それでも確かに
春日井見月は、大人になった。
中学一年生の夏祭りの日、彼に命を救われたから。
見月は海の中で足を踏み外して、海水を飲んでしまった。意識が朦朧としていても、彼が見月を抱えて、死から引き上げてくれたことだけはわかった。
しかし、騒ぎを聞きつけた見月の父は、彼を殴った。
溺れた娘を見ただけで、彼が悪いと決めつけたのだと、人伝いに見月は聞いた。
以降、見月は彼に会わせてもらえなかった。それどころではなく、あっという間に晩柑の香りのする町を後にしなければいけなかった。
次の週末には父が転校の手続きを終わらせ、新学期にはセーラー服をまた変えて、自己紹介から始めた。
それが最後の転校で、見月は大学まで進んだ。教育学部でそのまま教員免許を取得。子どもの相手は性に合っていて、何より好きだったから、見月は小学校の教師になった。
そこから春日井見月は、妻に、母になった。
大学の卒業間近に初めて恋人ができて、四年後に結婚。婚姻の前に妊娠したことを知って、父は夫と見月を揃って殴った。以来、見月が息子を連れて実家に戻っても、父は無理やり現場仕事を入れるようになった。
教師として、妻として、母として。別の自分が作られていくことに戸惑う暇はなかった。目の前のことをやっていれば、一日が終わって眠気が襲ってくる。
明日からも今日だけで手一杯な見月は、それでも確かに生きていた。
この春から小学生になった息子は、初めての夏休みに「海に行きたい」とねだった。そのお願いに、見月はある海の町を指定する。
夫と息子を連れてきた海に、中学一年生の見月がいた。彼女は、妹の供養のためにと向日葵の花と晩柑を投げ、母の後を追うように死のうとした。
十年以上前の僅かな夏を、見月は思い出しにきていた。
海水浴シーズンでも人がまばらで、海水は人肌に温かい。山育ちの夫と海を初めて見る息子は、同じ顔ではしゃいでいる。
「レンタカーなんだから。汚れないでよ」
声を放ってから、見月は空を切り取ったような真新しいレジャーシートを離れる。どうせ夫も息子も、海に夢中で聞いていない。
サンダルに砂が入らないよう、摺り足で歩く。アスファルトを渡って向かう先には、一本の樹。
「やっぱり、高いなぁ」
溜息に混ぜて言う。あの頃と視界が変わるかと思ったけれど、幹の太さも枝の広がりも記憶の中と同じままだった。
見月の背は中学生の頃から数センチしか変わっていない。夫も背が高いわけではないから、息子に遺伝しないよう願うしかない。
「あ」
見ると、他より低い枝に晩柑がふたつも実っていた。その重さのせいで、地面に下がってきているのだろう。
見月は太陽に向けて手を伸ばす。数センチが届かない。あとちょっと、もう一息。見月はその場で跳び続ける。
息が切れてきた時、背中に何かがぶつかった。
落ちたのは、手のひら大の晩柑ひとつ。
アスファルトを挟んで、石段の上に座っている、白いシャツの男性。
彼は仏頂面で、煙草をふかしていた。
背中に流したボロボロの麦わら帽子に、この晩柑を入れていた。それを、見月は知っている。
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