祈りの千花

翡翠

1-1.濡羽の鬼神

 頭上で烏が鳴いている。幾重もの木の葉が陽を遮って、まだ昼間だというのに足元さえ朧気だ。草木の擦れる音が、もうずっと耳を支配している。風に従って靡く彼らは、余所者の私をどう思っているだろう。

「少なくとも、歓迎されてはいまい」

 独り呟くが、私の声はただ私の足元に落ちるだけだ。烏はまだ鳴いている。お世辞にも綺麗とは言い難いが、彼女の声はよく通る。私はひとつ、己の小ささを知る。

 私には使命がある。この森の奥にあるという祠へ、ヤシロ様の鈴をお届けするのだ。ヤシロ様の切なる願いのため、ヤシロ様の大切な御方をお守りするために。私にとってこれは生まれて初めての使いであり、全てだ。何としてもお届けせねばならない。それまで、私はこの森で生き長らえなければならない。しかし、それでも腹は減る。喉も渇く。一度立ち止まり、竹筒を口元で傾ける。すうっと冷たいものが染みゆくのを感じながら、無意識のうちに食料へ思いを馳せていることに気が付く。この体は、また随分と飢えるのが早いようだ。

 森に入ってから二日ほど歩き続けているが、まだ祠には届かない。あと少しだろうか。それとも、まだ暫く歩くだろうか。歩いても歩いても、視界に入るのは繁った木ばかりで、先らしい先が一向に見えない。こんな調子で、私は間に合うのだろうか。

「――っ!」

 不意に視界が荒れた。今までに無いほどの強風だ。巻き上げられた葉が、私の頬を割いて忽ち消える。まるで怒りだ。これはきっと、森の怒りだ。

「怒りではない。警告だ」

 不意にどこからか聞こえてきたのは、腹の奥底に響く声。その重苦しさたるや、森の全てを沈めて余りあるのではないかと思うほどだ。金縛りにでも遭ったように体が強張り、腕を下ろすことも、顔を上げることもできない。つい先ほど潤ったばかりの喉が、もう渇いて張り付いている。声が出せない。息ができない。

「ここは人間の来る場所では無い」

 気が付けば、先ほどまで私の耳を覆っていた森の息遣いが、草木の揺れる音がしない。烏の悲鳴も無い。ただ、厳かと言う他には形容し難い大きな声が、異様な静寂の中にポツンと鎮座している。

「悪いことは言わん。はよね」

 立ち去るなどとんでもない。私には、全てを懸けて為さねばならないことがあるのだ。そう言葉にしようにも、体が言うことを聞かない。全身を支配する恐怖にどうにも抗えず、私はただ立ち尽くしている。しかし、このような所でおいそれと逃げ帰るわけにはいかない。私は是が非でも、この役目を果たさねばならない。たとえヤシロ様の元へ還ることが叶わずとも、この鈴だけは――

「っクク……ははははは!」

 パチンという音と同時に、体が急に軽くなるのを感じた。

「え……?」

 その場に崩れ落ちた私に、声の主はカラカラと笑いながら言う。

「悪いな。久々の客だったから、ついからかいたくなった」

 恐る恐る顔を上げる。私の目に、和服姿の若い男が映った。艷やかな黒髪、対象的な白い肌、妖しく光る赤い瞳、筋の通った鼻。整った顔立ちをしているが、特徴的なのはやはり角だろう。額から上に向かって一本、短い角が生えている。この辺りで鬼、しかも黒髪に赤い瞳など、私はお一方しか知らない。

「あ、あなた様は、まさか……」

「早う用件を言え。シロのめいで来たのだろう? お前から澄んだ神力の匂いがする」

「で、では、畏れながら申し上げます――クロハ様」

 私は震える喉を抑えつけるように、突如現れた祠の主の名を呼んだ。

「ヤシロ様より、お願いを言付かって参りました。どうかこれを」

 大切に持っていた小さな鈴を手のひらに乗せ、頭を垂れて差し出す。次の瞬間、音一つ立てることなく、私の手から鈴の感触が消えた。ゆっくりと顔を上げると、クロハ様は目の前に浮かせた鈴をじぃと見つめている。

「なるほど。少し急がねばならん用らしいな」

「はい。実は――」

「行くぞ」

 そう言ってクロハ様はふわりと浮き上がり、左腕を肩の位置まで上げる。そこへ飛んで来た烏が一羽止まった。先ほど鳴いていた個体だろうか。よく見ると目が赤い。

「え、あの」

「説明なら移動中でもできるだろう。しかし……お前遅そうだな」

 そのまま私の方を見て少し考えていたが、すぐに何か思いついたようだった。

「分かった。お前、俺の使い魔になれ」

「クロハ様のですか!? しかし、私は……」

 確かにその方が早く神社に戻れる。そしてそれは他ならぬヤシロ様の助けになる。素直に頷く方が遥かに合理的だ。私はヤシロ様によって生み出された式神であり、ヤシロ様は私の全てだ。ヤシロ様のためになることを何より優先すべきで、クロハ様の提案は願ってもないことのはず。だというのに、私の中の何かがそれを拒んでいる。すぐに頷くことができずにいる。

「ククク、式神は主に似るか」

 怒る素振りがないどころか、クロハ様はむしろ嬉しそうに笑う。脳裏に

『クロは私のことが大好きだからね』

と言った主の笑顔が浮かんだ。

「安心しろ、取って食いやしない。社に着いたら戻してやる」

「……承知いたしました。クロハ様、どうかヤシロ様をお助けください」

 私は頭を下げ、目を閉じてクロハ様の術を受ける。クロハ様はヤシロ様のご友神ゆうじんだ。だからこそ、私は今ここにいる。ヤシロ様が信じるお方の言葉を、私が信じないでどうする。

「もう良いぞ。目を開けてみろ」

 クロハ様の声で私はゆっくりと顔を上げる。視界の中央に出現した己の体の一部を見て、私は自分の姿が完全に変わったことを悟る。

「どうだ? 俺の使い魔になった気分は」

 これなら早くヤシロ様の元へ行けそうです、と返したつもりだったが、「カー」以外の発音ができない。この体は、飛べる代わりに上手く話せないらしい。

「そうか。では、今度こそ行くぞ」

 そう言ってクロハ様が高く飛び上がると、どこからともなく飛来した烏たちで視界が埋まる。私も遅れを取るまいと、めいっぱいに地を蹴り上げた。

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