように、アシュリー・クライスは危険な存在です。何とか、護衛の増員を――」
「疲れたから謁見は終了よ」
ステラの言葉を遮ったサイネリアは、すっくと玉座から立ちあがると、二人に見向きもせず謁見の間から出て行ってしまった。呆気にとられるネメシアとステラ。
「はぁ……長官。陛下へのお言葉には気をつけてください。本当に処刑されてしまうかもしれませんよ?」
「……申しわけない。ただ、いろいろな意味で、どうしても言っておく必要があると思ったんです」
ステラに謝罪したネメシアは立ちあがると、サイネリアが姿を消した扉へ少しのあいだ視線を向け続けた。
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