第26話 優しい大家さん

 とりあえずおばあちゃんの家に寄っていくことは浩之のおかあさんにも伝えたところ、こちらは暖かく送り出してくれた。


 自分の息子を彼氏候補に、なんて言うくらいだからこうなることは薄々わかっていたのかもしれない。それにしたって、同棲っていう言い方はよくない。同居だろう。


「同居のほうがいいなら同居にするけど……」


「うっ」


 やめろ、その見捨てられた犬のような目は弱いんだ。というか浩之、わかってやっているだろ。


「ああ、ぜひ同居にしてくれ。それで……これがそのアパート?」


 俺の目の前には、新しくもなく、かといって古くもない中くらいの二階建てアパートがあった。場所は俺の家から一時間ほど歩いたところで、前より学校はむしろ近くなっている。


 すると、階段下のドアが開いた。白髪頭を後ろで一つに結ったおばあさんが出てくる。


 そしてきょろきょろとしたあと、俺と浩之を見つけると走ってきた。


 歓迎してもらえるんだろうか。そう思って握手のために右手を差し出しかけて、おばあさんがジャンプして浩之を蹴飛ばした。


「えっ……?」


 俺はその言葉しか出てこなかった。だって、おばあさんがドロップキックかますなんて誰が想像するだろう? おばあさんは起き上がると痛みで悶えている浩之を見下し、俺を見てからびしっと浩之を指さす。


「あたしゃ前から思ってたよ、浩之。いつか女作ってここに転がりこんでくるだろうってね! そのときは蹴ってやろうと思ってたんだ!」


「いてて……。それにしたってドロップキックは、反則、だろ……」


 相当痛いのか、浩之がやっとゆっくり起き上がる。俺はどうしていいのかわからずおどおどとしていると、おばあさんがにっこり笑顔で親指を立てた。


「お嬢ちゃん、もう大丈夫だよ。浩之になんか騙されないでもっといい男捕まえなさい」


「え、えーっと」


「だから、その子が電話で話した子なんだって」


「……浩之、あんまり嘘つくとばあちゃんもっと怒るよ。こんなかわいい子がお前の彼女になるわけないだろうが!」


「今はまだ親友だから! それに住むところがなかったら、この子路頭に迷っちゃうだろ」


 その言葉に、俺は視線を落とす。


 そう、俺は母さんに捨てられた。もう住むところもないし、落ち着いたら荷物を取りに戻るくらいは許されるだろうが、それ以降はもう会うこともないだろう。


 浩之のおばあちゃんは察したのか、悲しい顔をした。そして少ししわのある暖かい手で俺の頭を撫でてくれた。


「それはつらかったねえ。もう大丈夫だ。おばあちゃんが面倒見てあげるからね」


 俺は、思わず泣きそうになってしまった。言ってもらいたかったことを的確に言われて、最近は涙腺が緩みっぱなしだな、と自分を笑う。


 浩之はうっすら笑顔を浮かべていたが、おばあちゃんのほうを見て言う。


「それで、部屋空いてるの?」


「ちょうど一部屋空いてるよ。それにしても他人と一緒に住むだなんて……。浩之、相当入れこんでるね」


「へへ。恋してますから」


「どこまで本当だか。警察のお世話になっちまったやつは信用してもらえないんだよ」


 おばあちゃんは至極まっとうなことを言うと、アパートに振り返って歩き始めた。俺たちもそれについていく。


 案内された部屋はアパートの二階の一番奥の角部屋だった。好条件に胸をわくわくとさせていると、アパートのドアが開く。


 中は9畳ほどの広めの居間がある代わりに、トイレや風呂は一緒で収納できる場所も少ない。台所は入り口付近に一口コンロと小さな流し台がある程度だ。


 冷蔵庫や食器、空調などは前の住人が置いていったものらしい。そういったものを揃えるとなるとお金がかかるので、素直に助かる。


「……とまあ、間取りと設備についてはこんな感じかね。どうだい、住めそうかい?」


「はい、なんとか……。足りないものはバイト代から少しずつ出して買うので」


「言ってくれれば用意するよ?」


「それは申し訳ないです。捨てられた身で、住むところがこんなに早く見つかるとは思ってなかったので」


 これは本心だ。まずは食を見つけて日雇い労働でお金を貯めて住むところを探して、また新たに職探しをして、と手順を踏まなければいけないのをこうして紹介してもらえる。こんなにありがたいことはない。


 おばあちゃんはふうむ、と言いながら顎をさすっていたが、浩之の背中をわりと強めに叩いて笑った。


「なあに、こいつがなにか悪さしたらすぐ言うんだよ。警察に突き出してやるんだから。本当なら二人一緒に住まわせるってのも心配なのに……」


「浩之はそういう乱暴なことはしないと思います。……たぶん」


「おれ信用されてなさすぎじゃない!? ひどいよー! 背中も痛いしー!」


 浩之がウソ泣きをするのを笑ってから、おばあちゃんに視線を合わせる。


「それで……。お名前と、家賃のほうをお聞きしたいんですけど」


 この構造ならそんなに高くない可能性もあるが、前の住人が残していった設備の準備にいろいろ手間をとらせたぶん家賃も高くなる可能性もある。二人で住むから6万までならなんとか出せそうだが、それ以上は学費などの関係で無理だ。


 おばあちゃんは一瞬難しい顔をしたが、やがてにかっと笑って顔の前で片手を振った。


「やだねえ、将来のある若いもんがそんなこと心配するんじゃないよ。さすがにタダってわけにはいかないけど、月一人一万でどうだい? あと、アタシはサチエさ。よろしくねえ」


 サチエさんはそう言って優しく笑った。


 安すぎる。もう少し取ってもらったほうが良心が痛まないレベルだ。他の利用者はそれ以上の料金を払って住んでいるわけだろうし、自分たちだけ得をするというわけにはいかない。


「あの、さすがに安すぎ……」


「しっ! 隣のやつが聞いてるかもしれないんだ。こういうのは黙って受け取るもんだよ。うちのばあちゃんも母ちゃんにもそう言われて育ってきたんだ」


「……本当に、ありがとうございます」


 サチエさんの厚意に自然とお辞儀が出た。顔を上げると、サチエさんは嬉しそうににこにこわらっている。


「親なしで生活するのは大変だろうけど、頑張るんだよ。重いものとか面倒なことは浩之に押しつければいいし、何か相談があればアタシが乗るからねえ」


「さっきから思ってたけどさ。俺の扱いひどくない?」


 ようやく気付いたらしい浩之の背中をぽんぽんして慰めてから、サチエさんに向き直る。


「これからよろしくお願いします」


「いいってことよ。うちのバカ孫も世話になるみたいだし……。本当に、何かされそうになったら大声あげるんだよ。サチエばあちゃんとの約束だ」


「だから、俺はそんなことしないってば」


「警察常習犯だったボンクラがうるさいんだよ! えーっと」


「瑛太です」


「瑛太ちゃん? 不思議な名前だねえ」


 男の名前なのに見た目が女となれば不思議がるのもおかしくはない。俺は簡単にTS症候群であると告げると、サチエさんは納得した表情をした。


「ははあ、なるほどねえ。それでも女の子になっちゃったことには変わりないんだから、気をつけなさいね」


「ありがとうございます」


「それじゃあ、あと質問あるかい? 光熱費食費は当然自分たち持ちだ。でも、たまにアタシの部屋で鍋を囲もうじゃないか。この年になると友達も病気してあんまり来なくなっちゃってね。寂しいんだ」


 60代後半に見えるサチエさんも苦労しているのかもしれない。いつか絶対メジャーデビューして、サチエさんに恩を返さなければ。そのためには作曲もライブをたくさんして、知名度を上げなくてはならない。


「あのっ、サチエさん!」


「なんだい?」


「絶対、お返ししますから」


「ふふ。がっかりしない程度に期待しておくよ。……浩之、この子に何かあったら承知しないからね」


「わかってるって」


 浩之が肩をすくめると、ふん、と鼻を鳴らしてサチエさんは部屋を出ていった。


 しんと静まり返った室内で、二人で顔を見合わせて笑う。確かに今の体で男と同居するのは心配だ。だけど浩之はそういうことはしないやつだって信じてるし、ハグくらいなら、許してやらなくもない。


「これからよろしく、浩之」


「それはこっちのセリフ。じゃあ、行きたくないけどうちんちに行って車借りて荷物運んじゃおうか。八つ当たりでマイクとかアンプとか壊されてると大変だから」


「……うん」


 母さん。俺は母さんにとって最大の親不孝者で、裏切り者だけど。前に浩之に救われたときに思ったように、やっぱり幸せになりたいよ。


 これからどうなるかはわからない。それでも、前を向いて歩くことの大切さを知ったんだ。それを教えてくれた浩之となら、どこまでだって行ける気がするから。


 今はどん底でも、底だということはこれ以上落ちることはない。頑張れば頑張っただけ上に登っていく。そう、信じるしかない。


 今度は俺のほうから浩之の手を繋いでみる。浩之は驚いた顔をしたが、やがてへにゃ、と笑って握り返してくれた。この暖かさがあるなら、大丈夫。


 部屋に移動している間にもらっていた鍵を使って施錠したあと、浩之はアパートの前に立ってお母さんに電話をし始めた。


 俺はその内容を隣で聞きながら、冷たくなった片手をジャンパーの中に入れて温める。


 電話が終わってしばらくすると、どこかで借りて来たのか軽トラがやってきた。俺自身の荷物はそんなに多くないのだが、制服とか私服とか考えると一応軽トラのほうがいいのかもしれない。


 お母さんが軽トラから降りるなり俺を抱きしめて頭を撫でてくれる。なんでこう、女性は人を見ると抱き着いたり撫でる習性があるのだろう。


 でも、それが今は嬉しい。俺はお母さんの背中に腕を回して、暖かさを受け取った。


 これから始まる新生活に向けて、着々と準備が進みつつあった。

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