20240210 もつ煮とペットロス

 透明のビニール袋越しに見える『黒』はやはり存在していた。

 それもモツなのか、もしモツじゃなかったら一体何なのか。昨晩、気になりながらも一切凝視せず冷凍庫から取り出し、今度は冷蔵庫内でじっくり解凍することにした。


 夜の間に、黒くて得体のしれない部位が息を吹き返し、空気に触れたことによる化学反応でぶわっと膨張して冷蔵庫内部が黒でパンパンになっているかもしれなくて。そんな状態とも気付かず私が冷蔵庫の扉を開けてしまったら待ってましたとばかりに黒がぬるっと流れ出てきて、そしたら迷わず手ですくって床に流れるのを防がなきゃいけない。でもそんなことしたら、その手はどうなるの? その手に残った感触は一生消えないよな、たぶん。と、妄想が後を絶たない。

 どういった手順を踏めば一番被害が少ないかを考え、まずは下茹で用に大鍋に入れたたっぷりの水を沸騰させ、そこにモツを速攻でブチ込むことにした。

 あっけなく、成功。

 ひと煮立ちさせたモツをザルにあげて流水で洗いつつ、茹でたことにより変な管が飛び出してしまった黒いヤツを躊躇なく捨て、成敗してやった。

 あとは、煮込んでいる最中の独特の豚臭さがどれ程になるのかという問題を残すだけだ。

 豚骨ラーメン屋さんの前を通っただけで鼻につくあの匂いとか、革製品のなめし工場が集まっているエリアのあの匂いが苦手だ。

 美味しく食べるためにはたくさんの苦労が伴う。

 以前、富豪のような知人とイクラがどれ程美味しいかを語り合っていたら、数日後に生秋サケ1匹をドーンとプレゼントされて血の気が引いたことがある。

 ゴム手袋をして、調理バサミでお腹を切り開き、内臓をどわぁーっと取り出したときはあまりのグロさに気が狂いそうだった。

 自然界のものを食するためには本当に本当に大変な思いをするので、家族のみんなは私に感謝してほしい。


 そんなこんなで最終工程まで済ませたモツは、豚臭さもそれ程気にならず、美味しいモツ煮となった。

 一時はどうなる事かと冷や冷やしたが、安価で様々な部位が混ざり合い、色とりどりなこのモツこそが、本来のモツの姿なのではないかと新たな光が見えた。

 そしてなにより、家族で美味しく食べられて、ついでに夫へのバレンタインデーの任務も果たし、本当に優秀なモツだった。


 *


 モツ煮が美味しすぎたのか、夫が酒に酔い、うなだれながら私に問うてきた。

「俺、今すごくペットロスなんだけど、きりんはペットロスになった事ある?」と。

 戸惑った。

 この人は一体、誰に何を聞いているのだろうかと頭が混乱し、あるに決まってるでしょ! と、声を荒げそうになったが、抑えた。

 自己愛が強い夫には、私や子供たちの心に穴が開きまだ塞がっていない状態だなんて見えもしない。誰よりも一番悲しい思いをしていると思ってる自分のことしか頭にない。

 そんな風に質問の真意を探っていたら淋しさがこみ上げ、少し間をおいてから答えた。

「そうは見えないかも知れないけど、それなりに有るよ」

 私の言葉を受けて、夫の目が大きく見開いた。

 何かに意表を突かれたようなその目は、思った通り、そうは見えていなかったことを裏付けた。

 その目はほんの一瞬だけで終わり、その後はまたうなだれ、そしてぼやいた。

「もう、辛くてたまらないんだよ」

 私から言える言葉はもうない。



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