第32話 日常は日々変化していく

 浩之と、そして周りの人間と笑いあいながら過ごす時間はあっという間で、時はもう5月になっていた。


 休日の昼間は勉強してるか浩之と一緒にゲームしてるかサチエさんに料理を習っているかのどれかだ。


 だが、今俺は緊張してパソコンに繋がれた鍵盤──。キーボードの前に座っているボイストレーナーの人にお辞儀する。


「藤原瑛太です。よろしくお願いします」


「今日はよろしくお願いします。まず、発声からいってみましょうか」


 俺は言われるままにキーボードで出されるキーの音に合わせて声を出す。


 どうしてこんなことになっているのか、少し時をさかのぼる。


 4月末に時田さんが学校にやってきていた。俺がこれからプロデビューを目指してレッスンをするためにたまに学校を休むことがあること、学校側にもその理解を得たいという旨を話して。


 校長先生と担任は顔を見合わせる。校長先生には俺がストリートライブをしていることを伝えていたし、たぶん担任も校長先生経由でストリートライブをしていることは知っている、と思う。


「その、藤原さん。プロデビューするっていうのは、本当なのかい?」


「ああいえ、先ほど話したように今すぐデビューするわけではありません。ここは一般の学校で芸能人が集まる学校ではないですから、理解がほしいのです」


「そうなんですね。藤原さん、そんなすごい子だったとは……」


 羨望せんぼうのまなざしを二人から受けて恥ずかしくなる。俺はそんな大それた存在じゃない。今回のオーディションにたまたま合格しただけだ。


 担任は時田さんに視線を移すと、言葉を続ける。


「でも、親御さんは……?」


「これが、難しいことになっていまして。先日絶縁を申し渡されたとのことなんです」


「えぇっ!? でも、そんな連絡……」


「不誠実な親御さんだと私も思いましたが、藤原さんは高校を卒業したら戸籍を抜くことになっているそうです。ですので、高校にいる間は今まで通り接してあげてください」


 担任がちょっと涙目になって俺を見る。担任が泣いてどうする。


「お話はわかりました。わが校に害がないのであれば藤原さんの処分については考えない方向でいきます。ですが、レッスンをするのはいいのですが、将来売れる保証というのはあるのですか?」


「最初はどこかに勤務しながら音楽番組に出演したりCDや電子販売をしていって、成功すればその会社は退職していただくことになるかと思います。ですので、レッスン面だけでなく就職面でも菅原第一高等学校さんの協力が必要不可欠なのです。お願いできませんか」


 時田さんは膝に肘をつき、その前で手を組んでまっすぐに校長先生を見ている。失礼だが、前のマネージャーになる予定だった人よりだいぶ真摯だ。


「それはもちろん、わが校の生徒が路頭に迷うことのないようにするのが我々の責任ですから。協力は喜んでいたします。藤原さんは、それでいいのかい?」


「はい。……メジャーデビューは、俺の夢でしたから」


「そうか。ならこれ以上何も言うことはありません。藤原さんを、どうかよろしくお願いします」


「僕からもよろしくお願いします。最初はクラスになじめないでいたけれど、最近ようやく笑うようになってくれて……僕としても幸せになってほしいんです。頑張るんだよ、藤原さん」


 ということがあり、今こうして正式に事務所に所属し、シンガーソングライターの卵としてレッスンを受けているというわけだ。


 曲のほうはすでに何曲か聞いてもらっていて、基本は自分で作詞作曲するが時折作詞家の人から提供された曲を歌うという形になった。俺としては、俺自身が作った歌を世の人に聞いてもらえると思うと嬉しい。


「……発声はよく歌ってるだけあって十分ですね。今後は筋トレを交えてより声量と肺活量を伸ばすようにしていきましょう。姿勢がちょっと悪いので、今私が立っているようにして歌ってみてください」


「わかりました」


 女性講師が立った体勢を真似して立ってみると、背中と腹の筋肉が少し痛む。前のデビューの話がなくなってから自分が楽な体勢で歌ってきたから、そこらへんを完全に忘れてしまっている。


 レッスンは二時間程度続き、終了の時刻となった。久しぶりにボイストレーニングを受けたが、やはり大手会社が手配するボイストレーニング講師もレベルが違う。前はそこまであまり厳しく言われたことがなかった。


「今回は初回ということで主に声量と肺活量、テクニックがどれくらいか見せていただきました。まだ粗があるので、一緒にトレーニングして矯正していきましょうね」


「はい、先生」


「では、また次回お会いしましょう。……時田さん、お疲れさまでした。藤原さんもね」


「ありがとうございました。次の予定が決まったらこちらからご連絡いたしますので、お互い都合のいい日にお願いします」


 時田さんは軽く会釈をして、女性講師がトレーニング室から去っていくのを見送った。そして俺に視線を戻して笑いかけてくれる。


「初めてのレッスンなのにすごいね。あの方、厳しい方で有名なんだよ。オーディションに合格した子でも怒鳴られて泣いちゃう子もいる中で、よく頑張ったね」


「いえ、たまたま先生と相性がよかっただけだと思いますよ。それに発声中も細かい癖とか指摘されたし、頑張らないと」


 体の脇で両手を握ってやる気をアピールすると、時田さんは笑った。


「初めて会ったときから思ってたけど、藤原さんはストイックだね。そこがあのとき聞いた歌声を引き出しているのかもしれないね。よし、これからはプロデューサーさんやディレクターさんにあいさつ回りだ。最初が肝心だから、十分気を引き締めるように」


「はい!」


 プロデューサーさんへのあいさつなんて、したことがない。気に入ってもらえるだろうか。


 とあるスタジオに静かに入り、タレントや芸人がバラエティ番組を収録していて、しばらくして休憩に入った。ちょっとしてから筋肉質なスキンヘッドの男性に時田さんは歩いていく。


 俺も慌てて時田さんについていって横に立つと、男性はようやくこちらに気付いたようで時田さんの顔を見てにっこりする。


「ああ、時田くんじゃないか。元気にしてたかい?」


「はい、うちのタレントや歌手がいつもお世話になっております。今、少しだけ大丈夫ですか?」


「いいけど……。おっ、新人かい!? 可愛い子見つけたねえ」


 男性は俺を女と見るや顔を近づけてくる。近いとは思うが、もしプロデューサーさんだったら失礼極まりないということで愛想笑いを浮かべておく。


「TS症候群に罹患りかんしている元男性ですよ」


「うぇっ!? 男!? び、びびびっくりさせるな!」


「すみません」


 申し訳なさそうな顔をしながら、心の仲で唾を吐き出す。元男で悪かったな。


「プロデューサー、大げさですよ。中身は男かもしれませんが、見た目はこのとおり女性なので。あんまりな言動してると前の女優さんみたいにフられちゃいますよ?」


「ぬぐっ。そ、それもそうだな。あー、すまん君。名前は?」


 罪悪感はあるようで、咳ばらいをしてから名前を聞いてくるおっさんプロデューサーに俺は笑顔を浮かべて自己紹介する。


「藤原瑛太です」


「瑛太ちゃんね、了解了解。新人ちゃんかー。何歳?」


「16歳です」


「わっか! 若い! おじさんの二回り以上若い! はあー。この前時田くんに紹介された子、もう今年で30だっけ? 時間が過ぎるのは早いねえ」


 え、時田さん30代前半くらいに見えたけどもしかして40代くらいなの? 人生の大先輩が目の前に二人もいるんだけど。なんか変な汗かいてきた。


「今プロデューサーさんやディレクターさんにあいさつ回りをしているところでして。まずはプロデューサーさんに、と思って」


「時田ちゃーん。わかってるねー、君。弱小芸能事務所にいたときから思ってたけどゴマすりがうまい!」


「そんなわけでは……」


「うっそ。冗談冗談! 本気にしないの! 藤原さん、いい子みたいだからこれからよろしくね。俺の番組に出るときはおみやは甘いもので!」


「プロデューサーさん、どうかこれからよろしくお願いします。ほら、藤原さんも」


 そう言われたので、慌てて直角に頭を下げる。大きな手でぽんぽんと頭を叩いてから、プロデューサーは指示を飛ばしながら舞台のほうへ向かっていく。


「さ、次はディレクターさんのところにいこうか」


「はい」


 俺たちはその場にいたディレクターさん数人と、ついでにADさんにもあいさつをしてスタジオを出た。





■ ■ ■ ■





「……ってことがあってさ」


「なにそのプロデューサー! セクハラじゃん! やっぱり時田さんに頼んで瑛太のボディーガードに……」


「おいおい、本気になるなよ。相手は大人だぞ?」


「瑛太こそ本気になるなよ。冗談冗談!」


 嘘だ。一瞬目が本気だった。


「二人とも本当に仲がいいっていうか、ほんと距離近くなったよねー。ついに付き合いだしたかー?」


 ぎくっ。俺と浩之は同じことを思ったようで、言葉に詰まる。それを見たさおりが、あわわわとお盆を抱いて一歩後ずさる。


「ま、マジ?」


「マジです」


「えっ、本当に付き合ってんの?」


「さおりにだから言うけど、そうです。あ、これ内緒な! おれたちだからの話だから」


 小声で浩之が補足すると、さおりは慌ててお盆を抱いたまま口を押さえてうんうん頷く。さおりは俺たちをからかっているやら、応援しているやら。


「マジかー……。いつか付き合うだろうなって思ってたけど。おめでと! 今度のまかないはどどーんとわたしが奢ってあげよう!」


「だから、声大きいって!」


「あっ、ごめん」


 厨房の人たちがこちらに振り向いたのでひやひやする。厨房には店長がいる。聞かれたら面倒だ。


「とりあえず、あのチョコは義理じゃなくて本命になっちゃったわけね」


「まあ……。結果的にはそうなるのか」


「おれは初めから本命だと思ってたけど」


「うるさい黙れこの変態すけべ」


「……そこまで言うことなくない?」


 見えない耳がへにょーんと下がったのを見て、ふん、と鼻を鳴らしながらも、俺は口を開いた。


「大事にしてくれるなら、まあ、いいけど」


「……! 瑛太ー!」


「店の中で抱き着かない。ルールは守れ」


「もう完全に尻に敷かれてるのね……」


 苦笑するさおりに苦笑を返しながら、しょんぼりしつつできあがった料理を運んでいく浩之の後姿を見ていた。

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