第27話 キス
それから荷物を取り、お母さん同士が話をして俺を預かることと学費の振り込み用の通帳などを預かって、家を後にした。
途中涙が出そうだったけど、暗くなりつつある夕焼け時の空を見ているとこれでよかったのかもしれないと思う。
もう親子ではないのは悲しいけれど、あのまま家にいたら俺の精神が壊れていたし、俺を恨んでいる母さんにとってもよくない。それに、いずれこうなる予感がしていたのだ。泣くな。
ゆっくり走行だったので荷台に乗って荷物が落ちないように押さえていた浩之がアパートに着くなり荷台から降りて荷物を部屋に運んでいく。
浩之の制服とか私服とかは浩之のお母さんがあとから持ってきてくれるらしい。
そうして片づけをしている間に寝なければいけない時間になる。
飯を食う気も作る気もしなかったので風呂に入ってから俺は前の住人が残していった折りたたみ式のベッドで。浩之はお母さんがついでにと持ってきてくれた布団を敷いて寝ることになった。
電気を消して真っ暗になる。二人一緒の部屋で過ごすのは浩之の家に泊ったきりだ。俺はなんだか少し意識してしまって、浩之のほうに寝返りを打って声をかける。
「起きてる?」
「一応ねー」
「なんか……眠れなくて。本当に捨てられちゃったんだなあって……」
少し昔までは想像もしたことのなかった事態。俺は愛されてると信じてやまなかったあの頃に帰りたい。
浩之も寝返りを打ってお互い顔を合わせると、唐突に浩之が布団をめくって隣をぽんぽんと叩く。そこに来いってことだろうか。
普段なら笑って流すか怒ってしょんぼりさせるところなのだが。今の俺は心が弱っている。少しでも人のぬくもりに触れたかった。
俺はベッドから起き上がり、思い切って浩之の隣に入ると、すぐ布団にくるまれて抱きしめられる。
「ちょ、ちょっと!」
「大丈夫。これ以上は何もしないよ。でも瑛太、俺が抱きしめなかったら今にも死んじゃいそうな顔してた」
今はそれに何も言えない。それくらいのメンタルだったからだ。それに、今浩之に抱きしめられて俺は安心している。それが何よりもの証だろう。
程よい強さで抱きしめられて、浩之の体温でぽかぽかの布団に入ったら安心して眠くなってきた。口元を押さえてあくびをすると、浩之は優しい声で言う。
「寝ていいんだよ。明日はライブだろ。そのために体力回復しとかないと」
そうだった。明日は土曜日。学校もバイトもない代わりにライブが入っている。待ってくれてる人のために、今は少しでも回復しなければ。
暖かい。自分の体温ではなくて、他人の体温で安心する日が来るなんて。とろとろに溶けて、気持ちがいい。
そんな俺を見ていた浩之は何か考えているようだったが、ふいに
俺は眠気からすぐに状況が理解できずにいて、そして理解したとたん起き上がろうとしたのを腰を引かれて元の場所に戻された。
「浩之、何して……!」
「ごめん。我慢しようと思ってたんだけど瑛太がかわいすぎて無理だった。口にしなかっただけ褒めてほしいな」
「く、口にって……」
ぼっ、と顔が熱くなる。想像もしてしまって、恥ずかしくてどうにかなりそうだ。
あれ、でもおかしい。普通なら男に額にでもキスをされたら寒気が走るものなのに、恥ずかしいだなんて。いよいよ俺も、母さんに捨てられておかしくなったか。
浩之は相変わらずへにゃへにゃと笑って、俺を抱きしめる手を離さない。暖かいから、いいのだけど。でもこの顔の近さはちょっと問題かもしれない。
「それよりも、顔が近い」
「そりゃ、抱きしめてるからな。大丈夫だって」
「いや、これ以上をされる心配はしてないけど、その……意識、するじゃん」
すると浩之は目を丸くした。そしてくすくすと笑いだす。
「瑛太かわいいなあ」
「な、なんだよ! 誰ともキスしたことないんだよ! そういう浩之はどうなんだ!」
「え、おれ? おれはー……」
「……お前まさか。初めてじゃないとか言うんじゃないだろうな」
にこっと浩之が笑う。なので、俺は浩之のわき腹をつねる。
「いって!」
「この野郎裏切者! 女の子とキスしてるとかずるいぞ! 俺も男のときにキスさせてもらえなかったのに! この変態! 元ヤン!」
「元ヤンは関係なくない?」
浩之の冷静なツッコミに余計にイラついてつねる力を強める。痛がる浩之を見て
ということは、過去に浩之とキスをした女の子がいるというわけだ。どんなキスをしたかまではわからないが、それは純然たる事実で。
嫉妬、してしまう。浩之の唇を初めて奪った女の子が羨ましくなる。俺はまだ勇気がなくてできていないことが、純粋な女の子ならできてしまうのだ。
産まれて初めて純粋な女の子でないことを落胆する。それと同時に、俺の頭に一つの疑問も浮かぶ。
(俺は、浩之とキスしたいのか?)
答えは、NOでもないしYESでもない、というよりどっちかといえばYES寄りだった。浩之とならキスしてみたい。
そう思ってしまった自分がショックでもあり、しっくりくるものもあった。そう、恋とはまだ断定できないがキスだけならしてみたい。どんなふううになるのかも興味があるし。
俺は少しだけ浩之にすり寄って、顔を近づける。お互いの吐息が顔にかかってくすぐったい。
「ちょ、瑛太?」
浩之の顔に焦りが浮かぶ。近づいてくるとは思ってもみなかったのだろう。だから俺はさらに近づいて、至近距離から浩之を見つめる。
「……キス、してみる?」
「は、え?」
俺からキスを持ちかけられて、浩之は据え膳を食うべきか冗談だと断じるべきか悩んでいるらしい。
いつも浩之がリードしていて俺がそれにほだされそうになるという構図から脱出して、俺が優位に立っているのが気持ちよかった。
「一回だけ。この一回だけなら、キスしても、いいよ」
浩之が唾を飲む。浩之からの返答は、柔らかめの唇が俺の唇に重ねられたことで表現される。
触れたのは一瞬で、浩之はすぐ暗がりの中でも赤い顔をして視線を逸らしていた。
「……なんだよ、キスし慣れてるんじゃないのか?」
「本気で好きな子としたのは、初めてだし」
なんだそれ。そんなこと言われたら、心臓がばくばくして止まらなくなってくる。まるで、恋人同士でキスしたみたいな。
「瑛太、かわいいからさ。結構必死でかっこつけてたのに。これじゃ台無しだよ」
「かっこつける必要、ある?」
「煽らないで。……その、襲いたくなっちゃう、から」
襲う。その言葉の意味がわからないわけではない。さすがに今はそれは勘弁願いたいので、次なる言葉は飲みこんだ。
「ほんとに彼女いたんだな」
「昔はね。今は瑛太一筋だから。だから、大事にさせて? 乱暴には、したくないから」
いつもより少し低いトーンの声に腰がびりびりしてくる。もしかしなくても俺、今まで思った以上に大事にされてた?
だとしたら、どうしよう。なんだかときめいてしまう。男にときめいてしまうなんて昔は絶対になかったのに、今俺は浩之にときめきを感じている。
こんなこと、今までありえなかった。二人だけの部屋で、布団を共にして、抱きしめられて。全部の事柄が俺の心に強い刺激を与えてくる。
俺はくらくらしてきて、浩之からようやく少し離れた。このままだといけない。流れに流されて一線を越えてしまいそうだったからだ。
俺の判断は正しかったらしく、浩之はほっとした顔をしていた。ギリギリで耐えていたのだろう。悪いことをした。
「それでさ」
「うん」
「キスの感想は?」
「今までで一番、嬉しかった」
くそ、一回リセットされかけた雰囲気を甘い方向に戻すんじゃない。
「そうかよ。じゃ、俺は寝る! 抱きしめられてると眠れないから、離して」
「あ、ごめん」
俺の一言で少し冷静になった浩之が俺を離してくれる。まったく、今日という日はとんでもない日だった。
来週の水曜日から春休みを迎える俺たちがどんな生活をするのか。二人で暮らすなら加藤店長に給料についての相談もしなくてはならない。そんなことを考えながら、俺は眠りについた。
夢というのは記憶の整理だという。こんな一日だったからか、俺は母さんが俺に優しく笑いかけている夢を見た。
さようなら、苦しい生活。こんにちは、まだ見ぬ、幸福か悲しみかの未来。
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