土埃の臭いの向こうに
ぼろが祟った体育倉庫は、鍵が使い物になっていない。浩二は、彼女の手を引いて侵入してから、扉を閉めた。
彼女は、グラウンド用のマットに飛び込んだ。
「……ふ、ぐっ」
土ぼこりが狭い場所に充満して、彼女は咳き込む。
「アホ」
言うと、彼女はやはり一瞬だけ眉毛を釣り上げるが、すぐ面倒そうにふにゃりと笑った。
「きて、ください」
彼女は浩二に右手を差し出した。
ピンク色のワンピースが、マットの上に広がっている。左肩の紐はハンコ注射の跡まで落ちていた。
「…………」
浩二は右手に応えない。彼女の横に座ってあぐらをかくと、彼女の右手を自分から握った。
ふっ。
彼女の息が聞こえた。
「ヒナタは、体が弱かったです」
繋がった彼女の右手が蠢く。離してしまいそうだと浩二は慌てたが、彼女は離すどころか、自分の指を浩二の指の間に刺す。
「ミツキと一緒に生まれたのに、ヒナタだけが弱かった。小学校にも通えない、くらい。家にいるより病院にいる方が長い、くらい」
砕いた氷が挟まれているように、彼女の指はどれも冷たい。浩二ばかりが手汗で濡れていて、顔から火が出そうだった。
「ヒナタは、いつでも明るかった。病室で寝ている時も。手術室にごろごろ転がるベッドに乗っていても。機械に繋がれていた時も。いつでも」
浩二は、彼女の手の甲が白くなる程に、強く手を繋ぐ。
「みんな言っていました。お母さんのお腹の中でヒナタは、ミツキに、生きる力を奪い取られたんだ。そうじゃないと、ヒナタが死ななきゃいけなかった理由がない、から」
彼女の手は浩二の熱を吸い取ったのか、今はじわりと暖かい。氷のような冷たさは、もう溶けている。
「ふっ……ぇ、ごほっ」
彼女は浩二の方に寝返りを打った。まだ左の肩紐は外れていて、首の下で骨が浮き上がっているのばかり見えた。
「お母さんは、海が食べちゃいました」
寝転ぶままの彼女は浩二を見上げている。頰がつぶれて、右目だけ細くなっている。
「ヒナタが死んで、お母さんまで、生きる力を無くしてしまいました」
押し出されたように、彼女の右目に涙が浮かんだ。
「お父さんには現場のお仕事があったから、わざと忙しくしていました。家には抜け殻みたいなお母さんと私がいるだけで、うっとうしいから」
彼女の左手がシャツをひっぱる力に、浩二は抵抗しなかった。
せめて埃が立たないよう横になっても、どうしてもむせてしまう。二人で揃って咳をして、彼女は笑った。
「……お父さんはヒナタが好きなんです。暗いミツキより、明るいヒナタの方が」
寝かされた浩二の鼻先に、彼女の喉がある。土埃の臭いの向こうに、石鹸の香りがしていた。
「きっと、お母さんだってそうです。だって、あの時……海に、食べられた時。お母さんはヒナタに会いに行くって言ったから。ミツキがやだって言ったから、お母さんはミツキを残して、海に入って……戻ってきてくれなかった」
彼女は背中を丸める。浩二のつむじに、彼女の鼻がぶつかった。大きく息を吸う彼女と、浩二は手を繋いだままでいた。
「ミツキがお母さんの中にいなければ、ヒナタがミツキの分を生きていたんです。ミツキは、妹を殺しました」
「違う」
浩二が小さく言っても、彼女が気に留めることはなかった。
「一緒に行くってミツキは言わないから、お母さんだけが海に食べられました。ミツキは、母を殺しました」
「そんなわけ、ない」
「ヒナタから生きる力を奪って、お母さんを一人で海に食べさせて、ミツキは生きている。ミツキは今もずっと、人殺しです」
「違う。そんな……!」
「違くない、です」
割れた窓から、赤い光が瞬間的に差し込んだ。
一瞬遅れて、爆発音。
花火が鳴った。
歓声が消えるまでの間に、浩二は手を振り払って、彼女に跨った。
埃臭いマットの上、彼女は覆いかぶさる浩二の首に手をひっかける。
「何をしたいですか?」
口の端を上げるのも重たそうに、彼女はぎこちなく笑った。
それから。
浩二は彼女から距離を無くしたと、思いたかった。
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