第8話

 湖は太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。ボートに乗ったり、犬を遊ばせたり、みんなリラックスして楽しんでいる。そのなかに準備会の一年生も混じっていた。

 益子ますこ紅太郎こうたろうは少し離れた木陰に立って一年生の様子を眺めていた。水に足をつけてはしゃいでいる声を聞くと、変な夢を見て不安だったのが嘘みたいに思える。


「こ、こうちゃん!」


 空の青と山の緑に囲まれた光景にぼんやりしていると、後ろから雲出くもず玲央れおの声がした。紅太郎はぎくっとして我に返る。平静を装って振り向くと、玲央がこちらに歩いて来るところだった。


「レオ、どうした?」

「あ、う、ううん……先に帰ってもらった。同じ部屋の人も付き添いで……歩けてたから大丈夫だと思うけど」


 紅太郎は途中で具合の悪くなった一年生の介抱を玲央に任せていた。


「ああ、そっか。ありがとな」


 他の一年生より先に準備会に入っていた玲央は部活紹介のライブ以降も気安い先輩のような感覚で頼られている。二年生の少ない現状ではありがたいことだった。


「暑いから気をつけないとな」


 紅太郎は玲央からさりげなく離れて一年生のところへ行こうとした。しかし、服の裾が引っ張られて、立ち止まる。


「こ、こうちゃん……今ってちょっと話せたりする?」

「おう。なに?」


 自由時間なのだから別に指導することがあるわけでもない。単に玲央から離れたかっただけの紅太郎は断るに断れず、木陰にとどまった。


「なんだよ、改まって」

「あ、あの、こうちゃんに避けられてる気がして……」


 玲央は直球で聞いてきた。紅太郎は手に変な汗をかきながら、なんとか平静を装う。


「気のせいだろ」

「そ、そっか……ならよかった。僕、こうちゃんに聞きたいことがあるんだ」


 湖面を渡ってきた風が玲央の前髪をなびかせて、隠れた目元が露わになる。頭上の木々がざわざわとこずえを揺らした。


「うん?」

「あの時、なんで僕に何も言わずに引っ越したの?」


 玲央は一度もつっかえずに紅太郎の目を見つめて言った。暗く冷たい視線に射抜かれるように紅太郎は立ち尽くした。


「……色々あって。ごめん、そのことはあんまり話したくないんだ」


 長い沈黙のあと、やっとそれだけ言った。


「……そっか」

「わるい」


 玲央に過去の話を蒸し返されるのが嫌で避けていたのは事実だ。自分で玲央を準備会に誘っておいて身勝手な話だった。


「それって……烏丸先輩にも言ってない?」

「なんで星斗の話になるんだ? 関係ないだろ」


 反省したのも束の間、紅太郎は怒ったような口調になる。実際イライラしていた。玲央が何を言いたいのかわからない。星斗は紅太郎の過去なんて興味がないし、紅太郎も話す気はなかった。


「ご、ごめん……僕、こうちゃんが引っ越したのは自分のせいなんじゃないかって思ってて……謝りたかったんだ。僕、あの頃ずっとこうちゃんについて回ってて迷惑だったでしょ?」


 玲央の発言が予想外で紅太郎は困惑する。同時に、昔の臆病な玲央のことを思い出した。


「そうだっけ?」

「うん。こ、こうちゃんは優しいから相手してくれたけど、ほんとは嫌だったんじゃないかって……」

「そんなわけないだろ」


 紅太郎はびっくりして言った。事実、玲央の心配は見当違いだった。


「ほ、ほんと?」

「引っ越しの理由は親の転勤だよ。急だったからレオに何も言えなくて悪かったけど……レオだけじゃなくて他の友だちに言う暇もなかったんだ」


 それは半分事実で半分嘘だった。木は森の中に隠せってそういう意味だっけ──などと、らしくもないことわざが紅太郎の頭に浮かぶ。星斗が聞いていたらもっともらしい解説をしてくれるだろう。


「よ、よかったぁ。ずっと気になってて……だからこうちゃんに避けられてるんだって」


 玲央は鼻をすすって涙声になった。紅太郎はそんなことを気に病んでいたとは夢にも思わなかった。


「悪かったな。早く言えばよかった」


 紅太郎は玲央を促して木陰に腰を下ろした。持っていたタオルを差し出す。


「汗臭いかもだけど……」

「う、ううん……ありがとう」


 玲央が涙を拭っている間、紅太郎は湖のほうを見ていた。不思議な気持ちだった。自分では早く忘れたいと思っていても、ずっと気にかけてくれる奴もいるのだ。玲央が特殊なのかもしれないが──。


「あ、あとね! ぼ、僕、こうちゃんと映画に出たいんだけど……」

「え⁉」

「だ、だめかな……? し、知ってる人とだったら緊張しないかなって……」

「悪いけど……」

「ちょ、ちょっと待って! その、こうちゃんが出たくないのは知ってるんだけど……僕がどうしても一緒に出たいんだ。だから……断る前にチャンスがほしい」

「チャンスって?」


 明日から映画制作の練習を兼ねてミニフィルムの撮影をする予定になっている。もう台本もできているし、すぐに断るつもりだった。しかし、あまりにも玲央が必死に言い募るので話だけは聞くことにする。


「も、もし、ミニフィルムができて烏丸先輩の脚本が卒業制作に選ばれたら……そうしたら一緒に出てくれる?」


 どうやらミニフィルムではなく、星斗の脚本で撮る卒業制作へ出てほしいということらしい。まだ選ばれるかもわからない。紅太郎はもちろん星斗の作品が選出されてほしいと願っていたが、自分が出演できるかは話が別だ。


「どうしてそんなに俺と出たいんだ? 俺が一緒じゃなくてもレオは十分やれるよ。それに出演しなくても撮影班として近くにはいるわけだし」


 玲央は首を振った。白黒まじりの髪が木漏れ日を反射する。


「違う! ぼ、僕はこうちゃんと映像に残りたい……」


 まるでだだっこのように玲央は言った。紅太郎は昔、服の裾をつかんで絶対に廃墟に入らせようとしなかったことを思い出して苦笑する。


「うーん……」

「ご、ごめんね……困るよね」


 玲央は足の間に頭を埋めて、うなだれてしまった。


「俺だって、星斗の脚本が選ばれたら嬉しいよ。それにレオが出演してくれるのも」

「ほんと⁉」

「うん」


 実際、画面の中の玲央には不思議な華があるし、脚本に悩んでいた星斗がインスピレーションを得たのは確かだ。紅太郎が出ると言うだけで玲央のやる気が出るなら安いものかもしれない。


「……わかった。星斗の脚本が決まったらな」


 玲央の顔が跳ね上がり、髪の間から見える目が見開かれる。

 いつまでも逃げ回るのはやめにしよう。玲央を避けていたために見当違いの思いを長く抱かせてしまった。対峙して乗り越えるしかないことをわかっていて、紅太郎はずっと先延ばしにしてきたのだ。


 向き合ういいきっかけなのかもしれない──。

 紅太郎が湖に目をやると、水面をなにかの魚が跳ねて波紋が広がっていった。遠くから一年生の歓声が響いてくる。そろそろ引き上げなくてはならない時間だった。 



 ***



 午後、烏丸星斗は練習中の音楽部門を訪ねた。玲央と翌日に控えたミニフィルムの撮影の打ち合わせをするためだ。

 

「じゃあ、紅太郎は映画に出るって言ったのか?」

「は、はい……烏丸先輩の脚本が通ったらって条件付きですけど……」


 会議室には星斗と玲央の二人きりだった。楽器の音がうるさいので莉子たちが練習している部屋とは別の会議室に移っている。すでに夕方と呼べる時間ではあったが、夏の日差しはまだまだ明るかった。


「そうか……」

「だ、だめでしたか⁉」


 星斗は紅太郎があっさり映画出演を承諾したのが意外だった。玲央に紅太郎が映画に出るよう説得しろと言ったものの、苦戦するだろうと予想していた。


 ──なんだよ、あいつ。俺が何回言っても駄目だったくせに……。


 玲央の熱意が紅太郎に通じたというのだろうか。これが恋の力ってやつなのか、と星斗は首を傾げた。

 しかし、なんにせよ玲央が紅太郎を口説き落としたのは喜ばしいことだった。星斗には紅太郎にやってほしい役の算段がすでにあったからだ。


「いや、よくやった。これであとはミニフィルムと脚本だけだな」

「は、はい!」


 星斗はもし紅太郎を映画出演させることができたら玲央と紅太郎を共演させるシーンを書くと約束していた。


「り、リコちゃんや他のみんなとミニフィルムに使う曲の練習をしてて……も、もう結構いい感じに仕上がってると、思います……」

「ああ、明日はよろしく頼む。演奏シーンが肝だからな。演技シーンのセリフは覚えたか?」

「え、えっと……覚えたんですけど……」


 玲央は言い淀んだ。星斗は台本に落としていた目を上げて玲央の顔を見る。玲央は居心地が悪そうに椅子を揺すると、目線をうろうろとさまよわせた。


「その……やっぱりイマイチ自信がなくて……ぼ、僕なんかでいいのかなって」


 星斗はため息をついた。打ち合わせをする度に何度となくこの調子になる。紅太郎と一緒に映画に出たいと言ってきた勢いはどこへ行ったのか。玲央は主役なのでいい加減しっかりしてくれなくては困る。


「まだそんなこと言ってるのか。俺の目を信じろ。ほら、やるぞ」


 玲央に足りないのは自信だけだ。物覚えはいいし、天性の勘の良さがある。ライブと普段のおどおどした態度とのギャップもいい。星斗は我ながら逸材を見つけたと自負していた。

 セリフが自然に出るくらい叩きこんで明日を迎えたいところだ。星斗は台本を開くと、玲央に読み合せを促した。

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