本編:溝蓋怪談

溝蓋怪談


 ある、春半ばの次節。

 そこかしこで桜が咲き乱れ、我こそはと一斉に、来たる暖かな季節を謳歌する頃合い。

 高台の境内から見上げる晴天に至っては、その大半が淡紅の花弁に埋め尽くされていた。さながら、境内は春に包囲されていた。四方を覆う木々と、それらを彩り飾る花々はさながら見上げるほどの岸壁であり、いっそ息の詰まる閉塞感すら催しそうな程であった。

 とはいえそんな穿った見方をする者などそう多くはなく。閑散を常とする敷地内は、参拝もそこそこに、乱れ舞う春季の風情に預かろうとたむろする地元の住人たちで随分と賑わいを見せていた。


 一つの家族があった。年若い夫婦と、ようやっと言葉を解し始めたばかりの娘。彼らもまた他のご多分に漏れず、刻々一層華やぐばかりの季節を肴に、家族水入らずで団欒を楽しもうと画策し、忙しい日々の間隙を縫って

境内を訪れた次第であった。場所の選定としては極めて適当であった事は疑うべくもなかったが、ただ幾分混雑が過ぎるのも間違いがなかった。

 雑踏喧騒渦巻く最中に、風流を楽しんでゆるりと過ごせるものか、と。彼らは何とか腰を落ち着かせ、風に揺蕩う花の香りに身を委ねられる場所はないものかと、暫し周囲を散策していた。するとその内に、人気の少ない一画に差し当たる。境内の内外、周辺に乱立する物共の中でも一際古く、立派な桜の木の丁度真下であった。

 これ幸いと。家族は敷物を敷き、その上に腰を下ろす。見上げるまでもなく視界を占領する、淡くも鮮やかな桜色の紗幕は陽光すらも自身と同じ色彩に染め上げ、家族各々の視線を奪い去った。篤その景色にいだかれたまま、彼らは暫しの歓談を堪能していた。

 とは言え。花を美しいと思う感性と、連綿とその風情に浸れるかというのは別の話。年端もいかぬ子供に、そうした叙情を求めるのは、些か酷と言う物。それは夫婦も重々承知しており、持ち込んだ弁当をぺろりと食べ終えてからほぼ間を置かず、すたこら駆け回る娘の姿を咎めるでもなく、その身に危ないことがないようにと穏やかな眼差しを以て見守るばかりであった。


 さて。

 異変というには甚だ細やかなその違和感に、初めに気付いたのは男だった。先程迄は野に放たれた仔犬よろしく、無尽蔵な体力に物を言わせて走り回っていた娘が一転、ぽつねん立ち尽くし微動だにしない。当然、いの一番に頭を過ぎるのは怪我や体調不良。

 慌て男が駆け寄るや、それらの不安ごとの一切が杞憂であることが見てとれた。血色の良い顔色。服にも汚れ一つなく、どこかしらで転げたという風でもない。ほっと無でを撫で下ろしたのも束の間、男が途端に訝しむ。では何故、娘は立ち惚けているのか。

 そんな娘の視線が、ある一点に向けられていることに男が気付いたのは、声を掛けようと口を開いた丁度その時だった。


 食い入るように。或いはいっそ、瞬きすら忘れたかの如く。熱心に注がれる視線は、下方。己の足元へと向かっていた。こんな見頃の花の渦中に、首を垂れるその様こそ不可解と、男も釣られて娘の眼差しが向けられる方を見やる。


 あったのは、溝蓋。桜咲き誇る、色彩に富んだ風景にまるでそぐわぬ、所々赤錆びた鈍色。


 溝蓋自体は何ら変哲もない。町を歩けば道路脇の側溝でいくらでもその姿を見かける。故にそれそのものに奇異を感じる謂れはない。あればこそ、ただただ奇妙。有りふれた格子の蓋はけれども、美しい景観に余りにも似つかわしくなく、相応しくもなかった。

 男は取り立てて風流を重んじるような人種ではなかったが、それでも幾許か風情に水を差された様な心持ちで溜息をついた。態々足を運んだ先で、好き好んで溝蓋を眺める者が何処にいるのか。すぐに娘を引き連れて、妻の元へと踵を返そうと目論むのであった。

 そんな男の両の脚を思惑虚しく地面に縫いつけたのは、ひとえに娘が専心の限り、その場から立ち去る素振りすら見せなかったからである。

 娘の顔には、僅かながらの表情の機微すら無い。ただひたすら、景観に不釣り合いな格子を見据えるばかりに没頭するその様子に、男もまた、改めて溝蓋へと視線を落とす。

 格子の奥。湿り気を帯びた暗闇の底には、汚泥がうっすらと陽の光を照り返していた。その表層には運悪く滑落したのであろう、桜の花弁の姿もあった。無論、水影程の美しさなぞ望むべくもなく。泥濘に点在する薄汚れた花の残骸は、滴る血痕何かこちらを見ているを彷彿とさせ、男に嫌悪の念を抱かせた。

 不穏な不快感が首筋をざらりと舐める。男は堪らず、娘に声を掛けた後、そそくさとその場を立ち去ろうと身を翻した。





 素っ頓狂な娘の声。驚くでもなく、慄くでもなく、発せられた一音。何事かと振り返り見やれば、忽然と、その姿は消え失せていた。

 困惑色濃く、慌て周囲に視線を飛ばし愛娘の影を捉えようと踠く。しかしながら、男の労が功を成す事はなく。霞が春風に砕ける様に、その姿を皆目見つけられはしなかった。

 男の心は、半ば狂乱の渦中にあった。それもその筈で、彼が娘から目を離し、視線を振り戻すまでには、文字通り瞬き程の暇しかなかったのだから。

 ふと。見回す視界の端にちらりと、溝蓋が申し訳程度の光を放つ。陽光の照り返しとしては余りに薄汚れた、鈍い光。まさか、と。男は溝蓋へと駆け寄った。

 格子である以上、無論その底は垣間見える。とは言えそれは実体なき視覚に限った話。格子そのものの間隔は辛うじて指先一本通るか否かという狭さ。子供とは言え、到底人一人滑落するだけのものではない。

 では、溝蓋を外して、そこに落ちたのか。あり得ぬ話では無いが、どちら道目を離した刹那に取り行えるだけの挙動では無い。

 思いつく限りの可能性は、どれもこれも無理があった。男は落ち着かぬ心持ちのまま、ふと視線を溝蓋の底…淀みの内の暗闇へと落とす。そして、気付く。



 何かが。こちらを。見ている。



 男が腰を抜かす。抜かして、しかし。動揺のまま惚けるばかりと言う訳にもいかない。一先ず男は妻の元へと駆け戻り、事の次第を半ば捲し立てる形で伝える。狼狽明らかに、連れ立って二人は改めて溝蓋の元へと駆け寄る。

 沈み溜まるは泥濘と花の亡骸。汚泥の他には何も無い。妻は勿論、そんな淀みの只中に娘が居るなどとは露とも思わず、声を挙げながら周囲を駆け回る。男もそれに続く。


 賑わう人らの声も既に遠く。陽はもう随分と傾き、もう間も無く冷たい夜が来ようと言う時分。探せども、探せども。二人は遂に娘を見つけることが出来なかった。自責と、やり場の無い焦燥から押し黙る男と。彼にばかり責任を転嫁すべきで無いと理解しながら、それでも責めずにいられぬ女。ささくれだった空気が双方の狭間を往き交い、けれども結局なす術なく。おしなべて肩を落とすばかりであった。その最中にあって、男の胸中には、娘への心配とは別にもう一つ、気がかりなことがあった。


 暗がりの向こうから。じぃとこちらを見返す、何某か。視界の末端、映り込む刹那に垣間見ただけの、幻視としか思えぬ眼差しはしかし、男の瞼の裏にべったりとこびり付き、その脳裏を焼き続けていた。


 やがて。焼け落ちた夕陽せきようはすっかり吹き消え、日中の喧騒などまるでなかったかの様に、辺りは押し黙るばかりの暗がりが吹き溜まっていた。男たちは遂に独力での捜索を断念し、寺のご住職に助力を乞うことにした。

 ご住職は夫婦から仔細を聞き、はて、と首を傾げた。傾げながらも一先ず、夫婦と連れ立ってくだんの溝蓋へと急ぎ向かった。




こんな所に、溝蓋など有りはしませんよ




 立ち戻ったその場所に、溝蓋はなかった。或いは立ち消えてしまった娘の影と同じく、忽然とその姿を隠してしまっていたのだ。夫婦の顔から血の気が引く。その様子を案じると等しく、強い困惑を浮かべながらしかし、ご住職ははっきりとその不在を口にした。

 毎朝欠かさず境内の清掃を行なっているが、そんな溝蓋なぞ、とんと見かけたこともない、と。

 



 ごぼり ごぼり ごぼり ごぼり



 男の耳奥では、粘ついた水音が鳴り続けていた。その脳裏を、不気味な疑念が満たしていく。ご住職が見当違いの法螺を吹いている訳もなく。さりとて自身が白昼夢の只中にて微睡んでいたなどと言うこともない。とは言えそれらの真実がどちらに属するかを論じるだけの余力は夫婦にはなかった。あるのは、娘の痕跡が全く一欠片も見受けられないという、厳然と横たわる事実ばかり。

 突き落とされたような浮遊感に眩暈を覚え、あわや男は卒倒する手前であった。辛うじて踏みとどまれた理由は、単に一足早く倒れ込んだ妻の姿があったからと言うだけの話であった。自責を由来とする義務感だけが、男の直立を支えていた。とは言えその内心は自身の妻とそう大差ない。最早正常な思考などは疾く腐り落ち、吐き気と共に波打つ恐怖ばかりが男の頭を埋め尽くしていた。


ごぼり ごぼり ごぼり ごぼり


 水音は、未だ鳴っている。




 一陣突風吹き荒れて。気の狂った様に散らばる花々の驟雨に晒されながら。待てど暮らせど、終ぞ娘が夫婦の元に戻る事はなかったと言う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る