19.祈りの塔
――星を、返したい、と。
外の騒動が治まり、エンケが家に戻ってきて少しして、シュメルヴィは答えを出した。いますぐにでも、心を返したい、と。
「そのために、僕は来たんです」
シュメルヴィはあの最初に案内されたあの部屋で、再びエンケと向き合っていた。レクサルは宿代わりの部屋に置いてきた。そうしたのは、自分でちゃんと決めたかったからだ。
そのために、僕は来た――自分の声が、頭の中で響く。
そう、そのために来たのだ。このままでは『街』にいられないから。
……心を持ったまま、『村』に残る選択肢もあったかもしれない。それでも。
「……僕はもう、誰かを傷つけたくないから」
心は影響を与えるもの。暴走すると、また、誰かを傷つけてしまうから。
そうして心は影響を受けるものでもあり、暴走すると、またそのことに、心は影響を受けるのだろうから。
……いままで、経験してきたではないか。
他人を傷つけて苦しめるだけではなく、その事実に、自分も苦しみを覚えた。
「……君はもしかして、レクサル君のことを考えてるのかい?」
と、エンケは尋ねてくる。
レクサル。親友。一度、とても危険な目にあわせた。どんなに自分が喜んでも、憎んでも、謝っても、伝わらない相手――シュメルヴィが頷けば、エンケはあたかも試すように、
「でも、レクサル君に心はないよ。彼は、痛みを感じない……『街』の人、全員のように」
痛みを感じない、か――それはきっと、嘘だ。
「……血は出ます。それに、レクサルに心がないから、心に影響を与えられないといっても……それが、僕に跳ね返ってくるような気がするんです」
だからこそ、返したいと思ったのだ。
心がないから傷つかないといっても、身体は傷つく。心がないから痛まないといっても、自分は確かに、誰かに痛みを与えようとしていた。
心は、いいこともたくさんあるかもしれないけれども、そう考えれば――ない方がいいと、思ったのだ。
そもそも自分は、最初から心なんてなかったのだから。
もとに戻るだけ。もとに戻るだけ――全てが、正常になる。
誰かに痛みを与えることを対価に見る夕焼けに、何の意味があるのだろうか。
「……そうか。わかった……こうなることは、なんとなく予想してたよ。『街』から来た『星憑き』は、文献によると、悩んだとしても、皆、星を空に返していくそうだから……」
やがてエンケは、立ち上がった。
「意地悪な質問をして、悪かった……ただ、星を空に返してしまうと、後悔することもなくなってしまうみたいだから、本当にそれでいいのか、聞きたかったんだ……」
エンケは少しだけ、俯いていた。それでも顔を上げれば。
「君は、友達を大切に思っているからこそ、そう答えを出したんだね……それこそが、心だよ」
……それからしばらくして。
エンケはシュメルヴィを連れて『村』を出た。少し離れた場所にあるという『祈りの塔』を目指して。今度はレクサルも一緒だった。
三人はピオニーにも乗らず、砂漠を歩く。シュメルヴィが先を見れば、夜空を背負うような、黒く背の高い影が見えた。白い砂の上に、すっくと立っている。近付いていけば、それは確かに塔で、周りは柵に囲まれていた。
「……ここが、『祈りの塔』だよ」
エンケが、門の前で立ち止まる。『祈りの塔』は、遠くから見ると影になって黒に見えたものの、白い塔だった。古びているように思えるが、その白さに濁りやくすみはない。どことなく、昨日できたばかりの塔にも思えた。それでも、外壁の一部は崩れていて、中が見える。
大きな塔かと思ったが、そうでもなかった。高さは、『街』にある星見塔よりも低いだろう。けれどもエンケは微笑んで塔の頂上を指さした。
「この『祈りの塔』は、一番空に近い場所でね……私達『村』の人間は、子供が生まれた際には、この塔に赤ん坊を連れて行って、一度取り上げられてしまった心を、天に返してほしいと願うのさ」
「……でも、思ったより小さい塔ですね。天に近いらしいですけど……『街』にある星見塔や、大きな建物より、小さいと思います」
淡々とレクサルは言う。するとエンケは笑って。
「物理的には通りかもね。でもここは、確かに天に近い場所なんだよ。深く結びついている場所なのだから……大昔、人々はこの塔の頂上で、心はいらないと天に願った。そして星の降らない場所も願った……だからここは、天に一番近い場所なんだ」
それからエンケは、シュメルヴィの背を軽く押した。シュメルヴィが見上げれば、エンケはとても優しい顔をしていた。
「それじゃあシュメルヴィ君……この塔を上って、頂上で星はいらないと願ってごらん。そうしたら、天は願いを聞いてくれるから……」
本当に、そんなことで『星憑き』は治るのだろうか。疑問に思いながらも、それでもシュメルヴィは門をくぐった。門をくぐって、塔の中へ。
行ってみたいと、思ったのだ。
天に近いといわれる、その場所へ。まるで、呼ばれるかのように。
……一人、シュメルヴィが塔に入っていき、その後で、レクサルが我に返ったように足を進め始めた。
「ああ、君は私と一緒にここで待っていよう」
すぐさまエンケはレクサルを引き止めた。
と、その時だった。
「……レクサル君?」
思わずエンケは目を見開いた。対して、レクサルはいつもと変わらない声で言う。
「どうか、しました?」
けれどもそのレクサルの顔に、微笑みはなかったのだ。
少し戸惑って、それでもエンケは頭を横に振った。
「いや……なんでもない。とにかく、君は塔にはいっちゃだめだ、シュメルヴィ君一人で行かせよう。ここは神聖な場所だし……彼は、心を失うのだから」
「……心を失う、ですか」
一歩前に出ようとしていたレクサルが、足をひっこめた。そして大人しく塔を見上げた。
「……変な感じがしますね」
それでもレクサルは、未だに微笑んでいなかった。まるであの微笑みのやり方を忘れたというように。
だからエンケは、俯いてしまった。
――何が起きているのか、エンケは徐々に、わかりはじめていた。
だが。
「……シュメルヴィは、これで元に戻れるんですよね。そう望んで。『星憑き』は、心があることは、よくないことだと思って」
レクサルは、笑みを作った。
「……早く帰ってきてくれるといいなぁ。さっき別れたばかりなのに、どうして僕、いまこんなにも会いたいって思っているんだろう」
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