第13話

 九月の半ば、ひよりは卒業制作の脚本が決まってから一年生の指導の合間に資料作りに励む毎日だった。週明けのその日も授業が早く終わったのを幸いと準備会の塔のバルコニーに上っていた。


 この場所は存在を知らない生徒が多く、気兼ねなく書類作成に集中できる。しかし、しばらくパソコンに向き合っていたひよりを眠気が襲った。週末はバイトで忙しく、次の日の準備もあって寝不足だった。

 ちょっとだけ、とその辺に敷いてある開いたダンボールの上に寝転がると固い床にもかかわらず、すぐに意識は遠くなった。


 どのくらい経ったのか、ふと下から人の声がして目を覚ました。


「えー誰もいないー」

「うそー。じゃあサボれるじゃん」

「なに言ってんの」


 塔の中に笑い声が響く。ひよりはぼんやりした頭で身を起こした。制服のスカートに変な皺ができているのを見てため息をつく。バルコニーの柵の隙間から下を覗くと、準備会の一年生が機材を置きにきたようだ。


 莉子が申請していた第二軽音部が承認され部室ができたため、準備会で借りていた教室を引き上げることになった。紅太郎が一年生を指導して今日中に移動を終わらせると言っていた。


「でもさー、実際最近ちょっとダルくない?」

「あーまぁね……」


 思わず、ひよりは耳を澄ませた。盗み聞きのようで気が進まないが上から呼びかけるのも気が引ける。何より会話の内容的に入っていける雰囲気ではなかった。


「準備会ってこんな大変だと思わなかったー。運動部でもないのに放課後結構つぶれるしさ……私もバンドのほう行けばよかったかなぁ」


 卒業制作が決まってから来年に向けての準備が本格的にはじまった。準備会もそれまで週一回の活動だったのが三回になった。ひよりたち二年生は手分けして一年生の指導に当たり、他の日に追いつかない分の作業をしている。


「でもあっちはあっちで厳しいらしいよ」

「そうなの? でも会長もなんか頼りないし……莉子先輩のほうがついて行きたい感じじゃない?」

「あー……」


 ひよりは聞こえてくる会話に心臓が掴まれる心地だった。寝ていたせいもあるのか、背中に変な汗をかいている。中学生の時、仲がいいと思っていた友だちが自分のことを悪く言うのを聞いた。それがきっかけで一時期教室に入れなくなったことを思い出した。


「まぁ内申点欲しいから続けるけどさー」

「進学に有利って噂ほんとなのかな?」

「嘘だったらガチでいる意味ないわ」


 機材を置いた二人組は笑いながら準備会を出て行った。ひよりは普段接している時と態度が違う一年生を見てショックを受けた。


 ──どうしよう……。


 そんな風に思われていたなんて。

 ひよりはもう一度パソコンを開いたが、様々な考えがよぎって書類は遅々として進まなかった。



 ***



「おい、何回言ったらわかるんだよ⁉ さっき言ったこと聞いてたか?」

「ご、ごめんなさい……!」


 莉子は星斗の怒声に気づいて練習の手を止めた。


 第二軽音部の部室は使われていない旧校舎の音楽室になった。莉子は吹奏楽部の物置になっていたそこを一日がかりで部員と片づけた。


「……一旦、休憩したら? そう頭ごなしに言われたってできるもんじゃない」


 その部室に星斗が毎日顔を出している。卒業制作に向けて玲央の演技指導をするというのだ。

 星斗はイライラしながら台本のページを叩いた。さっきから同じ場面を何度も繰り返している。莉子は見かねて口を挟んだ。


「撮影は来年からでしょ? まだ半年も先じゃないか」


 第二軽音部は準備会から独立して別の部活になっても卒業制作には全面的に協力する。それがひよりとの約束だった。

 莉子としても約束を反故にするつもりはない。

 しかし、決まって早々に星斗がつきっきりで玲央の指導にあたるとは聞いていなかった。

 

「悠長なこと言ってたらすぐだぞ。この調子だと半年でも間に合うか……来週は修学旅行でつぶれるし……」


 星斗はブツブツとつぶやいた。映画を完璧な作品にしたい気持ちが強いのだろう。莉子にもそれは理解できたが、練習している横で毎日怒られる玲央を見るのはいい気持ちがしない。

 現に他の部員たちからも星斗が来ることに対する不満の声が出ていた。


「それならこっちも言わせてもらうけど、文化祭までにバンドの練習を詰めなきゃいけないんでね。ほら、今日のところはお開きにしよう」

「り、リコちゃん! 僕、大丈夫だから……」


 それまで黙っていた玲央が二人の間に割って入った。莉子はまたか、とため息をつく。このところ毎度の流れだった。星斗が玲央を叱責し、莉子が見かねて口を出すと玲央が止める。


「ほら雲出もそう言ってるぞ」


 星斗は勝ち誇ったように宣言した。莉子は玲央の考えていることがわからなかった。卒業制作──ひいては紅太郎に協力したい、という一心なのか。脚本が決まってから、すっかり星斗の言いなりになっている。

 

「なら準備会に玲央を連れてってやってくれる? こっちはこっちで練習があるから」


 星斗はふん、と鼻を鳴らすと玲央を連れて部室を出て行った。玲央は出て行く前にちらっと莉子と視線を合わせる。一瞬だけおどおどしたいつもの玲央が消えて、口元に笑みが浮かんだように見えた。

 莉子が驚いている間に、もう玲央の姿は廊下から消えている。「か、烏丸先輩!」と呼びかける声が遠くから聞こえた。


「……莉子先輩?」

「あ、ごめんごめん! じゃあ練習再開しよう」


 後輩に声をかけられた莉子は我に返った。何気ない風を装って練習に戻りながら、内心で玲央に向かって問いかける。


 ──玲央、あんた何を考えてる?



 ***



 玲央から同じ高校を受験すると言われた時は意外だった。


「だ、だってリコちゃんもいるし、こうちゃんもいるから……それにトリスには寮があるでしょ? ぼ、僕、家を出たいんだ」


 中学三年生の玲央は莉子が驚いた顔をしているのを見て言った。紅太郎がトリス学園にいることを告げてからしばらく経っていた。


「いいんじゃない? 玲央が来てくれるなら私も新しい軽音部つくろうかな」


 意外だったのは紅太郎のことを告げた時の玲央の反応が微妙だったからだ。玲央がトリスを受験するのはもちろん嬉しかった。軽音部に見学に行ったものの雰囲気に馴染めずに結局入部しなかった莉子はぼんやりと新しい部活を作ることを考え始めていた。


「そ、それでね! リコちゃんにお願いがあって……ぼ、僕のこと、こうちゃんには内緒にしててほしい」

「まぁクラスも違うし……内緒も何も喋ることがないよ。でも、なんで?」


 莉子が何気なく聞くと、玲央は服の裾を手で握ってぐしゃぐしゃにしながら言った。


「あ、いや、あの……せ、せっかくなら僕が直接話しかけたくって。探してたってバレるのも恥ずかしいし……」

「ああ、そんなこと?」


 妙なことを気にするなと思ったが、深く追求はしなかった。その時点では莉子も玲央がどの程度の気持ちでトリスを目指すのか見極めがつかなかったからだ。

 しかし、玲央は本気だった。それまで決して成績のいいほうではなかったのに、次の模試でいきなり順位が上がったと莉子に連絡してきた。楽器の練習に付き合っていたから集中力と勘がいいのは知っていた。今までは勉強面に全く発揮されていなかったのだ。


「でも、僕すぐに忘れちゃうから……テストの時だけがんばるね」


 玲央は親に黙って受験の出願をしたと言う。莉子は家庭の事情に踏み込むべきか迷った。結局は受験までの短い期間に過去問を渡したり、勉強を教えることぐらいしかできなかった。


 「なんでそんなに益子紅太郎のことが知りたいの?」


 莉子が尋ねたのは玲央からクラスに来る紅太郎の様子を知らせてほしいと言われた時だった。開店前のライブハウスのカウンターで、玲央は過去問を解いていた。年が明け、受験まで三か月を切っていた。


 その頃になると玲央は毎日店に来て勉強していた。必死に問題を解く玲央はなにかに憑かれたようで、たまに莉子に紅太郎の話をせがむ。しかし、クラスの違う莉子に教えられることは少なかった。何人かひそかに好きだと言っている女子がいること、映画準備会に入っているらしいこと、クラスに幼なじみがいるようだ──すぐに話題は尽きてしまった。


「……内緒にしてくれる?」


 玲央は前髪の隙間から莉子を見て言った。不意に悲しいような冷たいような目で覗き込まれて、ドキッとする。


「え? あ、ああ……」

「僕ね、しょ、小学生の頃から霊感があるんだ。今は身長も伸びたけど痩せてて小さくて……昔から家に人が来ることが多かったんだけど、たまにお化けも連れてくるんだよ。親がなぜかそういう人を引き寄せるんだ」


 唐突に喋りはじめた玲央に戸惑いつつ、莉子は口を挟まなかった。玲央はカウンターに身を乗り出すと秘密を打ち明けるように耳元でささやく。


「うんと小さい頃は親に打ち明けることもあったけど、聞いてくれなかった。だいたい僕が言うことより、出入りするよく知らない人たちのほうが大事なんだ。ずっと僕はやっかいものだった」


 莉子はバンドの練習に来ていた玲央の父親が来なくなった時のことを思い出していた。玲央との練習を楽しみにしていたから、莉子は両親になぜ来なくなったのか聞いたのだった。


「あいつはいいやつだけど、昔から飽き性なんだ。まだ持ったほうさ」


 別に悪く言うわけではないが仕方ないという口調だった。また、同じバンドで活動していた人と父親が話しているのに聞き耳を立てたこともある。


「よそに女ができて家に帰ってないらしい」

「まぁ家に帰ってもずっと他人がいるんじゃなぁ」


 そんな会話から玲央の家庭の断片を拾うことはあっても、実際のところはわからなかった。


「こうちゃんはね、僕のヒーローだった。近所のみんなで肝試しに行った時も、怖がってる僕をみんな馬鹿にしてたのにこうちゃんだけは違った。たった一つ歳が違うだけなのに、上級生にもはっきり言い返してくれて……とてもかっこよくて、憧れてた」

「へぇ……」


 玲央の目は輝いていた。莉子は学校での紅太郎は愛想のいい、どちらかというと軟派な生徒に見えたので玲央の印象とは少し違った。成長して変わった部分もあるのかもしれないが、表面的なところしか見えない莉子よりも友だちだった玲央のほうが正しいのだろう。


「こうちゃんだけには何でも話してた。学校のこと、家のこと、親のこと……こうちゃんも話してくれた。こうちゃんのうちは妹と弟がまだ小さくて、なのに親は仕事で忙しくて大変なんだって。だから自分がしっかりしないとだめなんだって」


 それからも玲央は当時の記憶をまとまりなくしゃべり続けた。なにを話していたかほとんど忘れてしまったが、最後にこう言ったのを覚えている。


「こうちゃんがいなくなったあと、僕はまたひとりになった。前よりずっと寂しかった。だからもう一度取り返したい」

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