言葉が跳ねた

 七月二十日、木曜日、晴れ。早く這い上がってきたセミが、もう鳴き始めている。背後からきゃんきゃんと楽しげな声がすると、浩二もようやく苛ついた。


 プール開きは、間違いなく今日。だが、同じ時間に体育をやる中学一年に使われることがわかったのも今日だった。


 家から海パンを履いてきた、と朝から言い回っていた弘樹は、机を蹴って喚き出した。弘樹が言うには、プール掃除に駆り出された自分たちに最初の使用権がある、らしい。


「カエルの池からプールに変えてやったんは、オレらぁぞ!」


 とうとう嘉和が担任に食ってかかり、荒れるクラスの中で浩二は、彼女はカエルなんか触れないだろう、なんてことを考えていた。


 担任が男子の要望をのんで、種目がマット運動から野球に変わっただけでもカクメイだった。使い古しのグローブは、泥水と汗に浸して乾燥させた臭いがする。


「だからやりとぉないねん」


 五年も女子も混ぜた野球で、外野なんて飾りでしかない。嘉和たちが憂さ晴らしをしている内野からずっと遠くて、プールサイドには一番近いレフトに、浩二は陣取った。


 浩二が首の関節を鳴らした時、プールサイドに現れたのが彼女だった。


「あっ」


 緑の網目のフェンスの向こうに、彼女は立っている。浩二と目が合ってから、彼女はピンク色のタオルで体を隠した。


 焦って前を向いた浩二だったが、二、三歩下がってプールに近づき、声を放り投げる。


「さぼり、け?」

「さぼり、です」

「いい身分やな、オレらの時間を潰しとるのに」

「ごめんなさい」

「謝れなんて、言っちゃぁせん」

「……ごめんなさい」

「だから、謝るなって言っとぉが」

「制服」

「あ?」

「海で濡らしたの、お父さんに怒られました。ムダに洗濯物増やすな、って」

「−−−−それは、あぁ」

「げんこつ、痛かったです」

「知らん」

「ちょっとだけ、熱、出ました」

「……、悪かった、の」

「じゃあっ」


 彼女の言葉が跳ねた。浩二は振り返る。


 タオルを落として、両手でフェンスを掴んでいる彼女は、浩二を見下ろしていた。剥き出しの鎖骨から下へ、なだらかに膨らむ胸を長く見てはいけない気がした。


「あの、真っ黄色のみかん。また、食べたいです」


 彼女が、浩二だけに言った。


 浩二はグローブで口元を隠す。喉の奥が、心地良く痒くなった。


 許してほしけりゃあ取ってこいってか。えっどぉ性格わりぃのぉ。そんなことを、笑いながら言いたかった。


 しかし、彼女の脚に目が止まった。


 水着の紺色と比べて目立つ、紅色。水着の股から膝にかけて、紐のように垂れていた。


「……汚ったないの、脚」


 浩二の口を突いた言葉に、彼女は一瞬固まった。

 その場にしゃがみ込んで、声を震わせる。


「ごめんなさい」

「あ?」

「きたなく、て、ごめんなさい」

「謝るなって、さっきも言っとぉが」


 なるべく柔らかく言ったつもりだが、ちょうど守備が終わってしまう。ベンチに戻る最中、彼女が自分の脚を乱暴に拭いていた。


 次の守備には、彼女の姿はもうなくなっていた。

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