第14話

 十月に入った。紅太郎は修学旅行前の説明会で星斗とひよりと一緒になった。希望の場所は北海道だ。星斗は暑いのが嫌だから、ひよりは旅費が一番安かったためだという。当然のごとく、班も一緒になった。


「やー紅太郎君たちがいてよかった。クラスの子はみんな海外だからさ……」


 他の場所に比べてすぐに行ける、または行ったことのある生徒の多い北海道は人気がなかった。百五十人ほどの学年の中で希望したのは一割程度、六割以上が海外を選択していた。


「トリスってお金持ち多いよねー、たまに友だちの会話についていけないもん」


 いつも明るいひよりが珍しく愚痴をこぼした。今は班ごとに自由時間の計画を練っている。星斗はトイレに行っていた。


「まぁわかってて入ったのは自分だけど……」


 ひよりはため息をついて机の上に突っ伏した。せっかく学費のかかるトリスに入ったのに、肝心の川瀬碧は退学してしまったため愚痴が出るのも無理はない。それにしても元気がなかった。


 そうこうしているうちに星斗がトイレから帰って来た。


「なに寝てんだよ」

「寝てないですー! さ、計画立てなきゃね。ちゃんと決めないと誰かさんが自由時間ずっとホテルの部屋で脚本書くとか言い出しかねないし」

「なんでわかった?」


 星斗の返事に怒るひよりを、同じ班になった他の生徒がなだめている。まるでコントのような光景だが、言い合いをしている姿はいつものひよりの威勢が戻っていた。案外、仲が悪いように見えてお互いに張り合いがあっていいのかもしれない。


「……紅太郎?」

「え? ああ、ごめん」


 一人で考えていると、星斗に不審げな視線を向けられる。紅太郎は慌てて返事をした。夏休みの最後にフラッシュバックして星斗の手を振り払ってしまったが、あれ以降は特に変わったこともない。

 きっと大丈夫だと紅太郎は自分に言い聞かせた。



 ***



 修学旅行の初日の夜、紅太郎は夢を見た。


 それは奇妙な家だった。引っ越す前に住んでいた家によく似ていたが、今の家にも似ているような、見たことのない古びた暗い家。


 紅太郎は二歳になったばかりの妹とリビングにいた。なぜかはわからない。

 ただ、父は仕事でおらず、母は生まれて数か月の弟と二階で寝ているのだということはわかっていた。


 ──かあさんを起こさないようにしないと。


 その頃、母は在宅で仕事をしながら幼い妹と弟の面倒をみていた。妹の菜々海ななみは弟の晴輝はるきが生まれてからというもの癇癪がひどくて、母はいつも疲れていた。


 小学校から帰って来ると、母はげっそりしてリビングに座り込んでいることがよくあった。紅太郎は遊びの約束をしていなければ、寝不足の母に代わって妹の相手をしていた。


「かあか」


 しかし、最初は機嫌よく紅太郎と遊んでいた菜々海はしばらくすると二階を指さして言った。


「かあかは寝てるからだめ」

 

 紅太郎が首を振ると、菜々海は怒って泣き出してしまった。紅太郎は菜々海をなんとか泣き止ませようとさっきまで遊んでいた人形やおままごとセット、絵本などを持ってくるが泣きながら投げ飛ばされた。


「こら! またとなりのひとに怒られるぞ」


 菜々海が頻繁に泣き叫ぶので、隣人からそれとなく苦情を言われていた。そのことも母の憂鬱に拍車をかけている。紅太郎は鼻水だらけになった顔をタオルで拭いながら声を低めた。

 しかし、そんな事情が二歳の菜々海にわかるはずもない。紅太郎は身をよじって暴れる菜々海と格闘した。


「しかたないなぁ」


 紅太郎は最後の手段として、普段は触らせない自分のお気に入りのおもちゃを出してきた。それは当時流行っていた恐竜を模したキャラクターのプラモデルで、鮮やかな赤色をしており、紅太郎が何日もかけて苦労して組み立てたものだった。


 菜々海は自分のおもちゃに飽きるとよくそれを触りたがった。興味があるというよりは、紅太郎が大切にしているとわかっていて試しているようなそぶりだった。

 学校に行っている間は菜々海の届かない引き出しの中に隠してある。紅太郎が出してくると菜々海は一瞬泣き止んで釘付けになった。


「ちょっとだけだぞ」


 紅太郎が差し出したプラモデルを、菜々海はよだれでベタベタになった手で受け取った。そのまま大人しく遊んでくれるかと思いきや、尻尾を掴んで振り回しながら勢いよく走り始めた。


 一瞬のことだった。

 菜々海はリビングから出る敷居につまづいて転び、一層激しく泣き叫んだ。恐竜のプラモデルは床に激しく打ち付けられて部品があちこちに飛び散った。


 ──もうだめだ。


 紅太郎の頭は怒りに支配されていた。火が点いたように再び泣き始めた菜々海に近寄っていく。西日に照らされた廊下は蒸し暑く、幼児と格闘した紅太郎は背中にじっとりと汗をかいていた。

 紅太郎はゆっくりと、菜々海の口に手をあてる。階段から人が降りてくる気配はなかった。


 次の瞬間、夢の場面が切り替わった。


 紅太郎は日が落ちた廃墟にいる。友だちと肝試しに行った病院の廃墟跡だった。一度誰かが怪我をして大人たちに怒られたあとは、誰も立ち入らなくなった。


「こ、こうちゃん……?」


 気がつくと小さい玲央が後ろに立っていた。紅太郎の心臓が音を立てて跳ね上がる。


「なにしてるの?」


 紅太郎は土だらけになった両手を隠すようにして振り返った。病院を回り込んだ

ところには雑草が生い茂る裏庭があった。紅太郎は恐る恐る下を見る。そこにはこんもりとした土の山があった。


 ──よかった。もうない。


 紅太郎はすでに埋めてしまったことにほっとした。途端に爪に入り込んでいる土の不快感と、眉間にチリチリした残り火のような怒りを感じた。


「お墓」

「誰の?」

「……〇〇〇」


 そう答えた瞬間、目が覚めた。



 ***



 修学旅行の二日目は自由行動だった。小樽散策で星斗と紅太郎はグループとは別行動で市街から少し離れたロープウェイへ行く予定になっていた。ひよりは紅太郎と星斗を二人っきりにするためグループの他の生徒と市内観光するつもりだった。


 しかし、当日になって紅太郎が一緒に行こうと誘ってきた。


「えー……でも、星斗君がお父さんと行った場所なんでしょ? 二人で行ってきなよ」

「星斗はいつか脚本の材料にするためのロケハンみたいなもんだからさ。ていうか、俺が今日星斗とあんま二人になりたくなくて……ほんと申し訳ないんだけど」


 紅太郎の顔は前日と比べて明らかに憔悴している。ひよりはさすがに心配になった。ロープウェイとバス代は出すからとまで言うので、断ってついて行くことにした。


 小樽駅からバスに揺られる車内でも紅太郎は星斗に話しかけられるのを避けている様子だった。


 ──ぜったいなんかあったでしょ。


 ひよりはタイミングをみて星斗に話を聞こうと決意した。

 ロープウェイに乗って、山頂に着く。星斗が神社へ行こうとすると、紅太郎は疲れたから待っていると言って停留所にとどまった。ひよりはチャンスと思い、星斗についていくことにした。

 

 神社は想像より小さかった。白い鳥居のなかにこぢんまりとした社があり、色づいた落葉樹が静かな境内に葉を落としている。てっきり山の奥で鬱蒼としているかと想像していたら明るい広場のようだった。


「ねぇ、紅太郎君となんかあったの?」


 星斗はあたりの景色を小型のビデオカメラに撮ったり、ノートに書きものをしたりしている。ひよりは寝ぐせがついたままの後ろ頭に問いかけた。


「なにもない」

「ほんとに? じゃあなんで……」


 紅太郎が星斗と一緒にいたくないと言うなんてよっぽどのことだ。ひよりは返ってきた短い答えに拍子抜けしながら、紅太郎の言葉をそのまま伝えるわけにもいかず語尾を濁した。


「さぁな。前からたまにああだよ」


 星斗は作業の手を止めることなく、なんでもない風に言った。


「ああって……気づいてるならなんか聞いたりしないの?」

「聞いてどうするんだ? 紅太郎の問題に俺は関係ないだろ」


 あまりにも冷たい返事にひよりのほうがショックを受けた。思わず紅太郎がついてきていないか周りを確認したほどだ。平日だからなのか、生徒はもちろん観光客もいない。時折、足元に落ちた枯れ葉が風に吹かれて音を立てた。


「さすがに冷たくない? 紅太郎君はいつも星斗君のこと考えてるのに……ひどいよ」


 ひよりは今まで幾度となく紅太郎が星斗への気持ちを話すのを聞いてきた。これではあまりに紅太郎が報われない。


「はぁ? なんで俺がひどいんだよ。それよりそこ映したいからどいてくれ」


 星斗は神社から展望台のほうへ行こうとしていた。ひよりは星斗の進路をふさぐように立っていた場所から駆け下りる。


「おい、どこいくんだ。まだ下りないぞ」

「知らない! 星斗君は自分のことだけ考えてれば?」


 ひよりは滑りやすい山道をなんとか降りていく。星斗は追いかけてはこないだろう。自分の脚本のことしか考えてないから──。なぜか悲しみがこみあげて涙が出そうになった。

 一年生に言われた台詞がよみがえる。


『なんか永尾先輩のほうがついていきたい感じ……』

『おせっかいなくせに頼りないよね』


 ──ひょっとして碧先輩も……?


 ひよりは長らく返事のない碧のことを考えた。碧の心の中にも自分は存在しない、あるいは邪魔な存在だとしたら──ひよりは勝手に紅太郎に自分を重ねてショックを受けている。


 ──私も自分のことしか考えてないじゃん……。


 星斗へ放った言葉がそのまま自分に返ってくる。いや、星斗の方が他人に興味がないだけましかもしれない。


 ──でも……あんまりじゃない。


 心を砕けば、そのぶんちょっとは報われてほしい。そう思うのは当然ではないのか。ひよりはまとまらない気持ちを抱えてロープウェイの停留所まで走っていく。

 乾いた秋の風が一つに結んだ髪の毛を揺らし、まわりの木々もざわざわと鳴らして去っていった。

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