2-1.雪色の守神

 目映い日差しの中を、熱を連れた風が吹き抜ける。春に芽吹いた萌黄の生命いのちも、気付けば深いあおに染まっている。ヤシロ様は先日切られた古木のくいぜに座って、いつもの通り動物たちに囲まれている。

「おや、鹿七ろくしちかい? お前、久しく見ないうちに大きくなったねえ」

 ヤシロ様は、ご自分に寄って来る者たちによく名前を付けている。私には分からないが、ヤシロ様には見分けがついているらしい。先日も新顔として、鹿の鹿八ろくはちが増えたばかりだ。今は鹿の鹿七の他に雀のおすずが来ている。つい先ほどまでいた狸の狸吉りきちは、食べ物でも取りに行ったのだろうか。

 ヤシロ様の前では、動物たちも殺生をしない。決してヤシロ様が禁じているわけではないのだが、私も彼らがこの場所で食事を摂るところを見たことはない。肉食や雑食の者たちに限らず、植物を食む鹿や兎までもが食事に際してヤシロ様の前を辞していくのだ。

 かく言う私も、その気持ちが分からないわけではない。かつて獣であった私もまた、弟たちとよくヤシロ様の元へ遊びに来ていたからだ。生まれてすぐに母親を亡くし、本能のまま辛うじて生きながらえていた私たちにとって、そこは安息の場所であった。ここでなら何に襲われることも無い。初めは単にそう学習してのことだったが、ヤシロ様に出会ったその瞬間、私たちはその理由を悟った。

『おや。三匹とも初めて見る顔だけど……何かに似て……ああ、分かった! 茉狐まこの子たちか』

 当時の私も弟たちも、それが「言葉」であることさえ知らなかった。けれどもその声色が、表情が、所作が、私たちに言いようのない安心感をもたらした。そして間もなく、それが鷹や鷲といった天敵のみならず、鼠のような食べ物にさえも平等に与えられるのだと悟った。それ以来、ヤシロ様の住まうこの場所で、ヤシロ様の愛する者たちに牙を突き立てようなどという気は起きなかった。

『それにしても、親子でここへ辿り着くとはね。私たちには何か縁があるのだろうか』

 生きているうちであれほど心が凪いだことは無かったと、私は今でも思っている。

「君たちは生きているのだから、私に遠慮することはないのに。私が分け隔てないのは今この身が何を食すことも必要としないからであって、それを君たちに押し付けたいわけではないんだよ」

 ヤシロ様はよくそんなことを呟く。けれど、それが人間の言葉を解さない彼らに届くことはない。

 そんなことを考えていると、不意に湿った土の匂いがした。

「ヤシロ様、あれは……!」

 空を見ると、とびほどもある大きな烏がこちらへ向かって飛んでいる。ゆったりとした羽ばたきとは裏腹に、烏は瞬く間に頭上を通過した。ヤシロ様と私が振り返ると、そこには修験者のような装いの若い男が立っている。つややかで黒い髪と燃えるような赤い瞳が、クロハ様によく似ている。しかし、眼前の彼には角が無かった。

「久しいね」

「ご無沙汰しております、ヤシロ様。狐殿も」

「ああ。久しぶりだな、烏殿」

 こうして最低限の挨拶を済ませると、彼はヤシロ様の前に跪きこうべを垂れた。

「改めまして、クロハ様が使い魔筆頭、緋烏あけうにございます。僭越ながら、本日はヤシロ様に火急のお願いがあって参りました。我が主を……クロハ様を、どうかお助けいただけないでしょうか」

 ヤシロ様は少しも迷うことなく彼の言葉に頷いた。

「聞こう」

「ありがとうございます」

 緋烏は一呼吸置くと、申し訳無さそうな、困惑しきったような顔で答えた。

「子どもが、泣いているのでございます」

「子どもが?」

 不思議に思った私は、思わず口を挟んでしまった。

 クロハ様は、この世のあらゆる悲しみや怒りなど、負の感情の全てを背負うお方だ。当然そこには、その子どもが泣くに至る理由となった感情も含まれるだろう。しかし、常に数多の人間の感情を抱えるクロハ様にとって、子ども一人はそこまで重い意味を持つだろうか。

 首を傾げる私とは違い、ヤシロ様には思い当たる節があるようだった。

「もしかして、クロの祠の目の前?」

「左様でございます」

 これを聞いて、私も一つ得心がいった。クロハ様は負の感情の全てを背負うが、人間たちとの物理的、あるいは精神的距離によって、それぞれ影響に濃淡があるのだ。泣いている場所がクロハ様の居られる祠の目の前なら、確かに影響も大きいだろう。

 しかし、それでもまだ疑問は残る。クロハ様の祠は、山の奥の奥の奥、簡単には辿り着けない場所に建てられている。何故そのような所に子どもがいるのか。まず考えられるのは迷子だが、それだとヤシロ様に助けを求める理由としては不十分だろう。使い魔が子どもを家へ帰せば済む話だからだ。単に帰すわけにはいかない 目映い日差しの中を、熱を連れた風が吹き抜ける。春に芽吹いた萌黄の生命いのちも、気付けば深いあおに染まっている。ヤシロ様は先日切られた古木のくいぜに座って、いつもの通り動物たちに囲まれている。

「おや、鹿七ろくしちかい? お前、久しく見ないうちに大きくなったねえ」

 ヤシロ様は、ご自分に寄って来る者たちによく名前を付けている。私ども式神には分からないが、ヤシロ様には見分けがついているらしい。先日も新顔として、鹿の鹿八ろくはちが増えたばかりだ。今は鹿の鹿七の他に雀のおすずが来ている。つい先ほどまでいた狸の狸吉りきちは、食べ物でも捕りに行ったのだろうか。

 ヤシロ様の前では、動物たちも殺生をしない。決してヤシロ様が禁じているわけではないのだが、私も彼らがこの場所で食事を摂るところを見たことはない。肉食や雑食の者たちに限らず、植物を食む鹿や兎までもが食事に際してヤシロ様の前を辞して行くのだ。

 かく言う私も、その気持ちが分からないわけではない。かつて獣であった私もまた、弟たちとよくヤシロ様の元へ遊びに来ていたからだ。生まれてすぐに母親を亡くし、本能のまま辛うじて生きながらえていた私たちにとって、そこは安息の場所であった。ここでなら何に襲われることも無い。初めは単にそう学習してのことだったが、ヤシロ様に出会ったその瞬間、私たちはその理由を悟った。

『おや。三匹とも初めて見る顔だけど……何かに似て……ああ、分かった! 茉狐まこの子たちか』

 当時の私も弟たちも、それが「言葉」であることさえ知らなかった。けれどもその声色が、表情が、所作が、私たちに言いようのない安心感をもたらした。そして間もなく、それが鷹や鷲といった天敵のみならず、鼠のような食べ物にさえも平等に与えられるのだと悟った。それ以来、ヤシロ様の住まうこの場所で、ヤシロ様の愛する者たちに牙を突き立てようなどという気は起きなかった。

『それにしても、親子でここへ辿り着くとはね。私たちには何か縁があるのだろうか』

 生きているうちであれほど心が凪いだことは無かったと、私は今でも思っている。

「君たちは生きているのだから、私に遠慮することはないのに。私が分け隔てないのは今この身が何を食すことも必要としないからであって、それを君たちに押し付けたいわけではないんだよ」

 ヤシロ様はよくそんなことを呟く。けれど、それが人間の言葉を解さない彼らに届くことはない。

 そんな昔のことを考えていると、不意に湿った草葉の匂いがした。

「ヤシロ様、あれは……!」

 空を見ると、とびほどもある大きなからすがこちらへ向かって飛んでいる。ゆったりとした羽ばたきとは裏腹に、烏は瞬く間に頭上を通過した。ヤシロ様と私が振り返ると、そこには修験者のような装いの若い男が立っている。つややかで黒い髪と燃えるような赤い瞳が、クロハ様によく似ている。しかし、眼前の彼には角が無かった。

「久しいね」

「ご無沙汰しております、ヤシロ様。狐殿も」

「ああ。久しぶりだな、烏殿」

 こうして最低限の挨拶を済ませると、彼はヤシロ様の前に跪きこうべを垂れた。

「改めまして、クロハ様が使い魔筆頭、緋烏あけうにございます。僭越ながら、本日はヤシロ様に火急のお願いがあって参りました。我が主を……クロハ様を、どうかお助けいただけないでしょうか」

 ヤシロ様は少しも迷うことなく彼の言葉に頷いた。

「聞こう」

「ありがとうございます」

 緋烏は一呼吸置くと、申し訳無さそうな、困惑しきったような顔で答えた。

「子どもが、泣いているのでございます」

「子どもが?」

 不思議に思った私は、思わず口を挟んでしまった。

 クロハ様は、この世のあらゆる悲しみや怒りなど、負の感情の全てを背負うお方だ。当然そこには、その子どもが泣くに至る理由となった感情も含まれるだろう。しかし、常に数多の人間の感情を抱えるクロハ様にとって、子ども一人はそこまで重い意味を持つだろうか。

 首を傾げる私とは違い、ヤシロ様には思い当たる節があるようだった。

「もしかして、クロの祠の目の前?」

「左様でございます」

 これを聞いて、私も一つ得心がいった。クロハ様は負の感情の全てを背負うが、人間たちとの物理的、あるいは精神的距離によって、それぞれ影響に濃淡があるのだ。泣いている場所がクロハ様の居られる祠の目の前なら、確かに影響も大きいだろう。

 しかし、それでもまだ疑問は残る。クロハ様の祠は、山の奥の奥の奥、簡単には辿り着けない場所に建てられている。何故そのような所に子どもがいるのか。まず考えられるのは迷子だが、それだとヤシロ様に助けを求める理由としては不十分だろう。使い魔が子どもを家へ帰せば済む話だからだ。単に帰すわけにはいかない理由があるということか。

「とりあえず祠へ行ってみよう」

「ありがとうございます」

 緋烏はヤシロ様の申し出を聞くや否や、今にも向かおうと烏の姿に戻った。しかしヤシロ様はすぐには続かず、私の方を振り向いて微笑む。

狐珀こはく、お前も来てくれるかい? なんとなく、目は多い方が良い気がするんだ」

「畏まりました」

 私が変化へんげを解くと、ヤシロ様が私を抱えてくださった。緋烏は待ちかねたとばかりに飛び立ち、ヤシロ様がふわりと浮いて続く。


 刹那、遠くで烏が大きく鳴いた。

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祈りの千花 翡翠 @Hisui__

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