第3話

 雲出くもず玲央れお紅太郎こうたろうと話をしたあと、実家に帰った。まだ寮に運び込まなければいけない荷物があったからだ。しかし片道三時間かけて帰って来ると、疲れて部屋で眠ってしまった。

 起きた時にはもう夜だった。


 部屋から出て階下に降りると、父の後ろ姿がダイニングにあった。てっきり母だけかと思っていた玲央は飛び上がりそうになる。戻ろうかと踵を返しかけたが、母と目が合ってしまい足を進めるしかなくなった。


「か、帰って来てたんだ」

「おう」


 風呂上りの父親の腕や首に刺青がまた増えている。子どもの頃は服を着れば見えない位置にしかなかったのに、一緒に風呂に入ることもなくなった今ではどのくらい広がっているのか想像もつかなかった。


「レオも一緒にご飯食べちゃって」

「う、うん……」


 玲央は普段、父と食卓を囲むことがあまりない。長距離ドライバーの仕事で帰ってくる時間が決まっておらず、ほぼ家にいないのが常だった。

 

「……入学式、どうだった?」


 ぼそりと低い声で聞かれて、玲央は特に意味もなくスマホに落としていた顔を上げる。斜め前に座っている父親は食器を脇にどけて、スポーツ新聞を読んでいた。


「え! えっと……ふつう……あ、こうちゃんに会ったよ!」

「こうちゃん?」


 玲央の前に食事を並べながら、母が驚いた声を出した。


「こうちゃんって……もしかして、小学校が一緒だった?」

「そ、そう! 僕、仲がよかったでしょ」


 父は無反応だ。十年も前に短い時期だけ仲良くしていた子どものことなど覚えていないのだろう。玲央もそれは十分に承知していながら、会話の一端にでもなればと無理に話を振っていた。


「……ほら、あの転校していった子。まぁアンタはどうせ覚えてないか」

「ああ?」


 母のため息に、父は露骨に不機嫌な声を出した。空気がよどむ気配を感じた玲央は矢継ぎ早に喋り出す。


「そ、それでね! ぼ、僕、こうちゃんと同じ部活に入るかも……」


 最近、父が金を勝手に貸して逃げられたせいで母はピリピリしている。滅多に帰ってこないのも本当は仕事ではなくどこかに逃げているのだと察していた。


「そうなの? でも、リコちゃんとバンドするんでしょ?」


 運よく母が話に気をとられたようでほっとした。両親は冷え切った仲というわけではなかったが、時々派手な喧嘩をする。大抵母の文句に嫌気がさした父が家を出て行くのがお決まりだった。


「う、うん……そうだけど、人が足りないらしくて……なんか協力できないかなって。せ、せっかく会えたから」

「おー、人助けはしたほうがいいぞ。俺がながさんに言っといてやるよ」


 なぜか急に機嫌のよくなった父に背中を叩かれて、玲央は愛想笑いを返した。


「え、えへへ……ありがとう」

「また、適当なこと言って……」


 玲央はほとんど冷めてしまった食事を急いで口に詰め込むと立ち上がった。


「もういいの?」

「う、うん。ギターの練習したいから」


 食器をシンクまで持っていくと、早々に部屋に引っ込む。

 しばらくすると、案の定階下から両親の言い争う声が聞こえてきた。玲央はヘッドホンをアンプに繋ぐと、ギターの練習に集中するために長い息を吐く。

 

 ──大丈夫。こうちゃんにも会えたし、これからはきっとうまくいく。



 ***



 朝、烏丸からすま星斗ほしとは通学電車で脚本を書いていた。正確に言えば、北山きたやま雪花せつかにダメ出しされたプロットを直している。そこへ紅太郎が肩を叩いた。


「なんだよ」

「ごめん、集中してたか?」

「別にいいけど……」


 学校近くの駅まで一時間ほどの通学時間は紅太郎にとっては睡眠時間で、星斗にとっては貴重な執筆時間だった。そんな紅太郎が今日は珍しく起きている。


「紹介したいやつがいるんだ」

「紹介?」


 唐突に言われて星斗は首をかしげた。

 主要駅を過ぎると郊外の山奥へ向かう電車はぐっと人が少なくなる。桜の季節はあっという間に過ぎ、車窓には明るい新緑が映っている。


「こないだ入学式のあとにビラ配りしたんだけど……昔の知り合いに偶然会ってさ。それで……勧誘したら準備会入ってくれるかもって」

「朗報だな」


 向いに座った登山客らしき二人組が窓の外を指さしながら呑気に喋っている。

 星斗はその様子を見るともなしに見ながら、先日の雪花とのやりとりを思い出していた。準備会の課題は山積みで──星斗にとって多くはどうでもいい事柄ではあったが──人員の確保もそのひとつだった。


「それで?」

「え? あー……えっと、来週の放課後にでも準備会に来てもらおうと思うんだけど……」

「ああ。いいんじゃないか?」


 話が終わったかと思って再びノートに目を落とすと、紅太郎に腕を掴まれた。


「ほんとに?」

「なんだよ。人手足りないんだから早い方がいいだろ」


 星斗はやっと紅太郎の様子がいつもと違うことに気づいた。電車が日陰に入り、赤茶色の薄い瞳は暗く思いつめたような表情になっている。目の下にクマの跡が濃い。星斗は不可解だった。

 顔に出ていたのか、紅太郎はっとして手を引っ込めた。


「そっか……いや、ごめん。少ない人数でやっていくんだからひよりさんはともかく、星斗は相性とかあるかなって……」

「俺は大抵の人間とは相性悪いぞ」

「まぁそうだけど」


 即答されて星斗は隣に座った紅太郎の足を軽く蹴った。作業を再開するのは諦めて、ノートを鞄の中にしまう。


「また変な心配してんのか? 大丈夫だよ。俺だって二年になったんだし、ちょっとは先輩らしくするさ」


 脚本が卒業制作に選ばれたら今度は配役オーディションに演技指導、いかに星斗といえど人間と全く関わらないわけにはいかなくなる。別に誰彼構わず喧嘩を売っているわけでもないのに紅太郎は変な方向に心配性なのだ。

 釘を刺すつもりで星斗は断言した。


「……そ、そうだよな」

「うん」

「わかった。じゃあ来週来てくれるように言っとくな」


 紅太郎は気を取りなおしたように言った。表情も明るくなる。


「そういえば、会長……じゃないや、北山きたやま先輩に脚本見てもらったんだよな? どうだった?」


 星斗は苦々しく顔を歪める。はっきりしないアドバイスのせいでプロット修正が難航していたからだ。紅太郎が隣で吹き出している。


「その顔は……ダメ出しされた?」

「アイツ、意味わかんないことばっか言いやがって」


 電車にいるはずないのに紅太郎は焦ったように辺りを見回した。雪花は寮に住んでいる。そう言うと、どこに耳があるかわからないからちょっとは周りを気にしろと怒られた。


 そうこうしているうちに、車内アナウンスがトリス学園の最寄り駅の名前を告げる。星斗はひよりに頼まれていた部活紹介の原稿をすっかり忘れていることに気づいた。

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