べちゃべちゃになった黄色と黒
かかかかかかかか。
扇風機は小刻みに首を鳴らす。垂れ流されている高校野球の勝敗よりも音の方が気になり始めたから、浩二は寝っ転んだままテレビを消した。
聞こえてくるのは扇風機とセミと、母の声。
「あんた、ミツキちゃんやんなぁ! カズミと仲良ぉしてくれて、ありがとねぇ!」
浩二は腹に力を入れて、体を起こす。
「学校のプールじゃったか、今日は! ごめんね、ウチん子、ちょうどお使い行ってまったんよぉ。暑いけぇね! 涼んで待ちゃええが!」
突然頭を持ち上げたからか、頭に血が上って、首から胸までが瞬間的に熱くなる。一度だけめまいがした。
開きっぱなしの襖からおさげが見えた時には、もう世界は揺れてない。
「こんにちはっ」
夏用のセーラー服で、いつものピンクのヘアゴムで、彼女が家にいる。
体の前に持ってきた水泳カバンの布名札には、ふにゃついた字が並んでいた。
『春日井見月』
「かすがい、ミツキ、と申します」
浩二が真っ先に名札を見たからか、彼女は改まって名乗った。彼女の苗字、漢字を、浩二は初めて知った。
「ウチのちっちゃい方。小学校じゃけぇ、校舎はおんなしでも会わんよねぇ」
彼女の背中を押した母はへらへらしながら言って、彼女は曖昧にうなずいた。
その時、浩二はなぜか嬉しくなった。彼女と会ったことが、少なくとも母に知られていないことに、喉を鳴らして笑いたくなった。
「ほら! 姉やんの友達に冷たいもんでも出してあげぇ! 気ぃきかんね、ほんっに……」
そんな小言に従うくらいに、浩二の機嫌は良い。来客用のコップを引っ張り出して、麦茶を注いでから、台所の晩柑に目が止まる。
暑さのせいで一部が青タンみたいになった、腐りかかった晩柑。捨てられるだけのものを、片方の手でつかんだ。
浩二が戻ると、彼女は図々しく扇風機の前に陣取っていた。前髪が風に持って行かれ、デコをさらした彼女は「あ、あー……あぁー……」と、扇風機に鼻がくっつく距離で平たく声を出していた。彼女の声は羽にぶった切られて、点線みたいになって聞こえてくる。
「ガキ」
言うと、彼女は目をぱっと開いた。一瞬だけ眉を吊り上げたように見えたが、すぐに耳を赤くしてうつむいた。
扇風機に当たりたいから。自分で自分に言い訳をして、浩二は彼女の隣に座った。
「ん」
麦茶を机に置いて、晩柑を彼女の太ももに投げる。
「……このみかん、ちょっと青いです」
彼女はさっそく、青黒く変色した部分をつっつく。不快なはずの感触で、ぐじゅっと爪が沈んでいる。
「青い方がうめぇから」
バカげたことだと思ったが、浩二の言葉に彼女は口をぽっかり丸くした。
「知らなかった、です!」
彼女はそして、晩柑の底に親指を突っ込んだ。内側からめくり上げて、実が裸にされていく。汁に浸ってべたついた指を、彼女は自分で咥えた。
固まりから一房、彼女はよりによって黒々としたものをもいで、口に放り込んだ。
「えぅ……!」
口をすぼめて、すぐさま右手で口を押さえる。喉が二回、上下した。
浩二はゴミ箱を引っ張ってきて、彼女の前に置いてやった。
「出しゃえぇ、ここに」
彼女は首を横に振った。せっかく出されたものだから、なんて言いたげだった。
ぐぅっ。彼女の喉が大きく鳴った。彼女は、頭では飲み込もうとして、でも舌や喉がどうしても受けつけないのだろう。
「あとで、腹ぁ下すぞ」
浩二は他人事のように言って、涙目の彼女をただ見ていた。
とうとう彼女は、晩柑の実を口から吐き出した。酸味と苦味に唾が絞り出されて、べちゃべちゃになった黄色と黒の物体を左手に乗せる。ねばりけの強い唾は、口から伝って手のひらに滴り、やけに透明だった。
左手のは飲み込めなかっただけの、汚いもの。
汚くって、浩二には輝いて見えた。
「ごえん、なひゃい」
スカートのポッケから、ティッシュを出した。左手の上のものをさっと包んで、両目と鼻を雑に拭く。
彼女は急いで、口の周りを新しいティッシュでぬぐった。
痺れた舌先を短く出して、口の端にはまだ泡が残っている。
だから。
浩二は、彼女のくちびるをついばんだ。
ふと見えた舌が、血のように赤かったから。
拭き取られなかった泡が、光っていたから。
言い訳にもならない理由は、後から浮かぶ。
下のくちびるをはさむようにしたから、浩二の上のくちびるに彼女の歯が当たった。
湿った脱脂綿に血が通ったような柔らかさと、ゴムを噛んだ時みたいなはねっかえりは一瞬で。
彼女のくちびるは塩辛かった。
*
「ミツキちゃん、えっどぉ待たせたねぇ!」
それから5分もしないで、一美が居間に駆け込んできた。
「ごめんねぇ! 今日、帰りにジュースおごるけぇ、ね!」
「全然待ってない、ですよ」
立ち上がる彼女が浩二といたところを見て、一美は唾を飛ばしてくる。
「あんたぁ、ミツキちゃんいじめったら、ブチくらわすけぇの」
もともと浩二の反論なんて聞く気もない一美は、彼女の腕をつかんで出て行った。
聞こえてくるのは、扇風機とセミの声だけ。
彼女がいたところに、丸まったティッシュが転がっている。湿っていたはずが、日光にさらされたからか、もう乾いている。
浩二の頭の中に、いつの間にか口を離した彼女が蘇る。
*
浩二からくちびるを離す。ふたりの唾が糸を引いて、畳に溢れる。
「キス、なんて、初めてです」
彼女の開いたままの口から、声がこぼれる。
「大人になった、みたい」
スカートをつまむ手に、力がこもる。
うつむく彼女は一言、謝った。
「お母さん。ヒナタ。ごめんなさい」
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