海を蹴飛ばす音

 浩二の姉の一美かずみは、家で彼女の名前ばかり口にするようになった。


 姉が「ぼやぼやしとるトロくさい都会モン」とからかっていたのは、彼女が転入した日の夜だけだった。席が隣になって、彼女は姉について回るようになったらしい。


 例えば、テストで彼女だけが百点満点をとったことや、彼女が給食で牛乳をこぼしたこと。姉は浩二の知らない彼女を得意そうに話す。


「どうせおるんやったら、ミツキちゃんみたぁな妹がえかったわ」


 これが最近の姉の口癖だった。聞く度、浩二は姉の脛を蹴っ飛ばす。


「どうでもえぇ」


 彼女のことを誰に聞かれるでもないのに、浩二は自分に強がった。


 興味ない。全くない。そう言っていられたのは、校門向かいの石段にローファーと靴下を見つけるまでだった。


 彼女が海に立っていた。スカートをたくし上げて、踝を海に浸す彼女は、手首に二本のヘアゴムを巻いて、おさげ髪を解いている。


「何しとぉが」


 浩二が声をかける。


「あったかいんですね。海って」


 意味の通らない返答をする彼女は、ぱちゃぱちゃ海を蹴っていた。


「ミツキは知りませんでした。今まで海がこんなに近くにあったこと、なくて」

「えぇことなんて、ありゃせん。秋にもなりゃ、潮風は寒くてにおうけぇ」


 浩二は唾と一緒にそう吐き捨てた。彼女は「そうなんですか?」なんて眉を寄せる。顔のパーツが細かく動く様子が腹話術の人形のようで、浩二には面白かった。


 ここの前はどこにおった? もうここは慣れたか? なして自分を名前で呼ぶんね?

 彼女に聞きたいことはいっぱいあるのに、言葉は喉に引っかかる。


「海、好きか?」


 挙句、浩二はそんなことを聞いた。砂に俯向くと、彼女の声がする。


「好きです、海」


 また、海を蹴飛ばす音が聞こえる。


「お母さんが最後に連れてきてくれたのが、海だったので」


 さいご。さりげない三文字が、浩二の耳にはいやに残った。


「あの」


 砂から見上げると、浩二の正面に彼女がいる。どうしてか彼女は、泣きそうな顔をしていた。


「お母さんのお腹の中って、この海くらい、あったかいのでしょうか」


 海の中の彼女を前に、浩二はしばらく動けなかった。


 背が低くって、舌ったらずで、ひとつ年上なのが不思議なくらいの「女の子」だったはずなのに、彼女は、浩二よりずっと年上の「女性」に見えた。


「わっ」


 波が彼女を浜辺へ押し返し、スカートの裾に斑点ができた。手を伸ばせば触れる距離の彼女から、浩二に石鹸の匂いが届く。


 思うより先に体が動いた。浩二は砂を蹴り上げて、そのまま彼女にぶちまけた。


 彼女が仰け反った先は、海。


「……あー……」


 紺色のセーラー服は、海に沈むと黒ずんで彼女にへばりつく。肩や膝の形が服の上から見て取れた時、浩二は、臍から下が急に熱っぽくなった。


 髪の毛まで濡らして、ぼぅっと座っている彼女をそのままに、浩二は走った。学校から一直線に家まで、息も絶え絶えにたどり着く。


 縁側から家に転がり込むと、浩二は勝手口に向けて「風呂ぉ入る」と、それだけ言った。


「まだ沸いちゃぁせん! 外で砂っこぉ落としてから入りぃ!」


 母の声なんて聞かず、浩二は砂を撒きながら廊下に服を脱ぎ散らかす。


 風呂場で、檸檬の形の石鹸を握る。鼻に押し付けて息を吸い込むと、浩二は痛みがする程に勃起をした。

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