第28話 オーディションの誘い

「ちょっといいですか」


「はい?」


 ライブが終わってお客さんとの握手も終えて片づけに入ろうとしたとき、きりっとスーツを着こなしたサラリーマン風の男性に声をかけられる。


「あー、握手なら終わっちゃったんですよ。すみません」


 すかさず浩之がいつものへにゃへにゃ笑顔で軽く威嚇しつつ男性に近づくと、男性は胸ポケットから名刺を取り出した。それを見て俺も浩之もびっくりする。


「私、アークスティック芸能事務所の時田誠司ときたせいじ、と申します。TS症候群を乗り越えて人気を得始めている女の子がいると聞いて私も聞かせてもらいましたが……。いい歌声ですね。ハスキーなのに無理がなく聞きやすい。ぜひ、お話させていただきたいのですが」


「え、あ、ありがとうございます」


 どうしてか浩之がお礼を言う。なんでお前がお礼を言うんだよ。


 アークスティック芸能事務所といえば、大手の芸能事務所だ。俺が前関わった芸能事務所とは格が違う。そのぶんいい噂も聞くし悪い噂も聞くので、俺は努めて表情を変えないようにしながら下手に出すぎずに胸を張って対応する。


「TSしたやつってのは俺です。名前は藤原瑛太っていいます。芸能事務所の人に褒められるとは、光栄です」


 一回通った道だ。多少の驚きや嬉しさはあれど警戒して接する。まだ偽物かもしれないし、どういう話かもわからないので浮かれることはできない。


 俺の冷静さに時田さんはちょっと驚いたようだったが。浩之から向き直って俺を正面にとらえると、両手で名刺を差し出した。170後半はあるだろう高身長だから、俺の目線に合わせるのにだいぶかがんでいる。


 俺が名刺を受け取ってそれを見ると、確かにアークスティック営業部と書いてある。紙の厚みや感触からするに、完全に偽物とは言いにくくなったが。


「それで、そんなすごい芸能事務所さんが俺の歌を聞いてどうしたんですか?」


「そんなに警戒なさらないでください。僕は偽物じゃないですし、今回は軽くお話ができればと思っただけなので。どうしても怪しいと思ったら事務所に直接連絡くだされば対応しますので」


 さすがは大手芸能事務所。はるかに年下の相手に強気に出られても大人の対応である。俺は少し警戒を解いて、1割ぐらい時田さんを信用して話す。


「わかりました、信じます。名刺、ありがとうございます」


「いえいえ、少しでも信用してもらえたなら幸いです」


「それで、時田さんは僕をどうしたくて声をかけてくれたんですか?」


 強気な態度は崩さない。下手に出て舐められたらこういうのは負けなのだと母さん──あの人の態度を見て学んだ。


 時田はにっこりとして、革の鞄の中から一枚の申込用紙を取り出した。


 三月末にあるボーカリストオーディション。参加応募はもうすでに期限が切れている。


 わけがわからなくて時田さんを見上げると、偽物に見えるにっこり笑顔で彼は口を開いた。


「あなたという才能を見つけたからには、放置しているわけにはいきません。オーディションは来週ですが、もし受けてくださる場合は僕のほうから審査のほうに声をかけて枠を確保してもらいます。瑛太さんは必ず大型新人になるはずです」


「……ありがとうございます。連絡の期限は?」


「二日前までにはお願いします。今からなら時間がありますから、十分ご検討いただけるはずです」


「わかりました。連絡するかはわかりませんが、名刺とこの申し込み用紙、もらっておきます」


 俺が申込用紙を三つ折りにして名刺をポケットに入れると、時田さんはやはりにっこり笑って直角にお辞儀をした。


「それでは、ご参加お待ちしております」


「ありがとうございます。それじゃあ」


「色よい返事を期待してますよ」


 そう言って、時田さんは俺たちに背を向けて駅のほうに向かっていった。


 時田さんが去ってから浩之が近づいてきて、俺の手を取ってぴょんぴょんする。


「すごいよ瑛太! アークスティックっていえば有名歌手めっちゃ出してるところじゃん! 瑛太の歌に救われた人間としては、当然ですって途中で入っていかなかっただけ褒めてほしいんだけど?」


「営業スマイルだよあんなん。……でも、このオーディション。どうしようかな」


「まさか出ないのか? こんなチャンスめったにないぞ」


「それはわかってるよ」


 だから悩むんだろうが。と俺は心の中で毒づく。


 これは浩之も言うように一大チャンスだ。これを逃したらチャンスなんてそう巡ってくるものではないだろう。


 でも。過去がフラッシュバックする。今はもう性別が固定されているから変わるということはないのだが、それでもそれでメジャーデビューの夢が一度断たれたのは事実なのだ。


 また、女に変わったTS症候群ということで笑われたり、つるし上げられたりしたら。TS症候群はそういうところがある病気だ。歌を聞いて声をかけてくれただけと信じ切るのは無理だ。


 そんなふうに考えているとき、浩之が申込用紙を持っていないほうの手を両手で握った。俺が顔を上げると、そこにはいつものへにゃへにゃとした笑顔の浩之がいる。


「大丈夫。おれもついていくから。あっ、会場じゃないよ。ビル内で待ってる」


「浩之……」


 その申し出が意外で浩之の顔を見ると、へにゃ、と笑った。見えない尻尾がぶんぶんと振られているのが見える気がする。


「瑛太ならきっとできるよ。そうじゃなきゃ、こんなにファンの人が通ってくれたり、最近新しい人が立ち止まってくれたりしないよ。大丈夫。おれが保障する。だめだったら……。おれのこと殴っていいから」


 浩之にここまで言わせて、日和見をしていた自分が恥ずかしくなる。そうだ、こんなチャンスはない。つるし上げをされても、歌でねじ伏せればいい。


 一度は掴んだチャンスなんだ。実力はあると思っていいだろう。あとは、どう審査員を歌で黙らせるかだけだ。


「……ありがとな、浩之。お前のおかげでなんだか頑張れそうだよ」


「ほんと!?」


「嘘ついてどうするんだよ。ほら、コンビニで買い物して帰るぞ」


「あ、待ってよー!」


 後ろから発電機とアンプ二個を手にした浩之が走ってくる。そして隣に立って、前を向いて俺に歩幅を合わせつつ歩き出した。


 オーディションまであと8日。考える時間は6日だ。明日は終業式なので、その後は宿題を速攻で終わらせて作曲してサチエさんに家事を教わりつつ、考えよう。


 前を向いて歩く。今まで俺を縛っていた過去が、少しずつ崩れて体が軽くなっていくのを感じていた。

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