髪の毛から、みかんの匂い

 動かなくなった彼女の隣に腰を下ろしてから、二時間はとうに過ぎていた。


「い、くじゅっ」


 浩二が砂に書いたウンコから顔を上げると、彼女は肩を自分で抱いていた。


「寒い、です」

「もうすぐ、日が沈むけぇ。夏でも夜は冷えらぁ」

「海の近くって、夏はずっと暑いって思ってました」

「アホ」


 これが、やっと今日十回目の声のキャッチボール。自分への苛立ちを、浩二は砂を掻きむしって誤魔化した。


「寒い。寒い……です」

「やめぇ、それ。聞いてるこっちが凍えるやろが」

「でも、寒いのは変わらないです」


 言いながら、彼女は少しでも熱を生み出そうと、潮風に当たる肌を擦っている。


 彼女はピンクのワンピース。肩紐にまで余計な飾りのある、都会の、品のいいやつ。


 浩二はその向こう、彼女の腋を覗いていた。


 肩の裏側の、柔らかくって人に触られるとこそばゆいところ。父のは毛がぼうぼうで、姉のはツンと甘ったるい匂いがする、そんなところ。


 浩二は目が離せなかった。ピンクと赤とオレンジのちょうど間の色をして、二本、三本、肉が折りたたまれてできたシワがある。腕に隠れているが、その線は彼女の中心に向かっている。


 くすぐりたい。

 なぞりたい。

 触りたい。


 一瞬で、そんな気持ちが目の裏になだれ込んだ。


「肩に虫でも、ついていますか?」


 彼女が浩二に向き直ったから、腋はもう見えなくなった。


 今、彼女の目は見られない。麦わら帽子を被り直して、顔を隠す。


「帰る」


 情けなくても逃げたかった。また、臍の下が熱っぽい。


「あ、ミツキも……」


 後ろでもたもたしている彼女を、振り返らない。

 それでも、彼女がまたコケた音をさせるから、立ち止まらないわけにいかなくなる。


「あ、あ!」


 弱々しく声を出されて、駆け寄らないといけなくなった。


「どがぁした」


 砂の上で彼女は唇を引き結んでいる。内股で座り、足紐が外れたサンダルの片方を持ち上げた。


「−−−−ほんっに、ドンくさいの」

「ごめんなさい」


 背中に彼女を負ぶって、浩二は海沿いを歩いていく。


 壊れたサンダルと晩柑を持った両手。サンダルが引っかかっている左足と、裸足のままの右足。浩二の見ている世界に、ずっと彼女が存在している。


 浩二はゆっくり彼女の家へと向かう。


「みかん」


 歩道に灯りがつき始めてから、彼女が言った。


「まだ足りんか。海に投げ捨てたくせに」

「違います!」


 強く反論したせいで、浩二と彼女の体がバランスを崩す。小さくジャンプして、位置を戻す。


「髪の毛から、みかんの匂いがします」

「……麦わらに入れらぁ、匂いもひっつく。洗っても落ちん」

「いいなぁ。いい匂い」


 大きく息を吸う彼女のおさげ髪が、風に乗って浩二の顔までやってくる。


「のぉ」


 何気ないおしゃべりとして、浩二は言う。十数回目の、なんでもない会話のつもりで。


「ヒナタってのは、都会の友達か?」


 ひくっと、彼女が小さく震えた。腿と胸が浩二と擦れる。


「麦わらに名前、あった。えらく高そうなやつじゃろ、あんなの……」


 浩二の言葉を遮って彼女は、言った。


「ねぇ。人、殺したことがありますか?」


 負ぶさる彼女の息と声は耳の後ろをくすぐって、顎まで流れてきた。拭っても振るい落としても、汗のようには垂れていかない。


「私は、あります。二人も」


 ふっ。


 と、息を吐く音が聞こえて、浩二は自分が止まっていることに気づいた。次に出すのがどちらの足か、わからなかった。


 浩二がよろめくと、彼女は強くしがみつく。やんわりと首を締める腕も、薄っぺらくも熱っぽい腹も密着した。


 それでも、体の芯が冷えきっていて、浩二はひどく寒かった。

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