「みかんの匂い」


 浩二は、彼女の腕を枕にしてその言葉を聞いた。


 彼女はまた、浩二の前髪に鼻をくっつけている。

 マットの上で体を丸めて、包むように浩二を抱くせいで、目の前に彼女の胸があった。石鹸と彼女の汗が混ざったにおいは、浩二の吐く息にも香っていた。


「……そろそろ、いきます」


 彼女が、浩二から腕をほどいた。


 浩二は、彼女のワンピースを握る。


「もう、だめです」


 横になったまま、彼女は浩二の手を撫でた。力は溶けるようになくなって、彼女を離してしまう。


「さいごまで、ありがとうございました」

「どこ、行く」

「海。です」

「夜は海に行っちゃいけん」

「知っています」

「なら、なして」

「海じゃなきゃいけないから」

「それって」

「…………」


「海に入って、死ぬためか?」

「…………」


 マットから、彼女は体を起こす。浩二も飛び起きようと肘を立てる。


 彼女が、浩二の手首をつかんだ。そのままスカートの中に、浩二の手を入れる。


 彼女の脚の付け根に触れた時、温かい液体が指についた。


「いっ?」


 驚きよりも恐怖から、浩二は力ずくで彼女の手を振りほどいた。


 指にべったりと、黒。


 マットに垂れて、それは濁った赤だとわかった。


「女の人のあそこから、出るんです」


 彼女は恥ずかしがるそぶりも見せなかった。


 ひと月前、彼女の姿が浩二に蘇る。プールサイドの彼女の脚に、紐のような赤色が垂れていた。


「なんで」


 浩二はそれしか言えない。だって、わからないから。男のから、血は出ないのに。なんで、女だけ。


「大人になるからです。ミツキが、大人になっているから、です」


 彼女は吐き捨てた。もう浩二は見ておらず、彼女は自分の胸元を睨みつけていた。


「……ごめんなさい。ちゃんと、洗ってください」


 彼女は立ち上がる。

 ワンピースを叩くと、土ぼこりが舞う。浩二はまだ、動けない。


「さよなら」


 背を向けて歩いていく彼女の尻が一点、ぽつんと赤かった。


 扉の隙間の分だけあかるい倉庫で、浩二は一人だった。


 でも、指は赤かったから、夢なんかじゃない。彼女と二人でいたことも、彼女がいなくなったのも、現実だった。


 ただ指だけ熱い。それは彼女の中から滲んだ血で、彼女だったもので。


 彼女が浩二の隣にいた証だった。


 さいご。うみ。その二つの言葉が、浩二を急かす。


 早くしろ。


 走れグズ。早く!


 早く早く、早く早く早く早く早く!


 彼女を死なせたくないなら、早く!


 祭を蹴散らすように突っ切って、浩二が砂浜に駆け込んだ時、彼女は胸の下まで海の中にいた。

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