第7話

 六月に入り、はっきりしない天気が続いていた。

 窓を開けていてもじめじめした空気が入ってくるだけで、いっそ降れと思っていたら本当に降ってきた。


 烏丸からすま星斗ほしとは準備会の塔のバルコニーに上って、夏合宿で撮る予定のミニフィルムの脚本を書いていた。下では莉子りこ玲央れおが練習していてうるさくて集中できないからだ。

 いつもなら帰ってしまうのだが、ひよりがたまには全員で打ち合わせしないと困ると言うのでしぶしぶ残った。


 ──……閉めるか。


 ノートパソコンの上に落ちる雨粒が大きくなってきて、星斗は立ち上がる。下を向いていて気づかなかったが、いつの間にか横殴りに近い雨がバルコニーの床を濡らしていた。


 ひよりと紅太郎こうたろうは校舎の教室を借りて、一年生の指導をしている。急に増えた入会者を全員入れるのが不可能だと判断したためだ。しばらくはここと校舎を行き来しての活動になるという。


 ──いくら人数が集まっても素人ばっかりじゃな……。


 星斗は全開にしていた窓を一つ一つ閉めて回りながら心の中でつぶやいた。雨はみるみるうちに強まって顔に容赦なくあたる。最後の窓を閉めると雨の音が遠ざかり、かわりに階段を上がってくる足音が聞こえた。


「す、すみません! 作業中に」

「なんだ?」


 顔を出したのは玲央だった。びしょ濡れの星斗を見てぎょっとしたように立ち止まる。


「あ、雨! た、タオル持ってきます……!」

「いい。ある」


 星斗が引き返すと玲央もついてきた。鞄からタオルを出している間も答えが返ってこないのでむっとして振り向く。玲央はばたばたとガラスに当たる雨を眺めていた。


「で?」

「す、すみません!」

「用件を言えよ」


 わざわざ上がってきたのだから用があるのだろう。星斗は首かけたタオルで顔を拭きながらせっついた。


「あ、あの……ミニフィルムのことでお願いが……」


 玲央はなぜか内緒話をするような小さな声で顔を近づけてくる。髪に息があたってくすぐったかった。


「近いんだよ」

「あ、ご、ごめんなさい……」


 今度は極端に遠ざかる。星斗は人との距離感がわからなくて等しく距離をとるタイプだったが、玲央はわからないのに妙に近づきすぎるきらいがある。


「いいから。ミニフィルムがなんだって?」


 卒業制作の脚本選定に今年からミニフィルムの提出が加わった。全員が提出された脚本を全部読むのは負担が大きいだろうということで、短いイメージ映像とあらすじを発表する機会が設けられたのだ。


 星斗は玲央を主人公にしてミニフィルムの台本を書いていた。夏合宿で撮影をする予定なので要望があるなら早く言ってくれないと困る。脚本の提出締め切りは夏休み明け、発表は九月の予定だった。


「え、えっと……出演者って今のところ僕とリコちゃんだけなんですよね? ま、まだ決まってない役ってありますか?」

「ああ、何人か……でも一年生から出てもらうことになると思う」


 星斗はパソコンを開いて、ミニフィルムの台本の大まかな説明をした。内容はコメディだが雪花のアドバイスに従って恋愛要素を入れるか迷っている。まず玲央と莉子に許可を得なければならないが、迷っているので言えなかった。


「ぼ、僕、あの……こ、こうちゃんと一緒に映画に出たいんです!」

「……は?」


 星斗は濡れた髪を拭く手を止めて、バルコニーの手すりに頬杖をついた。


 ──またこいつ変なこと言い出したぞ。


「か、烏丸先輩にだけ打ち明けますけど……ぼ、僕、こうちゃんが好きでこの学校まで追いかけてきたんです! だ、だから、せっかくなら一緒に……」


 どこかで聞いたことのあるような話だ。まさか紅太郎にもそんな熱心なファンがいたとは。いや、あいつはポテンシャルだけはあるからな──などと星斗は考えた。


「紅太郎は映画には出ない。俺が言っても駄目だったんだ」

「え? そうなんですか。なんで……」


 背が高くて声の通る紅太郎に出てほしいのは星斗も同じだった。玲央と莉子が入る前にも打診したが何度言っても断られた。


「さぁ。本人に聞いてみれば」

「か、烏丸先輩は……こうちゃんと付き合ってるわけではないですよね?」


 玲央は髪の毛の隙間から真剣な目で星斗を見つめて言った。また距離が近くなっている。


「はぁ? どっからそんな発想になるんだ」


 星斗は半歩下がって答えながら、そういえば去年の夏に紅太郎に告白されたことを思い出した。が、これ以上事態を面倒にするのは避けたい。星斗が黙っているのをどう受け取ったのか、玲央は息を吐いた。


「そ、そうですよね……よかった」

「雲出は紅太郎と付き合いたいってことか?」

「え? い、いえ! そこまでは、まだ……」


 玲央はわかりやすく頬を染めてうつむいてしまった。その時、星斗の脳裏にある考えが閃いた。


「そうか! いいかもしれない」


 うまくいけば雪花の言っていた恋愛要素を脚本に取り入れることができるかもしれない。それもごく自然な形で──。

 星斗は雷に打たれたように固まったあと、口元に笑みが浮かべた。玲央は急に黙ってしまった星斗に首を傾げている。


「オマエ、合宿で紅太郎を口説くんだ!」

「え、え?」


 いつの間にか季節には早い驟雨が去って、嘘のように窓から日が差していた。



 ***



 夏合宿の初日、永尾ながお莉子りこはバスで訪れた避暑地の景色に何度目かの感嘆の息をもらした。すぐ近くに富士山が見え、空気は澄んでいる。


 ──贅沢なことで。


 ひよりの話では理事長が経営する会社の保養所を使わせてもらっているとのことだった。これが毎年の恒例行事というのだから驚きである。参加費は交通費と食費くらいで決して高くない。


 莉子は音楽部門希望の一年生たちとともに楽器を運び込み、練習している最中だった。ホールのある大きな施設内には複数の会議室があり、そこの一室を使わせてもらっている。


 ──軽音部だけだったらこんなとこには来れなかっただろうな。


 練習の合間に一息ついていると、外から賑やかな声が響いてきた。莉子が窓の外を見るとコの字型になった施設の中央に生徒たちが出てきていた。


「あ、そっか! これからレクリエーションでしたっけ?」


 うしろから一年生の誰かが声を上げる。正確にはレクリエーションという名の遊び時間だった。近くに湖があるらしい。希望者は時間になったら集合するように言われていた。


「そうだったね。じゃあ一旦解散しようか」


 弾んだ声の一年生たちを拘束しておくのもかわいそうだ。莉子が呼びかけると、何名かの生徒が連れ立って出て行った。残った一年生も自由時間にすると、会議室に残ったのは莉子と玲央だけだった。


「なにソワソワしてんの」

「り、リコちゃん……」


 玲央は窓の外を眺めては行ったり来たりしている。


「そんなに気になるなら一緒に行ってきたら?」

「え、で、でも……」


 さっきから紅太郎の大きな声が聞こえていた。一年生を引率して湖に行くようだ。夏休み前から紅太郎と話す機会がないと嘆いていた玲央にとって合宿は貴重な機会だった。


「ほら、せっかくだから! 行ってきな」

「う、うん……あ、ありがとう!」


 莉子に押されて、やっと玲央は会議室から出て行った。いよいよ出発しそうな紅太郎の声に廊下を駆けていく足音が重なった。


 ──まったく。世話が焼ける……。


 玲央は長い執念でトリスに入ったにも関わらず、いざ紅太郎と対面すると怖気づいてしまったのか側で見ていてやきもきすることが多い。


 特にすることのない莉子はジュースでも飲もうと食堂に向かった。ほとんどの生徒がレクリエーションに行ってしまったのか人気がない。雑然と並んだテーブルのなかに、ぽつんと一人で座っているひよりの姿があった。


「おーす」

「あ、莉子ちゃん。おつかれ!」

「それ昼?」

「そーみんなの指導してたら食べ逃しちゃって……」


 ひよりは菓子パン片手に集めたプリントの確認をしている。昼食時は調理員が来るが、それ以外の時間は自分たちでなんとかしなければいけない。パン持ってきてよかった、とつぶやくひよりを見て莉子はため息をついた。


「烏丸君は?」

「あー部屋じゃないかな? ミニフィルムの台本直すとかなんとか」

「ちょっとは手伝ってもらえばいいのに」


 星斗はせっかく合宿に来たにも関わらず、ずっと部屋に引きこもっている。ただでさえ上級生が少ないのに、と莉子は苦言を呈した。ひよりが昼食の時間も削って指導にあたっているのに不公平ではないか。


「引っ張ってこようか?」

「うーん……でもミニフィルムの企画は全部星斗君に投げちゃってるからなぁ」


 もともとの人手不足に加えて急に一年生が増え、全員が無理をしているということだった。


「大丈夫だよ。わたしがご飯食べ逃すくらい」

「ならいいけど……」


 ひよりの口調には諦めたような響きがあり、莉子はそれ以上何も言えなかった。


「それより莉子ちゃんの方はどう? 順調?」


 急に明るい声でひよりが言った。

 莉子と玲央は部活ができるまで準備会の音楽部門として活動することになった。入部希望者の一年生は五人。そのうち三人は部活紹介でボーカルをした玲央目当てに入っており、若干浮ついた様子だ。しかし残りの二人は純粋にバンドがしたいようで練習にも積極的だった。


「そっかぁ。やっぱそうだよねぇ……」


 ひよりは準備会のほうも半数くらいの一年生は遊び目的で合宿に来ており、勉強会に不満げだと言った。


「合宿を前に打ち出し過ぎたかなぁ」

「ハードルを下げ過ぎるのも考え物だね」


 楽しい行事には誰だって参加したい。一人でも多く人員を確保したかった準備会は発表でも楽しい活動をクローズアップして紹介していた。遊び目的で入ってくる生徒がいたとしても仕方ないのかもしれない。


雪花せつか先輩だったらもっとうまくまとめられたんだろうな……あ、前の会長ね」

「全部そううまくいくわけないよ。去年のことは知らないけど、状況が違うだろ」


 話をしたあと、自動販売機でひよりの分もジュースを買って渡した。今はこれくらいしかできそうにない。ひよりが喜んでいたのが幸いだった。


 莉子は会議室へ戻る廊下を歩きながら、窓の外を見る。高原の風が涼しく吹き抜けていった。玲央は紅太郎と話せただろうか、とふと思った。

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