21.温もり

 心は確かに夜空に昇っていった。けれども返した気がしないのは、泣いたためだろうか。

 やがてシュメルヴィはゆっくりと塔を下りて行った。夜空が遠のく。心がさらに遠のく。

 これから自分は、どうなるのだろうか、と考えながら。

 元に戻る――それはどうなっていくのだろうか。

 あの夕日を、もう美しいと感じられなくなるのだろうか。『街』の笑顔が、気持ち悪いと思わなくなるのだろうか。

 風の吹かなくなったオアシスというよりは――完全に時の止まったオアシスになるのだろうか。

 時が止まり、色も明度も温度も関係なくなった水。水面。

 かつんと、最後の階段を下りる音が響いた。そうして塔を出れば、門の外に出たところに、変わらずレクサルとエンケがいた。エンケは手を振る。そしてレクサルはいつものあの笑みを――。

「……レクサル?」

 シュメルヴィは、立ち止まった。

 レクサルは、いつもの笑みを浮かべているだろうな、と思ったのだ。

 けれども、違った。

「……レクサル」

 シュメルヴィが駆けよれば、レクサルは間違いなく、真顔だった。何かを隠しているかのような顔。

 すっと、エンケがその場から一歩離れたが、シュメルヴィは気付かなかった。ただ、親友に明らかな異変が起きていて、それでいっぱいで。

「どうしたの、レクサル……変な、顔をして」

 変な顔――思えば『星憑き』になった際に、よく言われた言葉だった。

 けれどもレクサルは『星憑き』ではないし、十五歳になった夜はとうに迎えているはずだ。レクサルの心は、ないはずだ。レクサルの星はないはずだ。

「……どうもしないよ?」

 レクサルは口を開くものの、表情は変えない。真顔のまま。その黒い瞳に、シュメルヴィを映している。

「……星は返したの? シュメルヴィ。そのためにここに来たんだけど」

 と、まるでそう話し続ける人形のように、その言葉を繰り返す。

 本当に、何ともないのだろうか――不安であるものの、シュメルヴィは頷いた。

「星は……返したよ。僕は、元に戻るんだ……これでもう、僕は苦しまなくて済むし、誰かを傷つけなくても済む……」

「そう……」

 その声は。

 確かに、何かの感情があった。

 安堵したものではなかった。

 ――悔いるかのような声。

「そっか……」

 その声は、寂しがるかのような声。

 レクサルの瞳に映るシュメルヴィの姿が、揺らいだ。揺らいで、こぼれて。

「……レク、サル……?」

 シュメルヴィは、目を疑った。

 レクサルが。心がないために、何も感じないはずの、レクサルが。

 ――泣いていた。涙を流していた。

「あれ……目が変だ」

 レクサルは真顔のまま、目を擦る。その手が涙に濡れる。と、その手をじっと見て、やがて顔を歪ませて。

「あれ……僕……僕……」

 レクサルは確かに泣いていた。しゃくりあげて、子供のように泣き始めた。

「レクサル……レクサル……どうして……」

 その涙は刃物のようにシュメルヴィに刺さった。刺さるはずの心はもうないというのに。

 レクサルに伸ばしたシュメルヴィの手は、震えていた。

 何かした覚えはなかったが、自分が何かしたのは、確実な気がした。

「わからない」

 はっきりと、泣きながらもレクサルは言う。

「わからないんだ。何だか、急に寒くなった気がする」

「寒くなったって……」

 ここは、寒くもなく、暑くもないけれども。それでもレクサルは。

「――多分、旅が終わっちゃったから。どうしてそう思うのか、わからないけれども旅が終わっちゃったからだと思う」

 白い砂は、涙を吸って、色濃く染まる。星の囁きは、遠い。

「僕、変な事言っていい?」

 レクサルは顔を上げた。涙を流したまま。そしてシュメルヴィの返事も待たなかった。

 明らかにおかしな行動だった。

「僕……楽しかったんだと思う。色々あったけど……温かくて。それがもう、ないなんて」

 それは明らかにおかしな言葉。何が楽しかったというのだろうか。

 まるで、心があるかのような。

 気付けばシュメルヴィは震えていた。

 ――レクサルの苦しみが、悲しみが、伝わってくるようで。

 レクサルが、苦しんでいる。

「……これから先、僕は、君が怒ったり泣いたりするところを、見られないんだね……多分ね、僕は、それが好きだったんだ。ころころ子供みたいに顔を変えて、声を上げる君が」

 そして、彼は。

「……寂しいよ、シュメルヴィ」

 シュメルヴィは、ただ困り果てて、やがてレクサルの涙に濡れた手を握った。

 涙は熱かった。レクサルの手は、冷たかったけれども。

 涙は確かに熱を持っていたのだ。

「……心がなくても、人間は、心の器」

 シュメルヴィがエンケを見れば、エンケは目を伏せて頭を横に振った。

「シュメルヴィ君……おそらくレクサル君は、君の中にあった星の温かさを、心がなくても感じていたんだ。心がなくては影響を受けないけれども……でも、君の心の温かさが、心のない者へも、移っていたんだ……温まっていたんだよ、心がなくても。心は、影響を与えるものだから」

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