第36話 無力を痛感する

 今日もボイトレに励むため、事務所の車と護衛の人がやってくるまでに支度を済ませる。浩之は普段玄関で見送りだけするのだが、今日は車まで送っていきたいと駄々をこねる。


「だから、大丈夫だって」


「脅迫文届いてるんだから万が一もあるだろ。今まで我慢してたけど、やっぱり今日は見送りたい」


 なぜだか頑なな浩之を変だなあと思いつつ、支度ができたので一人で玄関先に逝くと、浩之もついてくる。


「あのなあ。俺幼稚園児じゃないんだけど?」

「なんか今日は見送りたい気分なんだって」


 気分でものを語られても。でも、守りたいと思ってもらえるのは純粋に嬉しい。惚れた弱みもあるし、今回だけ同行してもらうとしよう。


「わかった。今回だけな」


「わかってるよ。週刊誌とか、いろいろなんだろ」


「わかってるなら駄々をこねない!」


「それとこれとは別!」


 浩之は笑いながら玄関の扉を開けてくれる。俺はなんだかおかしくって、くすくす笑いながら部屋から出た。後ろから浩之がついてくる気配がする。


 階段を下りて昼間はいつも開け放たれている門を見たとき、俺は驚いた。


 あの人の夫、つまり父さんがそこに立っていたのだ。珍しい。いくら休みだと言っても、今まで関わろうとしたことなんてほとんどなかったのに。


 だが俺は視線を落として、そこに握られていたものにぞっとする。刃渡りの短い小さい、しかし鋭く銀色に光るナイフだった。


「おっさん。誰だか知らないけど瑛太はやらせないよ」


 浩之が威嚇する。父さんはぐらりと体を前に倒すと、ナイフを握った手と空いた手で顔を覆った。


「瑛太ぁ。お前が出ていってから、家はめちゃくちゃだ。あいつは抜け殻のようになって家事もろくにしないし、俺も仕事をミスしてクビになっちまった。全部、そう全部、お前のせいなんだ!」


「うるせーよ。そんなの瑛太には関係ない。そもそも瑛太の稼ぎに期待したお前らが悪いんだろ。気持ち悪いんだよ、そういうの!」


 我慢ならんといった様子で浩之が叫ぶ。その人の逆鱗に触れたようで、額に青筋が走る。


「気持ち悪いだと? 愛情をかけてやったのに、裏切ったのは瑛太だ。うちでは無理だったメジャーデビューなんか果たして、好調で。全部奪っていったくせに。事務所に脅迫状を送ってからここを調べ上げるのには苦労したよ。最近の探偵はすごいな。なんでも調べてくれる」


 俺はその言葉に再びぞっとした。


 探偵まで雇って俺の近辺を嗅ぎまわっていたのか。プロのやり方だ、気付けるはずがない。警察も動いてくれていると時田さんは言っていたが、なかなか尻尾を掴めなかったのはそういうことか。


「……おっさんさ、本気で気持ち悪いよ? どうしてそこまでして瑛太を憎むんだよ。瑛太は何もしてないだろ」


「瑛太は俺の息子だ。それをどうしようと勝手だろう。俺たち夫婦のために死んでもらって、そして俺たちも死ぬ!」


「自分たちのエゴに瑛太を付き合わせるんじゃねえ! 瑛太は、瑛太はお前らのせいで苦労して……!」


 何が起こっているのかわからないが、とにかく俺は身の危険にあるということだけは一瞬で理解した。スマホを開き、時田さんに連絡しようとしたとき、その人がさせないとばかりに直線で走ってきた。浩之が、俺を庇ったまま。


 どす、と鈍い音がする。俺が顔を上げると、浩之の腹を刺したその人と、痛みに耐えてそれでも俺を守ろうとする浩之の姿が目に入った。ぽた、と地面に浩之の血が一滴落ちて弾けた。


「う……あああああ!」


 俺はスマホを握りしめたまま声をあげた。その人はナイフを抜いて俺を刺そうとするが、浩之がその腕を握りしめて離さない。


「させねーって、言ってる、だろ」


「ちくしょう! 離せ! 離せよ! こいつを殺させろ!」


「瑛太殺されるくらいなら、俺が犠牲になったほうがまだマシだ」


「浩之! もういいから! 早くしないと、血が……!」


 俺を守ってくれたことに感謝するとか、どうして庇ってしまったんだとかは口からは出なかった。ただ、浩之が刺されたという事実だけが頭を支配して俺は動くこともできなかった。


 その人は必死にナイフを抜こうとするが、浩之の力にはかなわないのかびくともしない。


「……瑛太は、お前らのせいで苦しんだんだ。傷ついたんだ。誰も守ってくれなかったんだ。だからおれが、瑛太を守る」


「浩之……!」


 俺が叫んでも、浩之は振り返らなかった。その人を抑えるので精いっぱいといった様子で、血の量もだんだんと増えてきている。


 その時、見慣れた車がアパート前に止まった。事務所の車だ。


 中にいた護衛と時田さん、運転手さんが中から慌てた様子で出てくる。護衛の人が素早く動いてその人を押さえつけ、ナイフから手を離させるとあっという間に右腕を後ろに回して地面に押さえつける。


「離せ! 瑛太を、瑛太を殺させろ!」


「うるさい、黙れ!」


「少年!」


 運転手さんもめちゃくちゃに暴れる男を抑えるのに協力してくれる中、時田さんが走り寄ってくる。


「藤原さん、これは? この男性は一体……。それに、どうして少年が刺されてるんだ」


 時田さんが来たのを見てほっとしたのか、瑛太がやがて苦しそうにし始めてうずくまる。それを見た時田さんは瞬時に状況を理解したのか、スマホを取り出してどこかに電話をし始めた。


「もしもし。……はい、救急です。救急車を一台と、窓口は違うと思いますが警察を呼んでください。はい。住所は……」


 時田さんはつらそうにする浩之の背中をさすりながら住所を述べ、何個か質問に答えて電話を切った。


「藤原さん、もう大丈夫だ。あの男が誰なのかだけ教えてくれるかい?」


「父さん、だった人です。あの、それよりも浩之が、浩之が……!」


 時田さんは目を見開いた。それでも取り乱すことなく俺の顔を見て言う。


「少年は必ず助ける。今救急車と警察を呼んだから、落ち着くんだ。……くそ。こうなるのを避けるためにやっていたことが裏目に出るなんて。少年、大丈夫か。私の声が聞こえるか」


 浩之は何とかという様子で息を繰り返すだけで、もう答える元気もないようだった。


「何の騒ぎだい! ……浩之!?」


 大家さんであるサチエさんの部屋の玄関が開かれ、サチエさんが出てくる。そしてうずくまる浩之を見ると駆け寄ってきた。


「浩之! 浩之! しっかりしなさい!」


「……ばあちゃん、おれ……。瑛太を、まもっ……」


「ああ、ああ。わかったよ。だから喋るんじゃない。……話に聞いてた時田さんかい?」


「はい。お初にお目にかかります。申し訳ありません、我々の管理不十分で浩之くんを守れずに……」


「……こんなこと、いくらでもあった。こんなので、こんなので死ぬタマじゃない。ばあちゃんより先に逝っちまう親不孝があってたまるか」


 サチエさんは時田さんと一緒に浩之の背中を撫でる。


 俺は、何もできなかった。頭が真っ白で、全身が震えて、浩之が刺されて最悪死ぬという事実に打ちのめされるしかない。


 だって、さっきまで子供のように駄々をこねていた浩之が刺されて、今も血が地面に垂れて、その染みは徐々に大きくなっていく。それを見て、俺は浩之のそばに寄り添うことしかできない。


 ああ、こんなことなら産まれてこなければよかった。絶望という黒い感情が、俺の足のつま先からじわじわと上ってきて心を黒く染めるころ、浩之がつらそうにしながらも俺を見た。優しい、目をしていた。


「瑛太。……瑛太は、何も間違ってない。だから……前向いて歩いて。……幸せに……ぐっ」


「浩之!」


 俺が浩之にしがみついたとき、救急車のサイレンとパトカーのサイレンが聞こえてきた。


 その二つはすぐにアパートの前に停まると、担架たんかを持った救急隊員と警察の男性二人がやってきて、救急隊員が浩之を担架に乗せて救急車に連れていく。


 それについていこうとした俺の手首を時田さんが掴んで首を横に振る。


「今日の番組の収録は絶対に外せない。気持ちはわかるけど、助かることを信じて来るんだ」


「そんな! 浩之が、俺のせいで浩之が死んじゃうかもしれないのに!」


「藤原さん!」


 時田さんの怒号が響き渡る。


「藤原さんはもう業界人だ。恋人であろうと、仕事は全うしなければならない。収録が終わったら、病院に向かってもいいから」


「……っ。……わかり、ました」


 浩之が刺されたというのに何もできなかった俺がついていったからといって何かが変わるわけではない。むしろ事態が悪化したとき耐えられない可能性もある。


 俺は溢れそうになる涙をぬぐって、立ち上がった。それを見た時田さんも立ち上がり、俺の肩を安心させるように抱いて車に向かっていく。


 その人は警察二人に押さえつけられてはもう何もできないらしく、長時間拘束されていたのもあって体力がないようだった。パトカーの後部座席に男性警察と一緒に乗せられ、うなだれている。


 護衛の人と運転手の人と一緒に車に乗りこみ、テレビ局へ向かう。


 浩之のことは、心配すぎて収録の間も半分半分上の空だった。それを事情を教えられた司会の人がなんとかカバーしてくれて、俺は新曲の悲恋の曲を歌いあげた。


 涙が出そうになるのをぐっとこらえる。こうなったのも俺のせいだ。だけど、浩之は言った。


『……瑛太は、何も間違ってない』


 その言葉が、今の心の支えだった。


 収録後、共演者へのあいさつと謝罪もそこそこにすぐに時田さんが車を飛ばして病院まで連れて行ってくれた。


 医師が言うには、傷はそこまで深くない。しかし出血がひどいのと大腸を少し傷つけているから面会はしばらく遠慮してほしいと言われた。意識が回復してないのもあるという。


 帰り道、俺は泣いた。久しぶりに、声をあげて泣いた。


 俺が無力なばっかりに、浩之を失いかけた。どうしてあのとき、浩之の前に出ることができなかったのだろう。そうすれば、浩之を守れたのに。また、守られてしまった。


 それから俺は時間があれば病院に通ったが、意識が回復していないということで面会謝絶となっていた。


『前向いて歩いて』


 今でも浩之の声と言葉が鮮明に思い出せる。俺は今日も誰かに歌を届けるために時田さんと一緒にスタジオに入る。


 一か月経っても、浩之の意識は元に戻らないままだ。

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