第20話

 星斗と紅太郎が莉子に会いに行った翌日の日曜日のこと。ひよりは雪花の家に来ていた。三年で自由登校が多くなった雪花は寮の部屋を引き払って家から通っている。


「それで教えてあげたの?」

「まぁ……星斗君が頭下げて頼むなんてよっぽどじゃないですか。断れないですよ」


 ひよりは例によって雪花の淹れたいい香りの紅茶に束の間の安らぎを得て言った。雪花は勉強している手を止めておかしそうに笑う。


「ふふ、優しいのね」

「優しいっていうか……そもそもわたしたちのコミュニケーション不足が招いたことなんで。星斗君のせいだけじゃないし……」


 ひよりは昨日の出来事を思い出してため息をついた。アパートでスケジュール調整をしていたところに紅太郎から連絡が入り、今から星斗と向かうと言われた。ひよりは夕方からバイトが入っていると言ったが少しでも話がしたいと言って、その一時間後には二人が着いていた。


 最寄り駅から走ってきたのか元陸上部の紅太郎が平気そうな顔をしていているのに対し、星斗は肩で息をしていた。


「教えてほしい。俺のどこが悪かったのか」


 星斗は青い顔で開口一番に言った。ひよりは思わず紅太郎と顔を見合せる。


「同じことを聞かれて……俺なりに答えたりしたんだけど、ひよりさんにも聞きに行くって聞かなくて」

「だって紅太郎と同じとは限らないだろ」


 紅太郎は呆れたように苦笑していたが、その顔に安堵の色がありありと浮かんでいる。昨日、準備会で立ち尽くしていた紅太郎とは別人のようだった。ひよりもつられるように笑い、玄関先で言った。


「仕方ないなぁ。ちょっと待って」

「早くしろよ。時間がない」


 ひよりが星斗にほだされかけたのは一瞬で、えらそうな態度にイラっとしながら、外へ出て話をした。その後、ひよりが莉子に連絡をとり夜には二人で会いにいったようだ。

 ともかく、土曜日の一日で事態は百八十度変わった。ひよりはバイト終わりに雪花に泣きつき、今こうして相談にきている。


「ふふふ、大変じゃない」


 ひよりの身振り手振りを加えた話がツボに入ったのか、雪花は長い間声を殺して笑っていた。受験勉強の手を止めたことは申し訳ないが、笑い話にでもしないとやっていられなかった。


「大変ですよ~……」


 星斗が卒業制作を辞退するとなると再度脚本のオーディションをするか、あるいは前回ノミネートしていた作品を繰り上げで採用するかという問題がまず立ちはだかる。当然、決まっていた配役も最初からやり直しだ。


「私たちの代も波乱続きだったけど……あなたたちもたいがいね」

「雪花先輩、なんでそんな楽しそうなんですか」


 三年生はすでに卒業制作の撮影は終えて、編集作業に入っているそうだ。雪花は元準備会の会長として全ての工程に関わっているはずで、同時に受験勉強もしなければならない。忙しさはひよりの比ではないはずなのに、この余裕はなんだろう。


「ごめんなさい。私の見込んだ通りだなって、ちょっと嬉しかったの」

「……どういうことです?」

「あなたを会長に推薦したとき、きっと私たちとは全然違う準備会になるだろうなって思ったから」


 雪花はゆっくりと繊細な花柄のティーカップを口に運ぶ。長い睫毛の影が頬に落ちている。その横顔が以前より大人っぽく見えて、ひよりはドキッとした。


「私は既存の制度を壊したくて、オーディションを透明性のあるものになんとか変えようとしたけど……今後もそれが続く保証なんてどこにもない。卒業してしまえば関わることも難しくなるでしょう」

「そんな……でも雪花先輩は将来的に事業を継ぐって」


 雪花は理事長の娘だ。祖父や父の作った悪習を壊したいと言っていた。ひよりには会社の経営などわからないが、雪花はこれからトリス学園の経営にも関わっていくものだと思いこんでいた。


「私一人でできることなんてたかが知れてる」


 雪花は静かに首を振る。


「もっと……私のかたい頭では想像がつかないくらい、めちゃくちゃにしてほしかったの。あなたたちならできると思った」


 ひよりはどう答えていいかわからなかった。自分は会長には相応しくないという気持ちは今もずっとあったからだ。すると、雪花は見透かしたように言った。


「あなたは碧の為にすぐに脚本を書いてきた。それは誰にでもできることじゃない。髪型やメイクもそう。あなた自身は大したことないって思ってるかもしれないけど器用さとそこに奢らずに必死に努力できるのは美徳よ。私は準備会や卒業制作を憎んで壊そうとしてたけど、あなたはちゃんと構築して運営しようとしてる。それがあなたを会長に選んだ理由」


 雪花の声は落ち着いていて流れるようだった。白い腕が伸びてきて、ひよりが膝で握っていた両手に重ねられる。


「だからもっと伸び伸びやってもいいのよ」


 ひよりは束の間、さまざまな感情の嵐に見舞われたあと脱力して笑った。


「なんか、碧先輩もですけど……ていうかそれ以上に雪花先輩も相当ですよね⁉」

「そう? 変なところが似ちゃったのね」


 碧が海外にいってからなのか、会長を辞めてからなのか、はたまた二人でたまに遊ぶようになってからか、雪花は前よりも開き直ってひよりと接するようになった。堅物の会長という第一印象は薄れつつあるが、天然でこれをしているなら相当厄介だ。


「大丈夫。私の服はあんなに自信満々に選んでくれたじゃない」

「服と一緒にしないでください」


 雪花はにっこり笑って紅茶のおかわりをすすめる。ひよりがソファに倒れこむと、机の下に伏せていているムエットの黒いつぶらな瞳と目が合った。



 ***



 雪花の家を辞すとひよりはその足で学校へ向かった。日曜日だが卒業制作にエントリーしていた他の脚本とデータを取りに行くためだ。星斗が玲央に辞退すると伝えるのは週明けになるだろうが、顧問には事前に伝えておいたほうがいいだろう。

 電車の中でひよりの頭はスケジュールを立てるのにフル回転していた。不思議と心はずいぶん軽くなっている。


 ──なんか、悩んでるのがばからしくなっちゃったな。


 雪花はめちゃくちゃにしてほしいだとか言うし、星斗も暴走するのはやめたらしいが結局こだわりを押し通している。みんな好き勝手にしているのだから、ひよりも変に遠慮しないことに決めた。

 せめて一人で追いつめられて、誰かを傷つけるようなことはやめよう。


 ──今できることをやろう。どんなに小さくて意味がなくても、わたしのために。


 学校につくと、ひよりは職員室に準備会の鍵を借りに行った。


「あら、一時間前に誰かがもう借りてますね」


 鍵の貸出名簿に書かれていたのは準備会の一年生の名前だった。今日は活動の予定はなかったはずだ。ひよりは首を傾げながら学園のはずれに向かった。

 しかし、準備会に近づくにつれひよりは冷汗をかきはじめた。名前の書いてあった生徒は前に悪口を言われていた二人のうちの一人だ。もう一人は先日退会届を提出していた。


 ──いや、大丈夫。なにを言われても、わたしはわたしの仕事をやるだけ。


 ひよりは意を決して準備会のドアを開けて中に入った。片づける暇もない雑然とした塔の中に人の姿はない、と思ったら後ろから足音がした。


「げっ」


 振り返るとあからさまに嫌な声を出して、その生徒は立ち止まった。やはり貸出名簿に名前の書いてあった生徒だった。


三砂みさごさん。なにしてるの?」

「会長! なんで……」

「なんでって、急ぎでやらないといけないことがあるから」


 三砂は手に持ったメモ帳を後ろに隠した。なんとなくバツの悪そうな様子を見て、ひよりは首を傾げる。


「忘れ物? 休日に入るならきちんと許可を……」

「先生には言いました。それより急ぎでやらないといけないことって何ですか?」


 まだ喋っている途中なのにきつい口調で言い返された。ひよりは怯みそうになる自身を叱咤して、毅然とした態度で卒業制作の脚本が変わるかもしれないことを伝えた。


「え? それってスケジュールとかも全部変わるってことですか? 最悪!」


 ひよりは三砂の様子を見て今ここで辞めると言われる覚悟をした。これを筆頭にさらに一年が減る可能性もある。


「もうちょっと早く言ってくださいよ!」

「え?」


 三砂は我慢ならないという風にメモ帳を床に叩きつけた。


「だいたい先輩たちが悠長すぎるんですよ! なんでこの土日休みにしたんですか?  

全っ然作業進んでないのに、信じられない!」

「それは……予定の調整をしてからじゃないとみんな動けないと思って……」


 ひよりは急に激昂した三砂に驚きを隠せなかった。ともかく床に落ちたメモ帳を拾う。落とした拍子に開いたページには準備会の備品や小道具の数が書かれていた。


「もしかして備品チェックしてくれてたの?」

「放課後だとバンドとか演技の練習で入りにくいんで! 来年から撮影に入るなら今からチェックくらいしておかないとまずくないですか? 準備会が使えないとか評判になったらこっちも困るんですよ」


 確かに最近は忙しすぎて、備品まで気が回っていなかった。ひよりは驚きとともに、自分以外にも真面目に活動に取り組んでいる生徒がいることに感動していた。


「三砂さんがそんなに準備会のこと考えてくれてたなんて……」

「誤魔化すのもだるいんで言いますけど、私は内申点のためなんで。あと時間を無駄にするの嫌いなんです」


 ひよりは塔の上で聞いていた会話を思い出した。それでも友だちが辞めてしまったのに自分の意思で残ってくれたのだ。


「うん、ありがとう」


 不覚にも目じりに涙が浮かんでしまう。ひよりが泣き笑いになりながら拾ったメモ帳を渡すと三砂は眉を寄せて不審げな顔をしていた。

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