見月 日向
八月、蒸し返す暑さはもう日常になった。祭の準備のため学校に駆り出されて、愚痴を垂れることくらいが浩二たちの非日常だった。
「なんじゃぁ、あいつ」
盆踊りの櫓をやっと組み終えて、降りないまま目立ちたがる弘樹が声をあげた。
引き下ろそうとした浩二を見てから、弘樹は海を指差す。
「服着たまんま、海入っとるバカがおるぞぉ!」
櫓から見えたのは、ピンク色のワンピースだった。
「おい!」
急いで校庭から出て、浩二が声を飛ばした。深く、腰まで海に浸かっていた彼女は、呑気に手を振った。
「クラゲ! が、います!」
海の中でただようワンピースはぷかっと広がっている。桃色のドームから足が伸びて、浩二からは海の中の彼女もクラゲのように見えた。
笑ってやりたい。アホでもガキでも、なんだっていいから言ってやりたかった。
「クラゲで、はしゃぐやつがあるかぁ。こん頃になりゃ、海っぺりに転がるもんじゃろが」
後ろからしゃがれた声がしたから、浩二は口を閉じる。弘樹と嘉和が後ろからやってきたのを見ると、彼女の表情は笑ったままに固まった。
クラゲに触ってはいけない。海で育てば、誰かに習うまでもなく知っている。だからか、嘉和は長い犬歯を見せて笑い、彼女に言った。
「捕まえてみぃ! クラゲはノロいけぇ、楽勝やろ!」
「は、はいっ」
ぜんまい仕掛けオモチャのように彼女はうなずいた。手を突っ込んで、海を掻くようにしてクラゲを探す。
「……なんじゃ、あのグズ」
嘉和はもう興味がなくなったのか、彼女に背を向けた。弘樹も後をついていき、そして浩二も、彼女から離れないといけない。
それが男子のルール。ガキ大将の嘉和が決めたわけじゃない。大人も決めていないのに、きっとずっと、従ってきた。
男子は女子に肩入れしちゃいけん。女子は男子の陰口を吐くけぇ。男子と女子は別の生き物じゃけぇ。
男子が二人以上いるからには、ルールを破っちゃいけん。
さっさと海から離れな、いけん。
「い、たいっ」
わかっていたのに、浩二は振り返った。
弘樹の声は聞こえないふりをして、浩二は靴も脱がずに海へ入る。海を両手で外に掻き出すようにしたら、早く彼女にたどり着くと思った。
「見せぇ! こがくなよ、絶対!」
浩二は彼女の手首をつかむ。彼女は腕を抑えていたから、刺された場所はすぐわかった。下手に引っ掻いたせいで、血が出ている。
浩二は彼女の腕に噛みついた。歯を立てるとすぐ、骨。肘に大きなほくろがあるのが、なぜか目に止まった。
とろ、と、傷口から浩二の口に液体が流れてくる。クラゲの毒も少し入っているが、そのほとんどは血で、十円玉の味がした。
浩二は口の中のものを海に吐き出す。彼女は対照的に、ただぼんやりと必死な浩二を見つめていた。
*
「帰る前にまた海水で洗え。腫れるけぇ、膨らんだとこに酢でも塗りゃ、ちったぁよくなる」
浩二のすぐ右で、彼女は「はい」と弱々しく答えた。
陽の光に熱せられた石段に座っていても、ズボンも靴下もまだ乾かない。濡れた服の気持ち悪さにも慣れてきた時、彼女が立ち上がった。
「クラゲって、漢字で、海の月って書くんです」
「……そりゃ、知らんかった」
「ミツキと漢字で、一個違いです」
彼女のワンピースも、腰から下の色が変わっている。クラゲに見えたスカートは腹と脚にべったりまとわりついて、今は海藻のようだった。
「ミツキはもともと、クラゲになる予定だったんです」
「はぁ?」
「お母さんが、教えてくれました。海の月って書いて、ミツキっていう読み方もできるから」
彼女はしゃがんで、砂浜に文字を書く。
「お母さんのお腹にヒナタもいるってわかってから、漢字を変えたんです」
「そいつ……ヒナタは、お前の姉やん、か?」
浩二は彼女の帽子の刺繍を思い出して、尋ねる。
彼女は首を左右に一回ずつ動かした。
「ミツキの方が二分だけ、お姉ちゃんです」
見月
日向
砂にふたつの名前を並べて、彼女は浩二に振り返る。
「お月さまを見るミツキと、お日さまに向かうヒナタ。双子なのに、反対です」
浩二と目が合ったからか、彼女は口元を無理やり横に引っ張って、笑ってみせる。
「ミツキは暗くて、ヒナタは明るい。ミツキは家で本を読むのが好きで、ヒナタは外で鬼ごっこするのが好き。ミツキはお魚が好きで、ヒナタはお肉が好き。全部、逆でした」
彼女は口元をだらしなく広げたまま続ける。
「ヒナタがやりたかったことを、ミツキは全部できました。鬼ごっこもできたし、ハンバーグも食べられた。そんなお姉ちゃん……ミツキだったら、嫌いです」
「ヒナタが、そう言ったか?」
彼女はゆらゆらと立ち上がる。
「言ってくれたらよかったです。ミツキは、ヒナタにちゃんと、嫌いって言ってほしかった」
浩二も立って、海水を吸った靴をがぽがぽ鳴らして横に並ぶ。彼女が息を吸った時、腹がぷくっと膨らんだ。
「ヒナタは、ずっと大人に囲まれて、機械につながれたまま」
日の光に、目を細める。
「いなくなっちゃいました」
その時の彼女が、浩二には笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「…………」
彼女は特別に高い声で、歌を口ずさむ。
「くぅらげさんの、くぅらげさんの」
のぉ。ほんっに、クラゲを見つけただけだったか?
「さんぽだよ、さんぽだよ」
いくらドンくさいって言ったって、服脱ぐのを忘れはせんじゃろ。
「なぁみにゆられてふわり、ふわり」
なんで、服のまま海に入ったりしたんな?
「いちんちのんびり、ふぅわり、ふわり」
もしオレが声かけなかったら、あんた、あのまま……。
浩二は、彼女の左手を握った。彼女がまた海に入っていったら、もう戻ってこないと思ったから。
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