大人になる私

「見月!」


 初めて、浩二は彼女の名前を呼んだ。


 彼女の足が止まった気がしたが、確かめている時間はない。海を掻き分けて、浩二は彼女を抱きしめる。


「行くな! 一人になるな、死ぬな、見月!」

「一人、じゃ、ない」


 彼女は振り返らない。


「お母さんとヒナタは、海の向こうにいるの。行って、謝らなきゃ」


 浩二を引きずって、彼女は一歩進んだ。浩二の体は水に浮いて、踏ん張る足に力がうまく入らない。


「そっちには、誰もおらん」

「生きていても、どうせ二人ともいない」

「……そうじゃけど、でも!」

「殺したから」


 また一歩、彼女が進む。胸まで海に食べられて、波が彼女をぶん殴る。


「もういい」


 よろけた彼女は、唾を飛ばして叫ぶ。


「いやなの! 生理がくる度、私は私を殺したくなる……」


 彼女は両手で顔を覆う。


「大人になって、いいはずない」


 手のひらから落ちる水の中のどれかが彼女の涙だと、浩二にはわかった。


「ヒナタとお母さんの命を奪ったくせに、私なんかが生きていいわけ、ないっ!」


 それから彼女は、喉を潰すようにして泣きじゃくった。


 今までで一番子供らしい姿の彼女は、自分のことを「私」と呼んだ。


 舌足らずの敬語もなくなった。彼女はもう、幼い女の子をしていなかった。


「受け取ったんやろうが、見月」


 すすり泣きに変わってから、浩二は静かに言った。


「奪ってもない、見捨てたんでもない。見月は、二人からもらった」


「違う。ヒナタも、生きたかったのに。お母さんだって、生きてヒナタを見たかったのに。それを私が、全部取り上げて……」


「そんなに思っとってぇ、なして死ねる!」


 浩二は喉を絞って声を出す。


「生きたかった家族を思いながら、生きて、見月がここにいる! ヒナタの分も、母やんの分も! 勝手に終わらす権利があるか!」


 浩二は分かっていた。「人を殺した」なんて、彼女はそれほど大したことをしでかした人間じゃない。


 みんな、誰かを傷つけて、何かを奪っている。


 大人でも気づいていないことを、彼女は思い続けている。人を思って生きることに、これほど真面目な人間を、浩二は彼女以外に知らない。


 自分じゃない誰かを、いつまでも思っていられる彼女だから。


「許さん。自分で自分を終わらせるなんて、オレが許してやらん!」

「…………」


 彼女は止まっている。


「死ななきゃ、いけないと思ってた」

「そんな人間、この世におらん」

「私だけは、そうだって思ったのに。私、生きていいの?」

「生きなきゃ、いけん」

「生きなきゃ、いけない……」


 呟くと、もう彼女は海に進まない。


 今、やっと大人になれた彼女が、すぐ変われるなんて思わない。


 ここから、生き始めればいい。少しだけ遅くても、間に合わないわけじゃない。


 いつか彼女が、人より少しだけ幸せに生きていられるようになれば、それでいい。


「お母さん。ヒナタ。ごめんなさい。ごめんなさい」


 丁寧な口調で謝る彼女はもう、自分を名前では呼ばない。


「大人になる私を、許してください」


 浩二の腕を外して、振り返った瞬間。


 彼女が海に呑まれるように、消えた。

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